2016年12月29日木曜日

新たな装いで主にぬかずく

ちいろば先生「旧約一日一章」より

あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。
(創世記35章2節)

ヤコブはシケムの地に祭壇をたてて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名付け、イスラエルの神こそ神であることを告白した。しかしこの地で彼は思わぬ事件に出くわし、追われる身となった。これが娘ディナにまつわる忌まわしい事件である。
ヤコブは神の声を聞く。神はベテルに上り、そこに祭壇を築けとヤコブに言われた。思えば金100を持って買い取った土地と祭壇がシケムに地にあった。ベテルに上るということは、これらのものを捨てることを意味している。

自分を過去の行跡から断ち切ることはいかに難しいことであろうか。私たちは神のみ旨を知りつつも、なおそこにとどまってしまうことが多い。なかなか一度手にしたものを捨て去ることなどできないものである。

しかし神に出会うためにはベテルに上る必要がある。そこに神の家があるからである。
ヤコブは家族たちに言う。「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。われわれは立ってベテルに上り、神に祭壇を造ろう。」
この言葉にヤコブの信仰心を見ることができる。これまでの長い歩みで身につけた神々を捨て去り、まったくむなしいものとなって、神に出会おうと決心したのである。ここでいう異なる神々とは、心を奪われているものをさす、例えば、お金や土地、家族、これがないと生きていけないと思い込んでいるものをいう。

主の許しによって、どんなに過去から自由になったとしても、古いままでは神と交わることはできない。内にある異なる神々、すなわち自己中心の思い、お金や地位や名誉、身分など、これがないと生きていけないと思うものを捨て去り、身を清め、着物を着替えて、新たな装いで主にぬかずく。
主の下僕(しもべ)がとるべきことが書かれてあった。

願わくば
わたくしにも主の名を崇めさせてください。
天に主の名が轟きわたっているように、
この地にも主の名がおよびますように。
私をお使いください。
主の御名によって、お祈りをお捧げいたします。
アーメン

2016年10月20日木曜日

主を賛美しよう

主よ 主よと
主を求めますが・・・
病気を治してください
癒してください
大学に合格させてください
結婚させてください
とか
主の恵みと平安を
とか
祈り求めますが・・・

もっともっと
ほんとは大変重要なことがあるのです。

主を信じ
祝福を受けたのですから
主が良くしてくださるのは当然です
もうすでに恵みを送ってくださっています

だから
それを終生追い求めるのは
やめにして
もっとするべきことをしましょう

イエス様のことをもっと深く
知る必要があります。
イエス様って、どんな人かな・・・
そんな気持ちで聖書を読んでみましょう
そして
イエス様のことがわかったら
その次は・・・

イエス様に身をまかせてみましょう
イエス様だったら、どう行動する?
イエス様だったら、どう考える?
イエス様だったら、どう答える?

イエス様を着る・・・と言えばわかりやすいかな

自分を高くするでなく
自分を低くするでなく
何をやったかではなく
行いによるのではなく

主を賛美しましょう
主の御国を褒め称えましょう
主に従い
主のなさることを自分もする
主がなさらないことは自分もしない

ただそれだけ
シンプルな生き方なんです
クリスチャンて

2016年10月13日木曜日

慎み深く、かつ大胆に

ちいろば先生「旧約一日一章」より

デナはその地の女たちに会おうと出かけて行った。
(創世記34章1節)

私たちの生活は人間という言葉が示すように、人との交わりなくしては成り立たない。
しかしレカブ人たちはカナンの地に住みながら、信仰の純粋性を守る為に、異教のカナン人との交わりを絶ち、荒野をさまよう生活をしていた。彼らはカナンの地を神から与えられたものとして受け取るべきであったのに、世から逃れることだけを考え、世につかわされていることに気がつかなかった。それゆえに彼らは滅んでしまった。

私たちもこのレカブ人のようになりやすい。信仰の純粋さを守ることばかりに気を取られ、神からこの世につかわされた者であることを軽視する。神の子が僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられて世に生まれ、罪人と交わりを持たれたように、私たちも積極的に世に出て行く者でなければならない。

しかしデナは神につかわされないのに、「その地の女たちに会おうと出かけていった」のである。彼女は、エレミヤが偽預言者について語ったように出かけていき、その結果、世のとりことなり、自分も相手も、そして自分の兄弟たちをも罪におとしいれたのである。

主のとりなしの祈り「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守ってくださることであります」(ヨハネ17章15節)

私たちも、このように慎み深く、かつ大胆に世に生きる者となりましょう。

(中山感想)
高みばかり求めていると、兄弟姉妹の欠点ばかりが目についてしまいます。
そうではなく、むしろ彼らに使える僕(しもべ)の態度をとりましょう。
イエス様は、弟子たちの足を洗われましたよ。



2016年9月4日日曜日

大切なことは「静まってあなたこそ神である」と主に向かって告白すること

ちいろば先生「旧約一日一章」より

そこに祭壇を建てて、これを
エル・エロヘ・イスラエルと名づけた。
(創世記33章20節)

 ヤコブはエサウが四百人を率いてくるのを見たとき、非常な恐れを感じた。一方で単純素朴な兄エサウは弟ヤコブを認めるや、走り迎え、彼を抱き、泣いて喜んだ。

 ヤコブの心は穏やかでなかったのだが、これは兄エサウを騙したこともあるが、それ以上に、「お前の国へ帰り、お前の親族に行け、私はお前を恵もう」と言われた主の約束の言葉を忘れたところにあった。

 しかしその後、ヤコブはシケムで祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。イスラエルの神は神であるという意味である。彼はここで祝福の神を思い出し、もう一度その神の前に立ったのである。

 大切なことは、いつでも「静まってあなたこそ神である」と主に向かって告白することである。

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(中山感想)

 ヤコブも狡猾で酷い男であるが、次の34章を読むと分かるように、彼の子孫も酷い。娘が陵辱されたということで相手の部族の男たちを皆殺しにするような奴らである。なんでこんな酷い奴らが聖書に載っているのだろうか。しかし神様はご自分の栄光をお示しになるために、こんな酷い奴らでもお用いになられるのである。いや、酷くてどうしようもない奴らだからこそ、主の栄光はますます光を増すのである。

主の学びを感謝します。
アーメン


2016年8月26日金曜日

主に捧げるための贄

とうとう、イスラム国の攻撃目標が、具体的に「クリスチャン」になってしまった。
いや・・・むしろ、だからこそ主に捧げる贄としての意味を持つのではなかろうか。

神は悪をも使われて、私を試されます。
生きやすい道と、狭く険しい道・・・
私には、わたし自身が主に捧げるための贄であったと証しする時が来るのでしょう、きっと。
それとも使徒ペテロのときがそうであったように、キリストを知らないとでも言い張るというのでしょうか。
しかし、そうやって生きのびることに意味などありません。
そもそも主からいただいた命なれば。
そもそも罪にまみれて死んでいた命です。
惜しくはありません。

(ルカによる福音書22章61〜62節)
61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
62 そして外へ出て、激しく泣いた。

イスラム国のプロパガンダ誌「ダビク」第15号は、「十字架をへし折る(Break the Cross)」という題名。そう、彼らの攻撃目標が、具体的に「クリスチャン」になっています。
この号におけるイスラム国の掲げた目標:
1.イスラム国の指導者が、終末をもたらす。
2.「十字架をへし折る」つまり、中東、西側諸国、世界中のキリスト者を虐殺し、地上からキリスト教を抹殺する。
3.キリスト者を憎む理由を六つ掲げ、究極の目標を述べ、全勝利を到達するまでキリスト者を殺害することを止めない理由を説明。
だそうです。
ダビクの中に、日本を標的にすることは以前、発表しました。そして今、キリスト者を標的にすることを、彼らの終末思想、彼らのイスラム教信仰によって明白に表明しています。

2016年8月23日火曜日

古い自分からの解放

ちいろば先生「旧約一日一章」より

あなたはもはや名をヤコブと言わず、
イスラエルと言いなさい。
(創世記32章28節)

イスラエルとは「神勝ちたもう」という意味だそうだ。ヤコブとは「押しのける」という意味だそうで、確かにヤコブは兄を押しのけ、叔父を押しのけた狡猾な人物であった。彼は自分のためにすべてを押しのけ、今や多くの富を得ることができた。しかし今や彼は故郷を前にし、兄との再会をひかえて「大いに恐れ、苦しみ」、不安におののいていたのである。

 ヤコブは、この不安の中でヤボクの渡しをわたり、一人の人と組打ちをした。その組打ちは夜明けまで続き、ヤコブの腿(もも)を強打された際に関節が外され、彼は歩行困難になってしまった。それでも彼は相手が帰るというのに「私を祝福して下さらなければ、帰しません」と言い、しがみついて離れなかった。闘いの相手の人は、ヤコブに名を尋ね、これからは「あなたの名はイスラエルです。あなたが神と人に力を競って勝ったからです」と言われた。


 ヤコブは押しのける者から、イスラエルすなわち神勝ちたもう、神にうち勝てる者への転換を果たした。古い自分から解放され、神にある人生に新しくされたのである。

 主イエスはゲッセマネで「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈った(マタイ26章39節)。そのときイエスは苦しみもだえて「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22章44節)。また「そのとき、み使いが天からあらわれてイエスを力づけた」(ルカ22章43節)と記されている。神の子が神に勝たれるにさえこれほどの苦しみと助けが必要であったのである。

 信仰生活とは、神に勝たれる人生を送ることである。常に神のみこころが優先される生活である。いっさいが神にゆだねられることである。そのとき、私たちは神を仰ぎ見て「力あるかたが、わたしに大きなことをしてくださった」と神をあがめることができるのである。

 あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさいと、主はきょうも私たちに語りかけておられるようである。

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(中山の感想)
ヤコブが闘っていた相手はおそらく、み使いである。主はヤコブがどれほどの思いで行動しているのかを試された。そしてヤコブは肉の闘いから解放され、神とともに歩む人生を選択することができた。イエス様でさえ、これから肉の身におきる死の十字架の苦しみから逃れるために、ゲッセマネにおいてみ父に祈り、血の汗を流し、天使が勇気づけてくれ、やっと自分の運命を克服されたのである。わたしも、日頃の暮らしむきの自慢、つまり仕事や家庭や財産、地位、名誉、ほまれなどを自分と思い込んでいることから離れ、ただ主の道備えに従い生かされていることに感謝する自分でありたい。

主よ
あなたが道をお示しになってください。
わたしは僕(しもべ)ですから、すなおに従います。
いま生かされていることに感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月20日土曜日

神の語りかけに従順であるということ

ちいろば先生「旧約一日1章」より

主はヤコブに言われた、「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい」
(創世記31章3節)

 アブラハムには行きなさいと命じられ、ヤコブには帰りなさいと語られた。神はいつも、その人に向かって語られるかたなのである。また、ガリラヤの漁夫シモンに「ついてきなさい」と言われた主が、お共をしたいと願い出たゲネサレの人に向かって「あなたの家族のもとに帰って・・・」(マルコ5章19節)と命じられたのと同様である。

 信仰とは家を出ることでもなければ、家に帰ることでもない。主の語りかけに従うことである。

 「忙しくて礼拝に出ることもできない」と嘆く人がいる。礼拝に出ることを慕い求めることは尊い。しかし、今おかれている場所において神の語りかけを聞き逃すことは愚かな行為である。神はどんな境遇の人にも使命を与え、その人に語りかけてくださる。それを聞き分け、み言葉に聴き従い生きること、それが信仰である。

 ヤコブはずるい男である。しかし彼は神の語りかけを聞いたとき、決然とそれに従ったのである。大事なことは神の語りかけに従順であるということ。

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(中山の回想)
そういえば、ここ半年の動きがめまぐるしい。とくに大きな問題もなく勤務していた病院をとつぜん辞めて老健施設で働きだしたかと思えば、今度はとつぜんそこを辞めさせられたりして、もう看護師はこりごりだと思ってまったく異業種の工場勤務をやり始めたら、また主からの語りかけがあり、それに応じて精神看護に戻る道を探し始め、いまは新築の病院で素晴らしいスタッフに恵まれ、患者さんにも頼りにされる仕事に就いている。ここに主の道備えを感じないわけにはいかない。すなおに主に感謝し、わが使命を全うするのみである。はてさて主からの次なる命令は、とどまれなのか、旅立ちなさいなのか、わたし・僕(しもべ)は命令に従うのみである。ここ最近のわたしの行動を追っている兄弟姉妹や牧師にも、私が仕事を辞めると言ったり、戻ると言ったりして、ご心配をかけてしまった。私は気違いでもなければ、気分屋でもない。ただ主に聞き従っているだけである。

主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月19日金曜日

理由なき神の愛

ちいろば先生「旧約一日一章」より

この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。
(創世記30章43節)

 旧約においては、女性が子供に恵まれ、男性がその事業に繁栄することをもって、神の祝福のしるしとしている。しかしレアとラケルが競い合って夫ヤコブの子を産もうと卑劣な手段を用いたり、ヤコブのラバンに対する狡猾な手段をみるにつけ、彼らはまったく神に愛された人物としてふさわしからぬものである。しかし神はヤコブに大いなる富を与え、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つことをゆるし、彼に対する祝福を惜しまれなかった。

 聖書にはこのような逆説的な事柄が多く記されてあり、私たちはその解釈や理解に戸惑うことがある。神は良いことをしたら報酬を与え、悪いことをしたら罰を与えるような、人の自由になる神ではない。なぜ神はカインの供物を顧みず、アベルの供物をよしとされたのか。なぜ主イエスはパリサイ人の家に泊まらず、取税人ザアカイの家に泊まることにされたのか。なぜ父親は、親孝行な長男には一度もしたことのない宴会を放蕩の末に帰ってきた弟のためにしたのか。私たちはその理由を理解することができない。

 しかし、愛とは理由を求めないものではなかろうか。根拠を無視した業(わざ)ではなかろうか。この不条理、この矛盾こそ、真実な愛の本質ではなかろうか。

 「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」(ローマ9章15〜16節)

 使徒パウロは神がヤコブを愛し、エサウを憎んだことに関してこう記している。もし神が人間の意志や努力によってのみ報いたもう方であるならば、私たちは絶望するよりほかにない。なぜならば私たちはだれも神の愛や祝福を受けるだけの権利を持っていないからである。神が理由なく、ただご自身のゆえに私たちを愛され祝福してくださるゆえに、私たちに希望が与えられているのである。まさに私たちは「恵みにより、信仰によって」救われたのであり、神の賜物なのである。

 このように、悪どいヤコブを愛し祝福したもう不条理の神こそ、聖書が証しする神であり、私たちはこの神ゆえに、希望をもって生きていけるのである。

アーメン

2016年8月16日火曜日

あなたは本当にわたしの骨肉です

ちいろば先生「旧約一日一章」より

そこでヤコブは、すべての事をラバンに話した。
(創世記29章13節)

 ヤコブは父をだまし、兄を裏切り、その怒りを逃れて、はるばるハランの地にある叔父の家にたどり着いたのである。彼はこれから叔父の好意を美しい娘ラケルの関心を得なければならない。そのようなときに、彼は「すべての事をラバンに話した」のである。何一つ隠さず、狡猾さを秘めた自分の本当の姿をすべてさらけ出したのである。

 いったい彼はどうしてそのような大胆さに生きることができたのであろうか。それは彼があのルズびにおいて、神から「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り・・・」という言葉を聞いたからである。彼はそこで自分を赦し、愛したもう神に出会ったのである。そのとき、彼はもはや自分からさえ自由になることができたのである。

 けっして好ましいとは言えないヤコブの経歴を聞いた叔父は、なんと「あなたは本当にわたしの骨肉です」と言ったのである。本当の交わりは真実に生きることであり、真実は自分からも自由になることで初めて生きるようになるものである。

 主イエス・キリストの十字架は、もはや私たちに隠すことを不必要とした。すでにどんなに罪悪に満ちていようとも贖われたのである。ここに立つとき私たちはお互いに「あなたは本当にわたしの骨肉です」という交わりを生み出していくことができるのである。

2016年8月14日日曜日

何よりも大切なことは「すぐ」ということ

ちいろば先生「旧約一日一章」より

ヤコブは朝はやく起きて・・・
(創世記28章18節)

 信仰とは、神の語りかけを信じて生きることである。どんなことよりも神の言葉を確かとして生きることである。「わたしは道であり、真理であり、命である」との主の宣言を「アーメン」と受け入れることである。

 しかしヤコブにとって天涯孤独のルズの野は決して天の門、神の家とは思われなかったように、私たちにとっても、神の言葉は決してたやすく受け入れることのできるものではない。パウロは「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである」(Iコリント7章31節)と戒めている。

 ヤコブは、朝まだ夢の覚めやらぬとき、この世の知恵も人の声もはいってこないときに起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。信仰が逆戻りしないように、彼はすばやく歯止めをしたのである。信仰生活にとってこれが大切である。

 私たちが主の弟子としての養いを受けるため、何よりも大切なことは「すぐ」ということである。それはいかなる感動にもまさること。

 「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4章7節)。朝は私たちにとってみ言葉への従順をあらわす時であるゆえ、黄金の時である。

2016年8月12日金曜日

誰もが祝福されるとは限らない

ちいろば先生「旧約一日一章」より

「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」
(創世記27章38節)

 ヤコブは母の狡猾な陰謀の手先となって、父からその祝福をだましとる。兄エサウはそれを知り、心ひそかに弟の抹殺を計画する。このような相克こそ実は私たちの生きている現実である。現実をふまえた信仰でなければ、それは単なる理想主義である。聖書の中にこうしたリアルな物語が記されていることこそ大切なことなのである。
 
 それにしても盲目の父をだましたヤコブが祝福を受け、正直に父の言葉に従って山野を駆け巡り、父のために真心から料理を用意したエサウが祝福からもれるということは、私たちの理解に苦しむところである。しかしこの物語の中にこそ、神の峻厳さが告白されていることを見落としてはならない。エサウは父に向かって「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」と声をあげて泣いたと記されている。ある旧約の学者は、このエサウの涙は、わなにかかった獣の叫びのように、聖書中最も哀調に満ちたものである、と語っているが、まことにそのとおりである。しかし、ここにエサウの神に対する不真剣さが示されている。

 「祝福はただ一つだけですか」と語る彼の言葉には、祝福に対するルーズさが顔をのぞかせている。「わたしをも祝福してください」という言葉の中に、救いについて彼のあまさが感じられる。

 主イエスのたとえの中に、十人の乙女の話がある。あたふたと油をととのえて帰ってきて、「ご主人様、ご主人様、どうぞあけてください」と叫ぶ乙女に対して、「わたしはあなたがたを知らない」という返事はまことに残酷である。しかし天国や祝福にはこのような峻厳さがあるのである。そのゆえにきょう一日を精いっぱい主に向かって生きること、これが信仰の要諦である。

ーーーー
中山考察
しかしヤコブの狡猾さはどうだろうか、兄エサウのふりをしてまで、父の祝福を代わりに受け、それが父にバレているのに、父はヤコブを叱らない。わたしはここに、神の意志を感じる。単に早く生まれただけのエサウに長子の権利を与え、国々を納める覇者となることを神はお許しにならなかった。エサウはすぐに逆上する。感覚に支配されやすい彼の性格は、「おまえはおのれの剣(つるぎ)によって生き、おまえの弟に使えることになる。」と父イサクがエサウに語ったように、彼は暴力と継続的な紛争にあけくれることになる。そこで神は(押しのける・かかとつかみ)という意味の名を持つヤコブを祝福された。

主よ
神は哀れみの神であるだけでなく、
信仰するものに峻厳さを示してくださることを
ここに学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月9日火曜日

大事なことはきのうも、きょうも、あすも変わらない

ちいろば先生「旧約一日一章」より

彼らは言った、「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ました」
(創世記26章28節)

 ペリシテ人の王アビメレク一行はベエルシバのイサクのところに来ていた。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちである。彼らは主がイサクと共におられ祝福されるのを見て、神に適することができないことを悟り、和睦を申し出たのである。まことにイサクは戦わずして、主にあって勝利したのである。

 われわれは主があなたと共におられるのをはっきり見ました。まことにあなたは主に祝福されたかたです。なんと素晴らしい賞賛の言葉、私たちのまわりの人々は、私たちを見たとき、このように語るだろうか。

 一人の中風のものがイエスに癒され、彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの前を出ていったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。(マルコ2章12節) 伝道の秘訣はここにある。私が変えられること。主が私と共に生きてくださること。そのとき人々は目をみはり、神をあがめ、主を信じるにいたるのである。私たちが変えられず、祝福されず、主が共に生きてくださるというしるしがともなわず、論のみでは人は救われない。人を救うのは生ける神のみである。

 今日の伝道の困難さは、キリスト者であるわれわれが、しっかりと主の祝福にあずかっていないことにある。

 大事なことはきのうも、きょうも、あすも変わらない。それは私たちが主の祝福にあずかることである。「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」(ペテロ13章9節)。何よりも祝福にあずかる者とされている恵みに立って励もうではないか。

主よ
私たちはすでに主の恵みのなかにあります。
私たちはすでに主にあって変えられ、祝福され、主が私たちと共に生きてくださっています。
それを自覚する我々でありたいと思います。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月8日月曜日

祈りの力

ちいろば先生「旧約一日一章」より

イサクは妻が子を産まなかったので、
妻のために主に祈り願った。
(創世記25章21節)

 神の約束を待つ者にと言って、まことに一日は千年にまさる思いである。どこまでも神の約束を信じ待つことができるか否か、信仰はその戦いである。あのアブラハムにして神を待ち抜くことができなかった。彼は妻のすすめを受け、はしためハガルによってその子を見ようとしたのである。それほど神を待つということはむつかしいことである。

 しかしイサクは父の轍を踏まなかった。人間的な解決をはかろうとしなかった。どこまでも彼は神の言葉の成就を待ったのである。イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った、と聖書は記している。祈りだけが、人間をしてどこまでも神を待たしめる力である。

 私たちの信仰生活で祈りが忘れられている時、私たちはこの世の子になっている。祈りの枯渇は教会の危機である。イサクが最も人間的な問題にまで徹底的に神を待ち望んだように、私たちもすべてにおいて神を待つ者となろう。そしてイサクが祈りの人であったように私たちも祈りに生きる者となろう。信仰生活にとって祈りの生活ほど自分をためされるときはない。そしてこれほど自分を強めてくれるときはない。

主よ
祈りの力を与えてくださり感謝します。
主イエス・キリスとの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月7日日曜日

すべてを捨てて、従いまつらん

日曜礼拝 8月7日
米村牧師説教より

平和をつくるものは幸いです。
その人は神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ5章9節)

 平和を《つくるもの》は幸いである、と言われたのである。平和を愛好するものとは書かれていない。《つくるもの》になるには、命を捧げることである。

 戦地に赴いた日本兵、300万人もの戦争に捧げた人々がいた。そうでなければ、こんなに長い平和はこなかったのかもしれない。日本が戦後になぜこんなに早く復興が進んだのか考えてみると、戦地におもむき生きて帰ってきた人々はきっと、戦死した友を思い、彼らに恥じない国をつくろうと思って頑張った。

 神に献身・捧げること、これがすなわち平和をつくること。
すべてを捨てて、従いまつらん。

神の御子にますイエス」 新聖歌397番(聖歌582番)
https://www.youtube.com/watch?v=57FvnVvHjv4

神の御子にます イェスのために
罪を敵として 立つは誰ぞ
すべてを捨てて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

富の楽しみと 地の位に
目もくれずイェスに つくは誰ぞ
すべてをすてて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

罪に捕らわれし 魂をば
イェスに連れ来る 勇士は誰ぞ
すべてを捨てて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

わが持てるものは 主よ汝がもの
きよき御戦(みいくさ)に 用い給え
すべてを捨てて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

アーメン



ただ主の助けによって始められること

ちいろば先生「旧約一日一章」より

主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう。
(創世記24章7節)

 アブラハムが僕に、息子イサクの嫁探しを命じた地は、わたしの国すなわちアラム・ナハライムであり、そこはカナンのような痩せた土地ではなく、豊穣の地、メソポタミア文化の都として後世まで名を残した地である。そんな所から息子の嫁探しをして、このような田舎の地に嫁候補を連れてきなさいと言われたのであるから、僕(しもべ)は「あなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきか」と疑問を発したのは当然のことだろう。若い娘がこのような田舎の貧しいところへ来るだろうか、と僕が思ったのは、もっともなことである。

 主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう。イサクは決して故郷に帰ってはならなかった。ならばどうして彼は妻をめとることができようか。アブラハムは「主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう」ということだけが頼りであった。否、このことこそ、彼の立ち所であったのである。

 アブラハムはイサクをモリヤの山にともなったときも、神だけをたのむことができたゆえに彼はモリヤに行け、との主のみ言葉に従うことができたのである。

 イエス様から天国にはいることのむつかしさを聞いて、「では、だれが救われることができるだろうか」と弟子たちがつぶやいたとき、主は「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない」と教えられた。(マタイ19章26節)

 信仰とは、このような神にたよって踏み出すことを意味する。それはただ主の助けによって始められることである。恐れたり悩んだりすることは愚かである。いつでも主は信じる者の前にみ使いをつかわして、その歩みを助けたもうものである。

主よ
本日はイサクの嫁探しを通して、どのように主と接したら良いかを学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月5日金曜日

喜べ、今が恵みの時である

ちいろば先生「旧約一日一章」より

サラの一生は百二十七年であった。
「創世記23章1節」

 私たちは、サラのあまりにも人間的な姿にふれ、ほんとうにこれが信仰の母なのかと疑いたくなる。彼女は自分に子供がないことを憂えて下女ハガルを夫に与え、その女が子を孕むやいなや、嫉妬に燃えて彼女につらくあたり、その後自分にも子供が与えられると、下女の子と遊ぶことを快しとせず、夫をそそのかして、あわれな母と子を追い出す。また天の使いが神の約束を告げたとき、それを笑い、そのことを咎められるや偽って、自分は笑わないと否む。このようなサラがなぜ信仰の母と呼ばれるのであろうか。

 しかし、サラの素晴らしさは彼女の人格によるのではない。神の選びによるのである。彼女が信仰の父アブラハムの妻として選ばれたことにあるのである。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない」(エペソ2章8〜9節)。ただ彼女がアブラハムの妻として、彼と共にいたところに彼女の光栄のゆえんがあったのである。

 「サラの一生は百二十七年であった」と聖書には彼女の年齢が記されてあるが、聖書に出てくる夫人のなかで、年齢が記されているのはサラだけである。これはサラが偉大であったからではなく、その命の数が恵みの数であり、恩寵の累積であった。これが聖書に彼女の年齢が記されている理由である。

 神により選びを知り、ゆるしを知るにまさる知恵はない。サラの百二十七年がことごとく神の恩寵であったように私たちの生涯もまたことごとく主の恵みである。

今が恵みの時であることを喜ぼう。
今日が救いの日であることを感謝しよう。
たとえ今がどんな時であろうとも。

アーメン


 

2016年8月4日木曜日

神ご自身の手で十字架にかける痛み

ちいろば先生「新約一日一章」より

この幼な子のように自分を低くする者が・・・
(マタイ18章4節)

 現実の子供は無欲どころか貪欲で、しかも純真無垢であるとは到底思えない。イエスがここで言おうとしているのは、子供が純真であるかどうかではなく、小さい者になるということである。

 いっさいのものを捨てて従っている弟子たちにもなお欠けたものがあった。それが自分を低くするということであった。これは私たち信仰生活をしている者にとって大切なことである。小さいということは許されていることである。現実の世界においても、小さい者の一人が滅びないように願っていくという働きが求められている。

 私たちの教会においても、捧げている献金が自分の身を痛めるほどのものかどうか考えてみると、痛まない程度にというふうな便宜主義に陥っていないだろうか。神がひとり子イエスをこの世に送り、神ご自身の手で十字架にかけるということは、痛まない程度などというものではない。私たちはイエスの十字架の重み、神の愛、それらに対し事実を持って応答していくこと、そこに教会生活があると思う。

マイナスが取り除かれた

ちいろば先生「旧約一日一章」より

地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。
(創世記22章18節)

 アダムは祝福の園から出て呪いの地に住むようになった。然るにアダムの子孫である我々は数字に例えるならマイナス( )のような存在である。故に( )内の数の増加は負の増大となる。聖書に「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増すものは憂いを増す」(伝道1章18節)と記されている通りである。

 アブラハムは老年となって、「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」との約束を得た。これはのちのイエス・キリストをさす言葉である。キリストの十字架によって( )の前のマイナスが取り除かれたのである。もはや( )内の数の増加は負の増大とならない世界に私たちは入っている。

 私たちはイエス・キリストによって、祝福にあずかるべく召されているのである。このことを喜び、そこにしっかりと立って生きるところに私たちの栄光がある。また、もろもろの国民へ伝える使命がある。

2016年8月3日水曜日

イエスの言葉を聞くこと

ちいろば先生「新約一日一章」より

これに聞け。
(マタイ17章5節)

 私たちの信仰に力が出てこないのは、画像に映し出されたイエスを見ているからであって、私に近づき、私に手をおき、私の内から悪霊を追い出してくださるイエスに出会わないからである。

 私たちは、神に何かをしようとし、ペテロが「ここに小屋をを三つ建てましょう」と言ったように、せめて小屋ぐらいは神のために建てようと考える。しかし、私たちにとって大事なことは、何かをするというのでなく、イエスの言葉を聞くことである。聞くということは、聞き流すということではなく、聞き従うということである。

 私たちはいつもいろいろな声を聞いている。ある時は神の声を、ある時は自分の内なる声、本能の声、勝手気ままな声を聞いている。しかし、その中でいつも神の声、キリストの声を聞き、それに従っていくことが大事である。

 神の言葉にかけていくということは、一つの恐れを起こすものである、聖書にこう書いてあるから私はそうするのだというふうに立ち上がっていくと、恐れが出てくる。しかし、その恐れのなかで、手をおいて「恐れることはない」と言ってくださるイエスに出会うことができるのである。


神に笑わせていただく者

ちいろいば先生「旧約一日一章」より

主は、先に言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行なわれた。
(創世記21章1節)

 私たちの神は言われたように、告げられたようにその約束を成就してくださる神なのである。その神の約束をただひたすらに待ち望んでみ言葉に生きるところに、私たちの信仰があるのである。

 しかし、神の約束は私たちの状況に基づいて語られるものではない。神の全能に基づいて語られるものである。信仰とは、人間の側に立ちながら、神の側に望みをおいて生きることである。神の側に生かされることである。サラが「神はわたしを笑わせてくださった」と告白しているように、神にあって笑う人生に生かされることである。

 聖書にあるように、神はいつの時代にも、誰に対しても真実をもって愛してくださる方である。それゆえに、私たちも神の約束を笑う者ではなく、神に笑わせていただく者とせられたいものである。キリスト者の勝利とはこのことである。

2016年8月2日火曜日

邪悪で不義な時代はしるしを求める

ちいろば先生「新約一日一章」より

そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。
(マタイ16章18節)

 自分が信じようとしないで、いつまでも観客席にいてふんぞり返り、なるほど神は愛だと言ったのでは、イエスが私たちのために十字架につかれたことを信じようとしてもできるものではない。牧師の説教を聞いて、また有名な本を読んで信じるようになろうとしている場合が多い。もちろんそれは一つの導火線になるかもしれないが、それで信仰を持ちつづけることができるものではない。 

 また、神がイエス・キリストにあって召し集められ、私たちをつかわされるという教会であるがゆえに、私たちの教会は神によって保たれてきたのであり、これからも神によって保たれていくのである。そこに私たちが教会を愛し、教会に属することに大きな意義を見いだしていくゆえんがあると思う。


神は天地の主であると信じること

ちいろば先生「旧約一日一章」より

この所には神を恐れるということがまったくないので・・・
(創世記20章11節)

 アブラハムはゲラルの人々を信頼することができなかった。神を恐れるという共通の広場を持たないゲラルの人々は何をするかわからない、そいう不安が彼をしていつわりの人となさしめたのである。
 しかし、神は私たちが信じるから存在するのだろうか。神は私たちが恐れるから、その力を持たれるのだろうか。断じてそうではない。神は私たちが信じようが信じまいが存在したもうのであり、私たちが恐れようが恐れまいが、神はみこころをなしたもうのである。アブラハムはこのことに気がつかなかったのである。

 今日私たちも、ただ相手の人ばかりを見ていたのでは、そこから対話の世界を作り出すことはできない。相手がどのようであれ、神は天地の主であると信じるときにのみ、私たちははじめて互いの信頼関係をつくり出すことができる。そこから対話を生み出すことができる。神を信じて生きること、それは私たちの生存の根本である。

2016年7月29日金曜日

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル10章36節)


ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
(ヘブル10章35節)

2016年7月28日木曜日

Lord's Prayer 主の祈り

Our Father, Who is in heaven,
Holy is Your Name;
Your kingdom come,
Your will be done,
on earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread,
and forgive us our sins,
as we forgive those who sin against us;
and lead us not into temptation,
but deliver us from evil. Amen.
Matthew 6:9-13)


天にまします我らの父よ
願わくば
御名をあがめさせたまえ
御国をきたらせたまえ
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯すものを我らが許すごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らを試みにあわせず
悪より救い出したまえ
アーメン
(マタイ6章9-131節)

2016年7月27日水曜日

主の自慢の子として

これは私たち兄弟姉妹のことを、主ご自身が公言されておられる姿です。
教会の中で主は、私たち兄弟姉妹のことを賛美してくださっています。
すっごいことなんですよ。
王の王・主の主に「私の兄弟たちよ」と言われたわけですから、他に何もいりません。
主は仰いました。「私は彼に信頼する。」「見よ、わたしと神が、わたしに賜った子たちは。」、主についていきます。どこまでも。

heb2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
heb2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
heb2:13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
(ヘブル人への手紙2章11〜13節)

主よ
喜んでお受けします。
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

成熟を目ざして歩んでいく

み言葉を本日、いただきました。
ヘブル人への手紙6章

heb6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、
heb6:2 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
heb6:3 神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。
heb6:4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
heb6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
heb6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
heb6:7 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
heb6:8 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
heb6:9 だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
heb6:10神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御吊のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
heb6:11そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
heb6:12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
heb6:13 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
heb6:14 こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」
heb6:15 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。
heb6:16 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。
heb6:17 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
heb6:18 それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
heb6:19 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
heb6:20 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。

主よ
約束を思い起こさせていただき感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年7月25日月曜日

意訳に挑戦 「With the Word」創世記19章

"With the Word"  written by Warren W. Wiersbe

GENESIS 19
 Because Jesus did not "feel at home" with Lot in Sodom, He sent the two angels to look into the situation for Him. The angels didn't walk the streets or visit the public places of amusement. They visited a professed deliver to see what his home was like. Lot's wife and family were far from the Lord. The salt had lost its flavor(Matt. 5:13), so what hope was there for the city?
 Abraham was visited when it was light, but Lot received the angels at evening(1 John 1:5-10). Abraham's household obeyed his word as he served the Lord
, but Lot lingered and had to be dragged out of the city. Abraham, who lived outside Sodom, had more influence than Lot, who lived in the city.
 Lot tried first to plead with the men at the door, and then to bargain with them. God's  approach was to judge them. They loved darkness rather than light(John 3:19).
 God did not find ten righteous people, but He spared Lot and his wife and daughters for the sake of Abraham. While we may hate the sins of Sodom, keep in mind that all those people went to eternal judgement.(See Judge 23.)
 Lot had no tent or altar, and he ended up in a cave committing terrible sins. Were it not for 2 peter 2:7-8, we might doubt that he was a believer at all.(See Ps. 1:1)

意訳してみた。
「With the Word」ウォーレン w.ウィアーズビィ
創世記19章より

 イエス様(ここでは受肉前のキリスト)はソドムに住むロトが穏やかでないのを知られ、状況を見るため二人の御使いたちを送られた。御使いたちは街を歩いたりせず、また公共広場を訪れたりもしなかった。御使いたちはロトの家がどんな状況かを見るため彼の正面玄関から訪れた。ロトの妻と家族は主から遠のいてしまっていた。主は、あなたたちは地の塩となりなさいと言われたが、彼らはすでに地の塩としての塩気をなくしてしまっていた(参考:マタイ5章13節)のであるから、ソドムの街に何の希望の光があるだろうか。
 アブラハムがソドムを訪れた頃はそうではなかった。しかしロトは御使いたちからソドムの街に闇が迫っていることを告げられていた。アブラハムたち一行は主のみ声に聞き従って行動していたが、ロトはぐずぐずしていたので街から引きずり出すしか手はなかった。ソドムの街の外にいたアブラハムは、街の中にいるロトよりも状況がよくわかり正しく行動していた。ロトは戸口の前に立ち、ソドムの男たちに嘆願し交渉を試みた。神はロトを通してソドムの人々にアプローチをかけられたのである。しかし彼らは光よりも闇を愛した。(ヨハネ3章19節)
 神は10の義人を見出すことはなかったが、アブラハムの義のゆえにロトと彼の妻そして娘たちを災いから逃れさせた。私たちはソドムの罪を忌み嫌うが、ソドムの人々が永遠の裁きにあうことをおぼえておかねばならない。ロトはその後、主の天幕を張らず祭壇を作らず、ただ洞窟で恐怖に怯えて暮らすのみであった。

第二ペテロの手紙を参照してください。
(2peter 2:7)また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
(2peter 2:8)この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。

この詩では義人であるかのようなロト、しかし全く彼を疑いたくなるような行動であった。

本日の学びを感謝します。
アーメン


主の力強いみ手に引きげられ

ちいろば先生「旧約一日一章」より

主は彼にあわれみを施されたので・・・
(創世記19章16節)

 主がロトの手と彼の妻の手、娘の手をとって連れ出し、町の外においたので、彼らは滅びの町ソドムから脱出する事が出来た。聖書はこの事を、「主は彼にあわれみを施されたので」と説明している。

 手をとって連れ出し、町の外におかれる、ということはロトや彼の家族にとって必ずしも喜びではなかった。人間だれでも強制されると嫌なものである。信仰生活においても、できれば自分の自由意志で信仰生活をしたいと思う。

 「今はそっとしておいてください。そのうちにまた気が進むようになったら、自分から求めていきますから」、しかし、ロトとその家族が主に手を取られて連れ出されることなしにみ言葉に従い得なかったように、私たちも助け主である主の強制なしでは、決して十字架を負うことはできない。

 私たちは、み言葉の迫りからたえず自由な余地を残しておこうとする。み言葉にためらうことが悪いことではない。主の語りかけをたわむれと思うこともある。それらは誰もが持つ思いである。しかしそこに立たず、まず神の力強いみ手のうちに身をゆだね、そこから出させていただくことが教会生活において重要である。

主よ
「狭い門を通りなさい」と主に言っていただいたことを思い出します。
今のままでいいじゃないかと、楽な方をとってしまうのが私たちの常であります。
どうか主よ
道をお示しください。
あと4年です。
主の小麦の種となって豊かな土地に落ちますように。
地に落ちた種は死ぬことによって豊かな実りをもたらします。
どうぞ私をお遣いください。
主に守られ、身をゆだねてまいります。
感謝して主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年7月24日日曜日

御名があがめられますように

ちいろば先生「新約一日一章」より

主よ、わたしをお助けください。
(マタイ15章25節)

 イエス様が宣べ伝えた教えは、従来の宗教とは全く違う新しいものである。そういう新しい教えを私たちは聞かされており、新しい世界、神の国は近づいたという世界に招き入れられているのである。私たちはそういう新しい世界に招き入れられておりながら、ともすると古い世界にとどまり、新しい世界にふさわしい生活をしようとしないことが多いのではないか。

 第一に、先祖からの言い伝えと新しいキリストの到来との関係がある。わたしたちは、なんの根拠もないのに、昔から守ってきたから守るのがあたりまえだという気持ちで、そういうものにとらわれて生活している場合が多い。イエス様は私たちをそういうものから解放されるかたである。解放することは、その根本原理を理解すること。言い伝えそのものが目的になってしまうと、その奴隷になってしまう。
 私たちキリスト教信者のなかでも、酒やタバコをのんだりしないということが一つのしきたりになってしまい、酒やタバコをのむ人はもう信仰はないのだとすることがあるらしい。しかし酒やタバコは信仰とあまり関係がない。信仰とは神を信じることであり、禁酒禁煙ができなければ天国に入れないというものではない。神から愛された者として証ししていくため、神から与えられた自分の体を大切にしていこうとする考えがあるのであって、禁酒禁煙が目的になっていたら、それは違うと思う。

 神の前に私たちがどのように生きているかが大切なのであって、戒めをどのように守るかが大事なことではないというのが、イエス様が言われた精神である。神は私たちに神の目的のためにいろいろなものをお与えになる。「おまえはこれから一生病床にあって苦しい生活をしていけ」と言われるならば、それを感謝して受けとっていくのが私たちの信仰である。神を利用して自分が楽しい生活を送るというような、自己中心であってはならない。

主よ
私たちの信仰は自分がなくなるというか、自己中心ではなく、イエス様が主の祈りで教えられたように、御名があがめられますようにという信仰であることを学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年7月22日金曜日

なすべきことは神にささげること

ちいろば先生「新約一日一章」より

あなたがたの手で食物をやりなさい。
(マタイ14章16節)

 第14章はヨハネの死、パンの奇跡、ガリラヤ湖でのイエスのことが記されている。
 ヘロデは非常に気の弱い人間であった。ヘロデヤのことでヨハネから責められると悩みながらも、なおヨハネをかばい、喜んで教えを聞いていたのである。しかし一方では肉欲を楽しみ、ヘロデヤとの生活から逃れることができず、かといって自分を責めるヨハネを抹殺する勇気もない。真理にも忠実であり、この世にも忠実であろうとしたのがヘロデの姿から学びとることができる。しかし、そういう生き方はいつまでも続かない。信仰に徹底するということは、ある意味においてこの世から死にきらなければできるものではない。この世でも楽しい生活をしたいし、天国への行きたいというのは欲というものである。それはまるでシーソーの両端を同時に上げようとするようなものである。

 イエス様は、「日々自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい」と言われたが、自分の十字架を背負うということは、自分がなくなることである。何かを自分が持たないというよりも、持つ自分さえもなくなってしまうということが十字架である。十字架というのは徹底的な自己否定である。それでこそ自分の十字架と言えるのである。そこに私たちの決断がある。信仰は決断である。ヘロデはその決断ができず、その結果、ついに真理を抹殺するという罪を犯し、それが心の中に残った。ヨハネを殺したことがヘロデを生涯苦しめた。このようなことからも、十字架の許しの素晴らしさを覚えたい。

 13節からはパンの奇跡が語られている。夕方になり空腹になることは、この世の制約のひとつである。私たちの信仰は、このようにこの世の道理に直面する。「聖書を読みたいのに、時間がない」とよく耳にするが、「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに行かせてください」と弟子たちが言ったのと同じことが起きている。この世の道理に信仰生活が直面したときに、この世に従うならばそこに十字架はない。十字架は、この世の道理を突き抜ける。イエス様は「あなたがたの手で食物をやりなさい」の手とは神に捧げる手のことを言われたのである。教会のなかで旗振りをしたり先導したりする必要はない。マルタにならなくてもいい。私たちのなすべきことは神にささげていくことである。私たちが持っているものを神にささげたとき、神はそれを価値あるものに変えてくださり、私たちに賜るのである。そのようにして神から返されたものが、やがて5千人以上もの人々を飽かしめるような働きとすることができるのである。

主よ
自分の十字架を背負うとは、自分がなくなってしまうまで徹底的に神にささげ尽くすことであると知りました。
本日の学びをありがとうございます。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年7月21日木曜日

主は道を示された

主は道をお示しになられました。
このたび転職を果たし、精神看護をするお仕事に戻ることが出来ました。
願いを聞き入れてくださり感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。

アーメン

ーーーーー
(祈っていた内容)
主よ
イエス様とともに行動できる職場が欲しいです。
新しい仕事をお与えください。
精神科に戻ってもいいです。御心のままに。
スタッフにも恵まれ
自分の役割が尊重される職場が必要です。
そこにはともに主がいてくださり、病める人々に手を差し伸べてくださいます。

どうか主よ
私の前に道をお示しになられてください。
その道を歩んでまいります。
どうか私をソドム・ゴモラにおける十人の義人のように、主におぼえられる者の一人としてください。

主よ
道をお示しになられたことを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン


一粒の麦の種となって

ちいろば先生「新約一日一章」より

良い地にまかれたものとは、み言葉を聞いて悟る人のことであって・・・
(マタイ13章23節)

 種のたとえであるが、種には命があるということ、み言葉には命があるということ。種に命がなければ、どんなに水をやっても肥料を施しても芽は出てこない。イエス様が繰り返し種の話しをされたのは、み言葉に命があるということ。

 これはしたら儲かるのにとか、これをしたら喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。そういうふうに受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。また、種は種のままであれば成長していかない。種としては死ななければならない。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 (ヨハネ12章24節)

 イエス様は神の祝福の種です。地に落ちて死なれたことによって、豊かな実を結びました。ここにみ言葉の成就があります。

主よ
イエス様が一粒の種となられ死なれたことにより、私たちに神の恵みすなわち福音のみ言葉が降り注がれました。
主はおっしゃいました。「あなたたちはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
しからば主よ、私も祝福の種となって、喜んで地に落ちます。
また人々に仕えることによって、福音のみ言葉が伝わりますように。
感謝を主に捧げ、お祈り申し上げます。
アーメン

2016年7月20日水曜日

イエスは律法を逆転させるかた

ちいろば先生「新約一日一章」より

宮よりも大いなる者がここにいる。
(マタイ12章6節)

 旧約の世界の律法は、人間が神の前に正しく生きていくためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。

 イエス様は律法を逆転させるかたである。そこに恵みの世界、福音の世界がある。イエス様の十字架の贖いを信じることによって、神は私たちすべての者を罪なき者とみなしてくださった。罪がなくなったという意味ではない。あくまで律法は生きている。神は公平な方であるから、律法の罪に対し死の裁きをくださねばならない。一方で神は人間を愛してやまない方である。だから許したいと思われた。だから神ご自身による自己矛盾を解決する手段が必要となられた。それがイエスの十字架の贖いである。私たちの罪によってイエス様が死ぬ必要があった。そして律法の罪はイエス様の死の十字架で贖われた。よって私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって罪がない者とみなされるようになったのである。しかしそれは罪がなくなったという意味ではない。あくまでもイエスを信じ仰ぎみる時に、罪がない者とみなされるということ。ここを勘違いすると、じゃあたくさん恵みをいただくために、もっと罪深き生き方をしよう。というおかしな論理展開が起きてしまう。そうではなく、恵みの福音を受ければ受けるほど、人は罪を犯したいと思わなくなる。頑張って修行をやらなくても清い者とみなされ、罪を犯す必要もなくなったのである。罪を犯したいとも思わなくなる。身近な例で言えば、パチンコに行きたくなくなる。タバコを吸う必要がなくなる。お酒を飲む必要がなくなる。暴飲暴食をする必要がない。遊びまわる必要もない。恵みの福音を受けて、ただニコニコしていられる。イエス様、サイコー!

 注意)タバコが罪であるとか、お酒が罪であるという意味ではない。タバコやお酒にリラックス効果があることは認める。しかしそれを求めるあまり、他のすべきことをないがしろにすることが罪となる。恵みの福音を受けるとタバコやお酒のリラックス効果を求める必要がなくなるので、タバコやお酒が不要になるという意味で述べた。他の趣味・道楽においても同様である。

主よ
恵みを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン



イエスは律法を逆転させるかた

ちいろば先生「新約一日一章」より

宮よりも大いなる者がここにいる。
(マタイ12章6節)

 旧約の世界の律法は、人間が神の前に正しく生きていくためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。

 イエス様は律法を逆転させるかたである。そこに恵みの世界、福音の世界がある。イエス様の十字架の贖いを信じることによって、神は私たちすべての者を罪なき者とみなしてくださった。罪がなくなったという意味ではない。あくまで律法は生きている。神は公平な方であるから、律法の罪に対し死の裁きをくださねばならない。一方で神は人間を愛してやまない方である。だから許したいと思われた。だから神ご自身による自己矛盾を解決する手段が必要となられた。それがイエスの十字架の贖いである。私たちの罪によってイエス様が死ぬ必要があった。そして律法の罪はイエス様の死の十字架で贖われた。よって私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって罪がない者とみなされるようになったのである。しかしそれは罪がなくなったという意味ではない。あくまでもイエスを信じ仰ぎみる時に、罪がない者とみなされるということ。ここを勘違いすると、じゃあたくさん恵みをいただくために、もっと罪深き生き方をしよう。というおかしな論理展開が起きてしまう。そうではなく、恵みの福音を受ければ受けるほど、人は罪を犯したいと思わなくなる。頑張って修行をやらなくても清い者とみなされ、罪を犯す必要もなくなったのである。罪を犯したいとも思わなくなる。身近な例で言えば、パチンコに行きたくなくなる。タバコを吸う必要がなくなる。お酒を飲む必要がなくなる。暴飲暴食をする必要がない。遊びまわる必要もない。恵みの福音を受けて、ただニコニコしていられる。イエス様、サイコー!

 注意)タバコが罪であるとか、お酒が罪であるという意味ではない。タバコやお酒にリラックス効果があることは認める。しかしそれを求めるあまり、他のすべきことをないがしろにすることが罪となる。恵みの福音を受けるとタバコやお酒のリラックス効果を求める必要がなくなるので、タバコやお酒が不要になるという意味で述べた。これが他の趣味・道楽においても同様である。

主よ
恵みを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン



2016年7月19日火曜日

すなおに受け取る

ちいろば先生「新約一日一章」より

そこを立ち去られた。
(マタイ11章1節)

 イエス様は立ち去られる方である。神は私たちがいつでも帰ってくるのを待っておられるかたであると共に、また私たちのところから立ち去られるかたである。

 いつでも備わっていると思うことが信仰をダメにする。イエス様との出会い、今というものを大切にしなければならない。いま神の言葉がすなおに聞けることは、私たちの努力だけによるものではない。心が閉じてしまえば、いくら聖書を読んでも、無味乾燥なものとなって、そこから感動も喜びも湧いてはこない。もし神の言葉が慕わしく聞けるのであれば、それこそ神に祝された時なのであるから、そういう時を大切にしていかねばならない。

 預言者ヨハネが期待したキリスト像は、国家権力と闘い、イスラエルを自由にしてくれる地上の救い主である。ところがイエス様は、らい病人を癒したり、盲人の目をあけてやったりと、たった一人一人のことしかなさらない。イエス様は一人一人を神の前に立たせるために来られたのであり、また一人一人に福音を宣べ伝えるために来られたのである。「私につまづかない者は、さいわいである」(マタイ11章6節)。ヨハネはそういうイエス様につまづいた。

 ヨハネの信仰は一生懸命努力した結果、信仰を奪い取っていこうとするものである。(11章12節)。しかしイエス・キリストによって始まった世界は、神のほうから近づいてくださるのである。人間の熱心や功徳というもので、神の恵みや慈しみを奪いとることは決して出来ない。私たちは、ただ受けていく存在である。福音のもとにおかれた者にとっては、神から送られてきたものをすなおに受けとっていくことが必要である。

主よ
あらためて、恵みをすなおに受けとることの大切さを学びました。
本日の学びを感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年7月17日日曜日

ミッション・インポシブル

ちいろば先生「新約一日一章」より

行って、「天国が近づいた」と宣べ伝えよ。
(マタイ10章7節)

 10章では十二使徒の選任と派遣がテーマとなっている。使徒とは、つかわされた者、権威の一切を付与された者という意味で、いわば全権大使のような者である。十二使徒は、イエス様の権能・権威を授かって、イエス様の御技を遂行していく者である。十二人の弟子が召されたのは、つかわすためである。私たちは使徒の使命を受け継ぐ者である。牧師ではないから一生懸命にしなくてもよいなどと思うことは許されない。

 「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人を清め、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイ10章8節)。これは途方もない指令である。当時のペテロやヤコブたちの信仰歴はせいぜい1年か2年程度である。そんな新米信仰者に、とうてい出来そうもないミッションをお与えになられたのである。しかし、私たちに力があるのではない。神が与えてくださっているのだから、神が働いてくださるように、私たちは管になればよい。

 あれこれ考えず、神の御用をするのだから、必要なことは全部神が整えてくださる。兵士なら食いものの心配はしてはいけない。食物を整えることは司令官のすることである。兵士は司令官を喜ばすことをすればよい。神がされることはしなくていい、私たちのするべきことをしよう。

主よ
私たちがするべきことは、一生懸命に「天国が近づいた」ということを宣べ伝え、神から与えられた機能が私という管を通して他の人に及んでいくような備えをすることです。
主よ
生きている間に使徒としての使命を果たせますように
主よ あなたが整えてくださるなら
私は成すべきことを成すだけです
召命を感謝します
尊きキリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
 

義人 和解の使者としてのつとめ

ちいろば先生「旧約一日一章」より

主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」
(創世記18章32節)

 私はこの18章が大好きです。アブラハムの前に現れた三人の旅人、彼らを御使いと見抜き、駆け寄るアブラハム。実はその中の一人は主である。この物語を読むと、初めはただの旅人であったのに、いつのまにか主に対峙するアブラハムの物語に変化していることに気づくはず。わたしはこの章が大好きです。かっこいいです。三人の御使いが目の前を通られるなんて。

 ソドムとゴモラの罪で滅ぼそうとされた時、アブラハムは、「正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。」、と言い50人の義人がいれば滅ぼさないでくださいますか?、と主に申したが、徐々に少なくなり「我が主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します。もしそこに十人いたら・・」と尋ねたのである。すると主は「十人のために滅ぼさないであろう」と約束されたのである。

 私たちはよく「みんなが良くなる」ことを求める。家庭や職場や国の政治の状態を慨嘆する人の中にも、その誤りや欠点にのみ目を奪われている人が多い。しかし神は誤りや欠点よりも、義しさや真実を探したもう方なのである。神は常に十人の義人を求めもう方である。だから大切なことは、みんなが良くなることではなく、まず自分が義しく生きることである。そのことを抜きにして、天下国家を憂えても、結局そこからは対立と抗争以外何も生まれてこない。

 主は今日も十人の義を求めたもう。まことの義なり主イエス・キリストによる義人を求めたもうているのである。ゆえに私たちにとって必要なことは、何よりも主イエス・キリストを信じる信仰である。ただ自らの信仰を全うするために、祈り求め、つとめ励むこと、それだけである。それだけが、この世に和解の使者としてつかわされている者のなすべきことである。

主よ
わたくしを十人の義人のうちに数えられる者としてください
感謝します
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年7月16日土曜日

召命! アコルーセイ・モイ(あなたは、私に従いなさい)

ちいろば先生「新約一日一章」より

すると彼は立ち上がって・・
(マタイ9章9節)

 私たちは、誰かを信仰に導こうと考えるとき、多くの期待を持ちやすい。もっと熱心に教会に来てくれたらとか、もっと真面目に神の言葉を聞いてくれたらと思い、そうなるように仕向けたりもする。しかし最も大事なことは、自分が神をしっかりと信じれているかどうかということである。
 
 「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章31節)という言葉がある。自分はいったいイエス様を信じているかどうかを反省すること。家族の救いの鍵はあなたにある。昨日、映画「祈りの力」を観てきた。隠れて祈ることは聖書に書かれてある通りであるが、祈り部屋のことをウォールームと呼んでいた。まさに祈りの戦士となって、祈りによってサタンに戦いを挑むのである。すでに勝利をおさめた主が戦ってくださるから、ぜったい負けない!

 「すると立ち上がって」とあるが、そこに死んだ人間が生きた人間に変わる起点がある。ほんとうに立ち上がらなければ、イエスに従ってはいけない。わざわざ「立つ」とう言葉が用いられているのは、わたしたちがいつまでも古い生活、この世の束縛、肉欲などでがんじがらめにされている生活をしていたのでは、イエス様から「アコルーセイ・モイ」と言われても、「ついて行きたいがだめです」と、座り込んでしまうからである。そこにまず厳しい道がある。

主よ
まず自分がしっかりと立ち上がらなければ、新しい世界に呼吸することはできないということを知りました。
キリスト・イエスの御名によって学びを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン


全き者であれ

ちいろば先生「旧約一日一章」より

わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ。
(創世記17章1節)

 主からこの言葉を聞いた時、アブラムはすでに九十九歳であった。神とはこのようにどのような人に対しても大きな期待をかけたもうかたである。わたしは年寄りだから、まだ若造だから(エレミヤ1章)、わたしは口の重い人間だから(出エジプト4章10節)、わたしは忙しいから(ルカ14章15節以下)と、私たちは自分の状態に固執しやすい。

 しかし主はただアブラムに求めるだけのかたではない。主は彼に向かって「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ」と、まず求める前に、全能の神であると宣言しておられる。人はみなこの全能の主にあってその偉大な力によって強くされるのである(エペソ6章10節)その全き歩みもまた主からいただくのである。がんばり信仰ではもたない。

 神はアブラムに「全き者であれ」と求めたもうたように、今日わたしたちにも求めておられる。たといわたしたちがいかなる状態であろうとも、目を天に向け、全能の主を仰いで主のご期待にこたえる者になりましょう。それでこそアブラハムの子孫としてその栄光にあずかることが許されるのである。

主よ
信仰とは神によって神に生きることと学びました
キリスト・イエスの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン

2016年7月15日金曜日

信仰心 どうにもならないものを解決する主

ちいろば先生「新約一日一章」より

ただ、お言葉をください。そうすれば僕(しもべ)はなおります。
(マタイ8章8節)

 7章の終わりに「群衆はその教えにひどく驚いた」とある。新約聖書の中では13回も出てくるそうだ。私たちの経験や学問・想像をはるかに超えた神とイエスの技に対して言われた言葉だ。イエス様の言葉には権威があった。権威が授けられていることが大事なことである。権威とは威張っていることではなく、「仕えていく」ということである。
 らい病人は「主よ、みこころでしたら、清めていただけるのですが」と言った。また、百人隊長は「ただ、お言葉をください、そうすれば僕(しもべ)はなおります」と言ったのは、あなたの言葉には神の権威があるのですから、ただお言葉をくださるだけでけっこうですということである。

 イエス様が求めておられるのは信仰であって、どこまで神を信じ、どこまで神の言葉にまともに生きていくかということである。まともさとは、忠実・真実ということである。信仰とは、神の言葉に対してまともに生きていくこと、まともにそれを信頼していくことである。

主よ
学びを感謝します。
イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

涙の谷を渡る

ちいろば先生「旧約一日一章」より

そこでハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。
創世記16章13節

 エジプト人ハガルの物語は読む者の涙を誘う。彼女はアブラムの妻サライの女奴隷として雇われ、サライに子がいないからという理由でアブラムの子を孕まされた。その後、彼女がサライを見下げたということで、苦しめられ、ついにいたたまれず、彼女は女主人の顔を避けて逃げ出した。

 サライが、自分に代わってアブラムの子を孕みなさいなどと言わなければ、平穏無事な生活を送ることができた。迷惑なのはハガルである。サライの犠牲者である。しかし彼女は涙の谷で主と出会った。彼女は自分に語られた主の名を呼んで「あなたはエル・ロイです」と言った。「エル・ロイ」とは「私を見たもう神」という意味である。

 目先の苦しみを避け、出来る限り安全で都合の良いような生き方を求めるのは私たちの常である。暗いところをよけ、明るい方へと逃げたくなるのはだれもが持つ衝動である。しかし、そのような生き方をだけ求めている人々には「エル・ロイ」の告白は生まれてこない。

主よ
学びを感謝します。
アーメン

2016年7月14日木曜日

すでに与えられている

ちいろば先生の「新約一日一章」より

門をたたく者はあけてもらえるからである。
(マタイ7章8節)

 まず「人を裁くな」というのは、自分のことを棚に上げて人を裁くなと言っておられるのである。ある本に「あなたがいま刑務所に入っていないとすれば、それは刑務所に入っている人のような試みに合わなかっただけである。そういう試みにあなたもあえば、同じことをするだろう。あなたはそういうことから守られていただけである」と書いてある。私たちも極限の状態に立たされると、はたしてどんな生き方をしていくだろうか。

 「門をたたく者はあけてもらえるからである」。この言葉では「からである」が大事と思われる。求めたら与えてやろうというのではなく、与えられているから求めなさい。というのが「からである」の意味である。すでに天から管が降りてきているのに、その管からのものをいただかないで、やたらに地上をはいずり回っているに等しい。私たちはすでに与えられているから求めていくのである。

 聖書を読み、み言葉に従っていくことは、不信との闘いである。どんな人でも、毎日毎日、神を信じられない自分と闘っているのである。信仰の深い人ほど、自分がどんなに不信仰な者であるかを知っている。

主よ
すでに与えられているから、求めれば実現するということを知りました。不信仰な私をお赦しください
主イエス・キリスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン

み言葉に立って現実を受け入れる

ちいろば先生「旧約一日一章」より

アブラムは主を信じた。
主はこれを彼の義と認められた。
(創世記15章6節)

 あるとき、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
年老いてなお一人の子もなく、また、「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも与えられ」(使徒7章5節)ていなかった彼にとって、この言葉は信じがたいものであった。しかし主は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるであろう」と言葉を重ねられるだけであった。誰がいったいこの言葉を神の約束として信じることができるだろうか。だが聖書は、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と記している。

信じるとは、現実からみ言葉の確かさを求めていくことではなく、み言葉に立って現実を受け入れていくことである。たとい現実はいかようであれ、全能全愛の神のゆえに現実を受け取っていくこと、それが信仰である。その時、私たちはアブラムのように、約束の祝福にあずかることができるのである。

主よ
現実がどんな状況であっても、み言葉に立って現実を受け入れることが信仰であると学びました。
主よ
アブラムのように約束の祝福を待ち望みます。
ですが主よ
御心のままになさってください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りをお捧げ申上げます。
アーメン



2016年7月13日水曜日

人間は一度は死ぬ

ちいろば先生「新約一日一章」より

まず神の国と神の義とを求めなさい
(マタイ6章33節)

 イエス様が強調したい点は、こっそりしなさいではなく、天の父の報いを第一に求めなさいということである。神の御心にかなう信仰生活をしなさいと言われたのである。

 スポルジョンは「天にまで携えていけないもののためにあまり熱心になるな」と言った。人間は一度は死ぬこと、死んでのち裁きを受けることは人間には定まっていることだ、と聖書は記している。

 私たちは、神の前に立たなければならない。その神の前に立つときに価値のあるものを携えて立つことができるかどうか、そのことを最終の目的としなければならない。

 私たちは聖書に書いてあるから、終わりの時があることを信じる。イエス・キリストを信じたから、もう私の罪は許されたということは、終わりの日に通じるものである。

 私たちの最終目標は、神の国と神の義を求めること。神の国とは神の支配ということ。神の義とは神の許しであるということ。終わりの時に私たちはどうかということを求めていくこと。そこにクリスチャンとしての立ち所がある。

主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン



何人にも借りがあってはならない

ちいろば先生「旧約一日一章」より

アブラムを富ませたのは私だと、あなたが言わないように
(創世記14章23節)

 使徒パウロは「互いに愛し合うことのほかは、何人にも借りがあってはならない」(ローマ13章8節)とすすめている。わたしたちは人に借りるのではなく、神に借りるものとなりなさいということである。

 富み栄えたいということは、アブラムにとっても心からの願いであったことだろう。しかし、彼は神の御心を無視してまで富むことを求めなかった。何よりも神のみこころが優先する。いつも神に従う者としての歩みをなしていくことこそ大切である。神以外のものを神としないことに励みたい。

主にお祈りをお捧げ申上げます。
アーメン

2016年7月12日火曜日

どこを中心に宇宙は広まったの?

ビッグバンが起きたとして、どこを中心に宇宙は広まったの?
世界中の科学者が調べてみたところ、驚くべきことにちゃんと調べれば調べるほど、宇宙のすべてが「地球を中心に膨張しているように見える」ことになってしまいました。銀河系の辺境に位置する太陽系、その地球を中心にビッグバンが起きた。

創世記を読みますと、三日をかけて地球を創られ、その後たった一日で恒星や星々を創られています。これはわたしの解釈ですが、まるでスクリーンに映写機で写したかのように、数百億光年離れ、さらに加速して空間が広がっているかのように見える宇宙をたった一日で造られたということです。(さらに光速を超えて遠ざかる天体が発見され、すでに1000個程度観測されている。)人間の理解の及ぶ範囲で計測すると数百億年経過したかのような恒星や惑星の状態を一瞬で造られたということです。
そしてアダムを創られ、最後にイブを創られた。

わたしは聖書に書かれてあることを字義通りに、またその順番通りに起きたことを信じます。なぜならそれは神の言葉であり、力があるからです。いまその力が、主に在りて私にも及んでいることを信じます。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

どこを中心に宇宙は広まったの?

ビッグバンが起きたとして、どこを中心に宇宙は広まったの?
世界中の科学者が調べてみたところ、驚くべきことにちゃんと調べれば調べるほど、宇宙のすべてが「地球を中心に膨張しているように見える」ことになってしまいました。銀河系の辺境に位置する太陽系、その地球を中心にビッグバンが起きた。さらに光速を超えて遠ざかる天体が発見され、すでに1000個程度観測されている。

創世記を読みますと、三日をかけて地球を創られ、その後たった一日で恒星や星々を創られています。これはわたしの解釈ですが、まるでスクリーンに映写機で写したかのように、数百億光年離れ、さらに加速して空間が広がっているかのように見える宇宙をたった一日で造られたということです。人間の理解の及ぶ範囲で計測したら、それはまるで数百億年経過したかのような恒星や惑星の状態を一瞬で造られたということです。
そしてアダムを創られ、最後にイブを創られた。

わたしは聖書に書かれてあることを字義通りに、またその順番通りに起きたことを信じます。なぜならそれは神の言葉であり、力があるからです。いまその力が、主に在りて私にも及んでいることを信じます。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

イエス様が好まれる人とは

ちいろば先生「旧約一日一章」より

心の貧しい人たちは、さいわいである。
(マタイ5章3節)

 3節から言われていることは、私たちの考え方とは逆説的である。貧しい者が幸いであるということはこの世ではありえない。強い者が地を継ぎ、弱い者や柔和な者はいつも放置される。憐れみ深いようなことをしていたら人生の落伍者になってしまう。心が清いことも、この世では通用しなかった。

 ところが、イエス様をお迎えすることによって、貧しい人が幸いになる世界がもたらされる。なぜ貧しい人が幸いであるか、その理由を述べるとこうなる。イエス様は心の貧しい人のところを選んで行かれる。だからその人たちは幸いなのである。

 イエス様は、誰も相手にしてくれず、自分はダメだと絶望している人のところへ行って友達になってくださる。罪を犯してどうしようもないというその罪を。イエス様は引き受けてくださる。悲しんでいる人を探し求めてその人のところへ行かれる。だからイエス様に出会い、イエス様からの慰めが与えられるのである。不公平なことにイエス様は、悲しんでいる人を求めて行かれるのである。

 もし、私たちがイエス様に出会い、イエス様の言葉を聞き、手に触れ、足に触れようと思うなら、ここに書かれているような人となり、そういう生活をしていかねばならない。聖書には富める青年の話しがある。「立法をどんなに頑張って守っても永遠の生命を得ることができない。どうしたらあなたのように永遠の生命に生かされるという確かさを持つことができますか?」と尋ねた時イエス様は「あなたの持ち物が、それを邪魔している」と言われた。「貧しくなるために」持ち物をみな人にあげたらよい、そうしたら永遠の生命を受けることができると言われたのである。

 先祖の遺産を持ち、生活も安定しているのだから幸せだと感じる。だが、「これが本物だ、世の宝ものがあそこに埋まっている」と考えるのならば、全財産を売り払ってでも、その土地を買い占めにかからないだろうか。いっさいのものを捨てていく情熱が、信仰には必要である。

 問題は、私たちがどこまで本気で地獄とか天国というものを信じているか、どこまでほんとうに神を信じているのかにかかっている。神の言葉を「もてあそぶ」ようなことをしていては、イエス様と出会うことはできない。あなたのためにこれもあれも捨てます、片目を失っても我慢しますというほどに神を慕い、イエス様を慕ってこそ、イエス様に出会うことができる。

 そこに私たちが貧しくなっていく世界がある。山上の垂訓は、イエス様がそういう人のところへ来られると解釈すれば納得できる。

主よ
イエス様が向かわれるような自分でありたいと思います
主がそうしてくださいます
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン

ただ神にのみ仕える

ちいろば先生「旧約一日一章」より

ただ神にのみ仕えよ。
(マタイ4章10節)

 イエスは、悪魔によってではなく、御霊によって荒野へ導かれ、試みを受けられた。だから、私たちも現実の生活の中で試みを受けたとしても、それは悲しいことでも、恥ずかしいことでもない。試みを悲しみ、恥ずかしがるのは、聖書のメッセージからはずれている。

 荒野の40日で、悪魔の始めの誘いは。神の子なら石がパンになるよう命じてごらんという事であった。それに対し「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるのである」と言われた。これを、人間は肉体のパンと魂の糧も必要だと解するのは平板な理解である。創世記1章3節「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあるように、神の言葉には力がある。ラザロに出てきなさいと言えば、死んで4日も経過したラザロが生き返るのである。単に精神と物質というような面から言われたのではない。

 イエスの生きる道とは、食料の解決や、宗教的な力の誇示でもなく、またこの世の権力の掌握でもない。ただ神にのみ仕えていくという道だけであった。とするならば、私たちキリスト者はやはり、ただ神にのみ仕えていくところに立ち所があると思う。

主よ
私は砕かれた者です
ただ主に仕えることでしか生きる価値がありません。
主の御名を褒めたたえ、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

あなたはどうなのか

ちいろば先生「旧約一日一章」より
主の道を供えよ・・・
(マタイ3章3節)

 今日のキリスト教の大きな欠点は、あなたはどうなのかという神の問いをぼかしていることにある。

 あなたはどうか。それを聖書はいつも問うている。

 どんなに素晴らしい音楽が放送されていても、その波長に合わせなければ聞くことはできない。私たちは聖書の語る言葉に自分の耳を合わせなければならない。きょうもう一度、自分自身の悔い改めから信仰が始まっていかねばならない。

 私たちは、自分が神に対してどのように惨めなものであり、罪深い者であるかを知らねばならない。それが主の道を備え、その道筋をまっすぐにするということである。

栄光在主
アーメン


2016年7月11日月曜日

賜物とは

賜物とは、主に在って教会に与えられた能力のことです。賜物を用いて教会の働きをするのは、私たち個人がしているのではありません。イエス様が個々人を用いられ、それはまるでイエス様ご自身が働いておられるかのようです。それを見た人々がキリストを信じるように、天から与えられているのです。

JUST LIKE JESUS
AMEN

ノアの家系、さかのぼると人類はひとつ

ちいろば先生「旧約一日一章」

以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。
(創世記10章32節)


 ノアの三人の子供たちは、セム=サァーニー褐色、ハム=フーム黒色、ヤペテ=イヤーパット白色、このように三人種を暗示する言葉と一致する。すなわち全人類を示す言葉である。従って「これらはノアの子らの氏族であって」という言葉は全人類、すべての人々、当時の彼らを苦しめているバビロンの人々も含まれ、ノアの、すなわち神のあわれみの子であるという意味であり、神のご支配のうちにあるという宣言である。たとい相手がどんなに大きくても、その力がどんなに巨大であっても、すべては神のご支配のうちにある。

 使途パウロは「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない」(コリントⅡ10章3節)、と語っている。私たちも全能の神にあって、いつでも、どこでも見えるものにとらわれることなく主にあって雄々しく生きていくものとなりたい。

主よ
私たちを迫害するものの為に祈ります
彼らも同じノアの子孫、神のあわれみの子です。
わたしたちは彼らの罪を赦しますから
わたしたちの罪をもお赦しください
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン



2016年7月8日金曜日

自由を肉の働く機会としてはならない

ちいろば先生「旧約一日一章」より

彼(ノア)はぶどう酒を飲んで酔い、
   天幕の中で裸になっていた。
         (創世記9章21節)

洪水の後、ノアは祝福を受け、再び地上の生活を始めた。彼はその与えられた地で農夫となり、ぶどう畑を作り、そこより得たぶどうをもってぶどう主を作った。ある日彼はそのぶどう酒を飲んで酔い、大変な失敗をしてしまった。

使徒パウロは、コリントの教会に書き送った手紙の中で「すべてのことはゆるされている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」と述べ、「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」
          (1コリント10章23節以下)

私たちにはすべてのことが許されている
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったので」
          (ガラテヤ5章1節)
「召されたのは、実に、自由を得るためである。」
          (ガラテヤ5章13節)

しかし私たちは「その自由を、肉の働く機会とし」てはならない。むしろその恵みを「神の栄光のために」用いるべきである。ここに主の祝福を受けた者、主にあがなわれた者の聖なる義務がある。

わたしたちは神の子イエス・キリストの十字架という空前絶後の代価を払って買いとられたのだから、「自分のからだをもって、神の栄光をあらわ」さなければならないのである。
私たちの生活のいっさいの基準はここにある。

ノアは洪水から救われ、神の祝福を受けたという恵みを活かすことを怠った。そしてその恵みを自分を滅ぼすために用いたがゆえに、彼は大きな失敗をしたのである。そのあとに記されている「そして彼は死んだ」という言葉は、「ノアはすべて神の命じられたようにした」という言葉にくらべてなんと力ないことか。

信仰は私たちに勇気を与える。いくじなく杯に手をのばす者ではなく、栄光のために勇気ある者とせられたい。今日の証はここにある。


主よ
本日の学びを感謝します。
自分の生活のいっさいを主のために用いることができますように、
主よ
あなたがそうしてください

キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申上げます。
アーメン

2016年7月7日木曜日

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、
おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、
死にて葬られ、よみにくだり、
三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死せる者とをさばきたまわん。
我は聖霊を信ず、
聖なる公同の教会、
聖徒の交わり、
罪のゆるし、
からだのよみがえり、
とこしえの命を信ず。
アーメン

主の祈り

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。
アーメン

2016年7月6日水曜日

特別な主の訓練

ちいろば先生「旧約一日一生」より

神はノアと、箱舟のなかにいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。
創世記8章1節

神が、ノアと彼のまわりのものを心にとめてくださることによってはじめて。彼は1年間の箱舟の生活に耐えることができた。

大使徒パウロにも、大使徒なるがゆえに艱難があり、戦いがあり、恐れがあり、うちしおれることがあった。しかし、主は彼を慰め、励まし、力づけ、傷をいやし、環境をととのえてくださった。
そのパウロが「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。」 コリントⅠ1章30節
と語っているように、彼もまた神のなぐさめや力づけなくして、決してキリスト・イエスにあって生きることはできなかったのである。

よく私たちは信仰の苦しさばかりを思って恐れたり、十字架の重みにたじろいだりする。しかしそれは特別な主の訓練を受けるのだから、決してたやすいはずはない。しかし神は必ず私たちを心にとめてくださり、私たちを力づけてくださる。
主の力添えによって、はじめて私たちは十字架を負うことができる。箱舟のなかにとどまることができる。

主よ
本日の学びを感謝します。
アーメン

2016年7月5日火曜日

うしろの戸を主が閉ざされた

ちいろば先生の「旧約聖書一日一章」より

そこで主は彼(ノア)のうしろの戸を閉ざされた。
創世記7章16節

ノアはすべて神の命じられたように船を造り、彼の家族とすべての生き物二つずつをともなって船に入った。
そのさまはなんと滑稽であったことだろうか。世の人の嘲笑を浴びながら、ただ神をまこととして、彼はみ言葉に従ったのである。

ノアが船に入り終わったとき、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」と聖書は記している。神はノアを箱舟に閉じ込めたもうたのである。再びそこから出られないように。

よく信仰生活における窮屈さや束縛を嫌う人がいる。自分が行きたいときに礼拝に行き、聖書を読みたいときに聖書を読む、祈りたくなったときに祈る。そういう意信仰生活を好む人が多い。言い換えれば、うしろの戸を開けておいて、いつでも出られる自由を残しておきたいという人である。
確かにこういう信仰生活は気楽で楽しい。聖日を厳守し、日ごとにみ言葉を読み、祈りをする信仰生活は堅苦しく窮屈である。

しかし信仰生活の喜びは信仰生活の堅苦しさではなく、そこに神との出会いがあるから、そうしているのである。それは登山家の喜びと似ている。登山家の喜びは重い荷物を背負って山坂を登る苦しみではなく、下界とまったく異なる別天地に呼吸することにある。
本当の信仰の喜びは、自己本位な信仰生活を送っている人には味わうことができない。いつまでたっても信仰生活に歓喜が訪れない。なぜなら、彼らは信仰に閉じ込められることを嫌っている。

この”閉じ込め”は神の好意、神の愛である。
もしも主がノアのうしろの戸を閉じたまわなかったら、ノアは箱舟生活の単調さに耐えかねて外にでてしまい、せっかくの救いの恵みから転落したのではなかろうか。閉じ込められていたが故に、彼はまる一年もの間、二匹ずつの生き物たちとともに箱舟にとどまることができ、神の約束を受けることができた。

現実はきびしく、われわれは弱い
誘惑は執拗であり、われわれの力は乏しい
そうした中で信仰の高嶺に立つために、われわれは信仰の束縛を避けてはならない
うしろの戸を閉ざしたもう主を否んではならない

主よ
うしろの戸を閉ざしていただきました。
感謝します。
もう振り返りません
もはや罪の生活には戻りません
主よ
あなたがそうして下さいました
ありがとうございます
感謝します

主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

舌は火であり・・・

「きょうの祈り」 7月5日
F・W・マイアー/小畑進

jam3:6 舌は火であり、上義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
ヤコブ3章6節

全知なる神様。口には関所がありません。
制御しなければ口は虎、舌は剣となって、人を食い、人を突きまくって、なお飽き足らなくなります。
しかして主よ
私の生活、それもあかしの生活の半分はことばから成り立っています。
あのバプテスマのヨハネは”荒野で叫ぶもの”と呼ばれました。
今日も、あなたが与えてくださったこの1枚の舌を、一言でも救いの福音を伝える器官とさせてください。

主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年7月1日金曜日

徹底的な信仰心

ちいろば先生の「旧約一日一生」より

創世記6章22節
ノアはすべて神の命じられたようにした。

人々がこの世の快楽に酔いしれているとき、ノアは神の言葉を聞き、全身全霊を打ち込んで箱舟を建造していった。その建造期間はじつに100年もの長きに渡った。これがノアの信仰の姿であり、信仰の基本的態度がある。しかも聖書は「ノアはすべて神の命じられたようにした」と記し、ノアがいかに徹底的にみ言葉に従ったかを示している。私たちも、神の言葉を聞くということは、ノアと同じような戦いを必要とする。

信仰生活とは、全知全能の神の栄光を拝する生活であり、神の栄光にあずかる喜びの人生である。この勝利は、「すべて神の命じられたようにした」者だけがあずかることができる。

主よ
わたしは自分の信仰の不徹底さを嘆きます。
もっと信仰心を強くしてください。
主よ
あなたがそうしてください。
どうか、ノアの後に続く者になりますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年6月29日水曜日

神とともに歩む

ちいろば先生の「旧約一日一生」より

創世記5章24節
エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。

5節には「アダの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。」とある。
たとい九百三十歳まで生きたとしても、やはり彼は死んだのだ。死こそが私たちの終着駅、人生の行きつくところである、というのがこの言葉が発しているメッセージである。しかしエノクだけは三百六十五歳、他の9人のほとんど三分の一しか記されておらず、エノクだけは死んだとは記されていない。「神が彼を取られたので、いなくなった。」と記されている。

神とともに歩むことをひたすら求め、それを何よりも大事なこととする者は、あるいはその命が人の三分の一で終わるやもしれない。しかし「神が彼を取られ」るのであるから、彼は死ななない。かえって命を救うのである。エノクはまさにこの主のみ言葉の証人である。

祈ります。
主よ
わたしは「神とともに歩む」ということを安易に考えていました。そのわたしにエノクの記事はするどく迫ってくる言葉でした。
主よ
学びを感謝し、お祈りをお捧げ申します。
アーメン

2016年6月28日火曜日

この世は「物が先」

ちいろば先生の「旧約一日一生」より

創世記4章16節
カインは主の地を去って、
  エデンの東、ノドの地に住んだ。

「衣食足りて礼節を知る」、中国の「管子(かんし)」という書物に書かれてある言葉である。生活が豊かであれば、人は礼儀を知るものである、という意味である。
「物が先」という思想から出た言葉で、何よりもまず物質的に豊かになることが先で、幸福はそこにある、という考えである。現代人はこの考え方に深く影響されている。

「カインは主の地を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。」、「ノド」とは動揺またはあせりという意味である。カインは神を離れ住んだけれども、そこは彼にとって「ノド」=あせりであり、動揺であり、不安であったというのがこの言葉の宣言である。神を離れ、神を二の次にし、そんなことはどうでもよいとするような人間は、たとえ巨万の富を得たとしても、かえってその生活は不安なものである。

主イエスはこう言われました。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」 マタイ6章33節

創世記の筆者は「物が先」という世に向かい、その生き方の終焉を証しした。
私たちは今日の時代に向かって、「神が先」というメッセージを証ししていく使命が与えられているのである。

闇の度合いが深まるほど、光の存在が必要であり、貴重であることを自覚し、ともに世に向かって大胆な「詩人」として生きていきましょう。

ハレルヤ!
榎本保郎先生
信じてついて生きます。
主よ
本日も深い学びを感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年6月27日月曜日

マナ 天の配材

ちいろば先生の「新約一日一生」より

マタイ2章3節
ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。

イエス様がヘロデ王の時代に生まれたことは、実に象徴的である。
私たちの時代でも万事裏目に出たりして、生きにくい。
そこにイエス様が、お生まれになった。私たちとは無関係ではない。私たちが涙を流し、苦労し、絶望する中に生まれたのである。そこにイエス様の誕生の意味がある。

ヨセフも、平凡で幸せな生活がしたかった、でも婚約者のマリアのお腹が大きくなれば、心境いかばかりだろうか。不安どころか怒りが湧いてこないだろうか。「おらの嫁を孕ませやがったのはどこのどいつだ!」なんて。天使から聖霊によって身ごもったと言われても心は痛んだがマリアを迎え入れた。これはヨセフの起きな愛情である。そしてやっと子供が生まれると、博士たちがやってきて、やれ捧げものだ、星が光った、はたまたエジプトへ逃げなさいなどど、煩わしい問題ばかりである。麗しいハネムーン旅行どころではなかったのである。平凡ながら幸せな生活をヨセフも望んでいたに違いないのです。

ここでの主役は誰ですか? ヨセフですか? マリアですか? ヘロデですか?
主役はイエスであり、神であります。

ヨセフ自身は喜ばしいことも、楽しいこともなかったです。天使がやってきてエジプトへ行けと言われ、知人もいない外国へ、産後間もないマリアと乳飲み子イエスを連れて、不安も大きい!

イエス様を迎えるということは、このように、ひとつの不安を迎え入れることだと思います。
信仰とは、主イエスを迎え入れ受け入れ、自分は僕(しもべ)になるということ。神の御心を優先させること。
そこに不安が生じてきます。
不安に対処するには、ふた通りの方法があります。ヘロデ王みたいに、自分に不安を抱かせる対象を抹殺すること。二つ目はヨセフのように不安の中に生きることであります。
みなさん、どうでしょうか。この世の常識、道理、世間並みの生活で生きてさえいれば、そこに不安なんかないですよね。楽しいばっかり。でも神様を信じて行動すると不安が起きてきます。聖書にはいいこと書いてあるね、でも私には無理! なんてことになっていきます。
13節には「あなたに知らせるまで、そこに止まっていなさい」と書いてあります。行ってみて、よかったら居てもいいよ、とかじゃないんです。神様の命令は、「そこに居なさい」、STAY THERE.です。反論の余地なしです。なかなか従えないです。
しかしヨセフはエジプトへ行きました。神を自分の主とする僕(しもべ)の生き方であります。自分の最上のものを捧げて、主を仰いだのであります。

実は博士たちから送られた黄金、乳香、没薬などは、ヨセフたちがエジプトへ渡った渡航費や生活費になったいう説がありまして、このように神様は、エジプトへ逃げなさいと命令をされるだけでなく、命令を実行するにあたって、さしあたり必要な準備を整えてくださるお方でもあることを覚えていてください。
御言葉にしたがって生きていくとき、神は天の配材をもって私たちを守ってくださいます。
だから、もっと大胆に神の言葉に従って生きていいんです。私たちは地上のことしか判らないから不安ですが、マナは天から降ってくるのであります。私たちが心配する必要はない、神が心配してくださっています。
そして、博士たちが捧げたもの、ヨセフが捧げたもの、これらひとつひとつが、キリスト・イエスを守り、主がこの世においてわざをなしていくために用いられて行ったのであります。

私たちも、いま感謝すべきことは、すでに神に選ばれ用いられているということであります。
そこにこそ生きがいがあると思います。

祈ります!
天の父さま
マナとは食べ物だけとは限らず、天の配材のことであることがわかりました。御言葉に従って生きようとするとき、いろんな、この世的な葛藤や不安が心をよぎります。しかし主よ、あなたは命令をくださるだけでなく、その命令を実行するにあたり必要なものもすべて用意してくださいます。私たちは信じて行動するだけでいいんだということを学びました。
ありがとうございます。
尊き主、キリスト・イエスの御名によってお祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

神の民の系図

ちいろば先生の「新約一日一生」より

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図
マタイ1−1

マタイの福音書は、ユダヤ人に対して、イエスはキリストであることを宣べ伝えるために書かれました。ユダヤ人は系図を非常に重んじた民でした。

もしキリスト・イエスがいてくださらなかったら、無名のとるに足らない者であった私たちが、今日神の民として神の国の名簿に名を記され、神のご計画の中に一つの立場を与えられました。
私たちもこの系図の中に入るということです。
これが聖書の中で系図が長々と書かれていることの意味とメッセージです。

主よ
私たちも神の民としての名が天に記されていることの喜びを感謝します。
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

「光あれ」

榎本保郎先生 「旧約一日一章」より

神は「光あれ」と言われた。
 すると光があった。 (創世記1章3節)

わたしの愛唱聖句の一つ。
心が暗くなり、どうしようも亡くなったとき、よくこの聖句を口ずさむ。
そうすると、もう一度神を仰ぎ、主にある平安と希望がわがうちに湧いてくるのを覚える。

私たちは、この世に生きているがゆえに、この世の支配を受けやすい。
ガリラヤ湖での嵐で不安におののく弟子たちと、安心仕切って寝ている主イエスとの対比。
弟子たちは波に支配され風に支配されていた。主イエスは海に向かって「静まれ、黙れ」と語ることのできる権威ある神の言葉に支配されていた。
私たち信仰者は、この世にあってこの世に属するものではない。肉にあるものでありながら、肉に従って生きるものではない。神の力、神の恵みによって生きる者なのである。

自分の周りがどんなに暗くとも、神を信じる者は失望しない。いっさいが神の力の支配の中にあることを信じているから。

どんなときにも神が、「光あれ」と言われるとき、光があるのである。
このことを信じるならば、すでに我われ信仰者は勝利しているのである。

2016年6月3日金曜日

信じるということ

ガラテヤ書3章1-14節 「信仰による御霊」
長年教会に通いながら、表向きは信仰者のように振る舞い、実生活では神から離れてしまっている、そんな方々を見てパウロ兄も悲しみを持って見ていましたが、諦めもしませんでした。私たちの教会でも、急に来なくなった方がおられますが、主に在りて祈って参りましょう。

神は、あなたを素晴らしいと言ってすでに祝福されているのに、それを信じていないから祝福されないのであって、自分ができていないから祝福されないのではありません。
「私は、これこれをしなければ、クリスチャンの祝福にあずかれないのではないか?」と考えることは間違っているということです。自分が十分に罪深い、至らない、この状態ではやっていけないと思っていて、「ある程度、しっかりとしてから、また教会に来れるようにしよう。」と考えているのであれば、そうではない、ということです。それでは、御霊による祝福は受けることはできないのです。

そうではなく、自分の心をそのまま神の前に持っていき、ありのままの自分を神に見ていただき、そのままのあなたで神のところに行くべきです。問題は、きちんとできてないということではなく、きちんと素直になれていない、ということなのです。

問題は、自分の行ないがきちんとできていないのではなく、悔い改めて信じていないということなのです。ユダヤ主義者のように、「何かをして、それから信じる。」のではなく、「そのまま信じて、それから主が何とかしてくださる。」、これが信じるということなのです。

お金を貯めたから安心して信仰生活ができるとか、借金をしているから、まずそれを返してからでないと教会にこれないとか、そういうことではないということです。彼らは、偶像崇拝の対象が「お金」になっています。具像崇拝はいろんな形をとります。あなたにとって家族が一番大事で命よりも大切なのだとしたら、家族愛が崇拝対象になっています。言っていることが変ですか? おかしいですか? 家族愛が当たり前ですか?
家族を捨てよと、聖書で言っているのではありません。まずキリストを求めよ、と書いてあります。神様はあなたが必要なことはすでに知っておられますから、あとは主が何とかしてくださるということです。教会でも、ああしてください、こうしてください、と要求ばかり主に祈りを捧げていませんか? そんなのは聞き飽きたと聖書に書かれていませんでしたか?  私はそんなことは主がしてくださることを知っていますから、主を賛美し、神の栄光を喜び、主が何を言われているのかを、膝もとで聞いていたいのです。ベタニアのマリアのように。

素直に信じ、身を任せる。
この単純な真理を頭では理解していても、お母さんの胎内にいる赤ちゃんのように、神様に全てをお任せしているでしょうか?
イエス様は言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
(マルコ10章15節)
聖書に書いてあることを遠いどこかの国の物語のように流し読みしていませんか? 聖書に書かれてあるのは、神様の真実の御言葉なので、力を伴っています。信じているものには、その力が及びます。

主に在りて
アーメン

ネタばれ注意! 映画「復活」の感想

ネタばれ注意の記事です。
映画「復活」を見てきました。
映画「パッション」では、ゲッセマネの祈りから始まり血まみれのイエス様が印象的でしたね。
この映画は冒頭から目が離せません。バラバが捕らえられ、いきなりイエス様の磔刑のシーンから始まります。
イエス様が「完了した」と仰られた直後から物語は始まります。ローマの提督に忠実な100人隊長のクラヴィアスの体験を中心に物語は進行します。この100人隊長は熱心な信者を殺しまくっていた人です。だが部下から「このナザレ人は真実な人です。」と言われ膝折りをためらい、槍さしを部下に命じます。そして主が墓に葬られ石で封印するも、ユダヤ人祭司たちが復活を予言されていると恐れるので、提督の指示のもと3日間寝ずの番をつけます。ところが3日目の夜が明けてみると、番人たちはぶどう酒で寝込み、厳重に縛っていた石の扉は吹っ飛び、その石を縛って封印していたロープは強靭な力で引きちぎられていました。(聖書を読むと御使いが遣わされて来ています。御使い1人いれば1国が吹っ飛びます。ましてや石の扉など造作もなかったでしょう。)
提督は100人隊長に死体探しと弟子たちの追跡を命じます。しかし弟子たちを追跡しているうちに、いつの間にか弟子たちの魅力に引き込まれ仲間になりローマ軍の追跡をかわす手伝いをしてしまいます。しかし逃亡の途中でついにローマ兵に見つかってしまいますが、隊長クラヴィアスは「彼らが世界を変えるのだ。見逃せ。」と、かつての部下に命じ、彼を去らせます。そして、約束の地「ガリラヤ湖畔」でとうとう復活の主に合うのです。(感動)
そして弟子たちとともに隊長クラヴィアスも主の奇跡の御わざを目のあたりにします。
イエス様が去られる前の晩、ひと夜を弟子たちと同じように隊長クラヴィアスも主ととも過ごします。イエス様から「きみの望みはなんだい?」と尋ねられ、「永遠の生命を得たかったんだね」と言い当てられ驚くも、願いが主によって成就した喜びと平安のうちに朝を迎えます。
主がいないと叫ぶ弟子たち。主を探し求めると、輝きを増した主が遠くに立っておられ、「君たちの居場所を作りに行くんだよ」と言われ、見えなくなられます。
主は言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
このように主からの大宣教命令を受け、弟子たちが伝道のために散っていくシーンで、自分にもこの命令が送られたように感じ、涙が溢れてしまいました。主とともにいたい・・・
隊長クラヴィアスは「一緒に行こう」とパウロに誘われますが、一緒に行きせんでした。行けなかったのでしょう。しかし一度家に戻り隊長の印を置くと、彼はひとり旅に出ます。ここで映画は終わります。
もしかしたら、ひとり身になって、弟子たちの後を追ったのかもしれませんね。だって、主を十字架にかけた側の人間であるにも関わらず、復活した主に告白し、主に直接祝福を受けたのですから。
隊長クラヴィアスの目を通して、あなたも歴史の生き証人となれる映画です。
オススメですよ。

2016年5月25日水曜日

聖書は男尊女卑なんて早とちりもいいとこ

聖書には神が男性から女性を創ったとして、「だから信じる事が出来ない。」とする女性が多いようです。
とても残念に思います。
じつは、地球や星々・天体、万物宇宙を創られた神様が、創造の御技(みわざ)の最後に創られたのが人の女性=イブなのです。
神様の最高傑作が人の女性なのです。
これを理解している女性クリスチャンは意外にも少ないのではないでしょうか。
残念な事ですね。
大変名誉で誇らしい事なのに。

写真はイスラエル軍の女性兵士



2016年5月12日木曜日

現代の映像表現で伝える試み

聖書のみことば(詩編)を現代の映像表現で伝える試みを日本聖書教会が行っています。
http://www.bible.or.jp/read/video-clip.html




神は、キリストになさったように、私のそばにいたいと願っておられる。
私を通してお語りになれるほど、近くにいたいと望んでおられる。
・・・だから、私は御言葉を取りつぐだけでいい。
こんなにも近くにいてくださるから、ヘッドホンをつけるように御声が聞こえる。
こんなにも傍にいてくださるから、ほかの人たちが嵐で不安になっても、私は主の声を聴いて微笑んでいる。

───────
(ダビデ王の賛歌)

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも上思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
【詩篇139篇1~6節】

2016年5月11日水曜日

主に喜んでいただく

願い事でいっぱいにせず、ただじっとしている。
主がおられる。主は喜びをもって私を楽しんでおられ、安らぎを与えてくださる。
主が高らかに歌われ、わたしのことを喜ばれている。

<ゼパニヤ書3章より>
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
(ゼパニヤ書3:17)

2016年5月8日日曜日

神にとって、あなたをご自分のものとするだけでは十分ではない。あなたを変えたいと思っておられる。そして神は妥協されることはない。これは神の宮なのだから費用に糸目をつけず、経費を切り詰めることもない。
これであなたの人生が心地よいときばかりではないことの説明がつく。心の改装はいつも楽しいものとは限らない。神は完璧な改修を考えておられる。それは我々を「御子のかたちと同じ姿に」(ローマ人への手紙8:29)形づくるまでは仕事を終えられない。
あなたの創造主は、あなたをキリストの姿に作り変えようとなさっている。
神はあなたがイエスのようになることを望んでおられるのだ。これが神の願いであり、私の人生におけるテーマでもある。

マックス・ルケード著「イエスのように」より

2016年5月3日火曜日

主とは個人契約であり、聖書で主が言われたことは人ごとではないのです。

黙示録3章より

rev3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

※我らの主イエス・キリストは生きておられ、いまも天の玉座で私たちの罪のとり成しをしておられます。そして、こう言われているのです。「まだなんとかなると思っているのですか。だけど、もうなんともならないのです。もう赤字で破産したんです。死んだのです。再起不能なんです。」、と・・・

rev3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

※あぁ、そうです主よ、隣人とは他の教会の兄弟姉妹のことです。無関心を装うなら彼らと同じになってしまいます。ですが主よ、当然キリストに似た者とされたのであれば、使命を全うするまで、この世を去るわけにいかないのです。

rev3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

※そうです主よ、あなたから全てを預かり、またそれを行使する権限を譲渡されていますから、その責任を果たします。また、主がそうしてくださいます。

rev3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

※主がともにいてくだされば、どこへでも出掛けていけます。

rev3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

※ひどい罪人だったわたしも白い衣を着て、わたしの名はいのちの書から消されることはなく、御父の御前と御使いたちの前で、わたしの名が言い表されます。
主よ、あなたがそうしてくださると信じ、祈ります!

栄光在主
アーメン

主がともにおられますから

わたしの所にも主が来てくださり、ともにいて下さるなら安心です。
イエス様を知った最初のころに、以下の章を読んで、すごく安心できたことを覚えています。

ヨハネの黙示録3章より
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

イエス様は、ここまで来てくださる神であられます。
感謝します。
栄光在主
アーメン

2016年4月18日月曜日

イエス・キリストの黙示:ヨハネの黙示録

イエス・キリストの黙示と他の書物との関連性メモ
菊地 一徳牧仕による聖書講解説教より

ルカ    2:32

ローマ  2:5

1コリント 14:6、14:26

2コリント 12:1

ガラテヤ 1:12、2:2

エペソ  1:17

2テサロニケ 1:7

1ペテロ 1:7、13、4:13

2016年4月17日日曜日

主への祈り・平成28年熊本大地震

主に栄光あれ!
祈ります!

主よ
まだ揺れはおさまらず、また不安な夜を迎えております。
いま全国の教会が、熊本への祈りを強められ、また支援団体への働きかけをはじめておられます。

まだ救われていない生存者の方のために祈ります。救援を必要とする人のところに、早く助けが届きますように!
まだまだ、崩れた家屋の下で助けを待っておられる方や、生き埋めになられた方の捜索活動が展開されてますから、このような緊急性の高い救命活動が維持できますように!

救援チームのために祈ります。彼らは恐怖の中で絶えず任務に当たっています。彼らが安全に作業をし、休息を得られ、勇気づけられながら仕事ができますように!

被災された方々の心のために祈ります。恐ろしい体験をしてしまった家族のために、愛する人のことを心配している人たちのために、自分自身の安全が心配でたまらない人たちのために祈ります!

こわい地震体験をしてしまった子供さんたちの為に祈ります。身体的には「元気」でも、慰めを必要としている子どもたち、抱きしめられて大丈夫だと安心させてもらう必要のある子どもたち、安全な環境を必要としている子どもたちの為に祈ります。

国のために祈ります。政府や決定権のある人のために、また役所でのややこしい手続きなしに活動ができますように、不正がなくなりますように。

活動が長期化する救援団体に、変化をもたらすために必要な知恵とあわれみの心が与えられますように!

わたくしの周りにいる兄弟姉妹が、単純に自分に何ができるかということだけではなく、心から必要に応えることができますように!

自分に、今すぐあわれみの心が与えられ、またその思いが大きくなっていきますように!

主よ
私は、どのように人々を助ける活動に関わることができますでしょうか?
主よ
私は、個人的に支援に携わっている人をどのようにして、経済的に支えることができるでしょうか?

主よ
全きの恵みを感謝します。
栄光在主
アーメン

2016年4月14日木曜日

創世記と新約聖書とのつながり覚書

創世記と新約聖書とのつながり覚書
菊地一徳牧仕・講解説教からの学び)

●世界の創造について
創世記1章
ヨハネの福音書1:3
コロサイ人1:16

●アダムとエバの創造について
創世記1~2章
第一テモテ2:13~14

●アダムとエバの結婚について
創世記1~2章
第一テモテ2:13

●エバの誘惑について
創世記3章
第一テモテ2:14





●アダムの罪について
創世記3章
ローマ5:12
第一コリント15:22


●カインとアベルの捧げものについて
創世記4章
ヘブル11:4

●カインによるアベルの殺害について
創世記4章
第一ヨハネ3:12

●セツの誕生
創世記4章
ルカ3:38

●エノクの携挙について
創世記5章
ヘブル11:5

●ノアの大洪水前の乱れ堕落した結婚について
創世記6章
ルカ17:27

●ノアの大洪水について
創世記7章
マタイ24:39

●ノアと家族8人が救われたことについて
創世記8~9章
第二ペテロ2:5

●セムの系図について
創世記10章
ルカ3:35~36

●アブラハムの誕生について
創世記12~13章
ルカ3:34

●アブラハムの召命について
創世記12~13章
ヘブル11:8

●メルキゼデクについて(受肉前のキリスト)
創世記14章
ヘブル7:1~3

●アブラハムの信仰義認について
創世記15章
ローマ4:3

●イシュマイルについて
創世記16章
ガラテヤ4:21~24

●イサクの誕生について
創世記17章
ヘブル11:17

●ロト、ソドムの滅亡について
創世記18~19章
ルカ17:29

●イサクの誕生について
創世記21章
使徒の働き7:9~10

●イサク全焼のいけにえについて
創世記22章
ヘブル11:17

創世記100% - 簡単に諦めないで

もう死ぬしかない、と
簡単に命を絶たないで下さい。

(菊地一徳牧仕・講解説教からの学び)

神は、ひとり子を十字架につけられ、
死なせるほどに
あなたを愛しておられるのです。
イエス・キリストを信じようが、信じていなくても、
あなたの価値は変わりません。

なぜなら、イエス・キリストは
すべての人の為に死なれたからです。
クリスチャンの為だけに死んだのではありません。
ご自分のことを信じている信仰者のためだけに
死なれたのではないのです。

神なんか知らない
そんな不遜で傲慢な者
ありとあらゆる、神に忌み嫌われるような、
不道徳な罪を重ねてきたような者
そんな罪びとのために
イエス・キリストは十字架にかかって
死なれたわけなのです。


ですから、あなたが何者でも関係ありません。
神は、あなたの事を愛してやまない方なのです。
ほかの誰よりも愛しておられます。
価値のない人はこの世の中にひとりもおりません。

実際には塵にすぎないのですけれども、
でもそれを価値あるものだと仰って下さっているのです。

もう辞めようとか
簡単に諦めないでください。

ここまでだ、死んでしまおうなんて
思わないで下さい。

広大な宇宙の広がりのなかで、地球だけなんです。
人類が生きていけるのは。

神様は、創世記の始めに記されているように
私たちが住める地球を最初に創られました。

そして、神のひとり子イエスを
私たちの罪の贖いのために差し出されました。

私たちはいったいどれだけ
天の御父に愛されているのでしょうか。

その事を考えてみてください。

主イエス・キリストを救い主と信じ、
自分はもう、神に贖いとられたものであると信じ、
神のものとなって、最高に価値のある存在に
なってほしいと思います。

そしてあなたは、最高に価値のある人生を
歩んでいくのです。
今までは虚しかったと思います。
何のために生きているのか、
何の価値も見いだせなかったかもしれません。

でもイエスに出会ったら全てが変わります。
世界観が一変します。
ものの見方がかわります。
考え方が変わります。

ビッグバンが正しいと思い、進化論が正しいと
思っていた。
先祖は猿だと思っていた。
偶然にただ生まれてきただけで、
自分には特別意味もない、
人生にはなんの意味もない、
そんなもんだと思っていたら、
ぜんぜん違っていた。

全てには意味があるのだと、
無駄なものは、ひとつもない。
自分だけでなく、自分に身の回りに
起きていること、すべてに意味があるのだと、
無意味な試練はない、
無意味な痛みはないのだということ。
すべてが違ってみえるようになるのです。

それが創造論に立つ信仰の恩恵です。

主に在りて感謝します。
アーメン

2016年4月12日火曜日

100%創世記


(菊地一徳牧仕・講解説教からの学び)
聖書を字義通り解釈すると、まず神様は3日もかけて地球をつくられ、その後の1日で恒星や宇宙を作られています。

「なにをバカなことを。」、と普通は言うところです。反対論者はまず化石を証拠に上げようとします。みなさん、化石はどのようにして出来るのか知っていますか?
動物の死骸の上にチリや土が覆いかぶさり、数千年、数億年かけて厚い地層の重みで石に変化したものと思われたでしょう。それはそのように教育を受けたからです。じっさい、動物が死んでも1ヶ月もしないうちに腐敗し風化していき、残りません。
化石になるには一気に土石流が押し寄せ一瞬のうちに真空パック状態になり高圧の状況に置かれる必要はありますが、数千年とか掛からずにもっと短期間で化石になります。


 じゃあ、そんな時代が地球年代記にあったかといえば、そう、ノアの洪水ですね。せいぜい4千年前くらいです。
実際に木が直立した状態の化石が発見されたりしますが、この木の化石は複数の異なる地層を縦に貫いているわけです。
地質学者は年代の異なる地層をまたいでるので首をひねるわけですが、これは不思議でもなんでもなく、まるでビーカーのなかで泥水をかき混ぜた後で沈殿したときみたいに、ノアの洪水の時期に一気に大量の土砂が水のなかで降り注ぎ埋もれたので異なる地層を貫くわけなのです。
そして、現代科学の年代測定法で地層を測定すると数億年とかいう単位で表示されてきますから、学者は首をひねります。
私たちの科学はそんなもんです。
 だからアポロ計画で月面着陸した際に舞い上がった地表面の塵が予想外に浅かったことも、今は理解できます。
月も若かったのです!

 だから、数億光年先の銀河だって、6千年前、天地創造の5日目に作られたのです。地球から見える星々として。
探求すべきは宇宙空間なんかではなく、神なのです。
我々は神を探求すべきなのです。

我を求めよ、さすらば全て与えられん。
主よ、その通りです。
アーメン

2016年3月30日水曜日

裁かれるに足る証拠はどこに?

私たちでさえ、端末のなかに膨大な数の書籍を収めることが出来ます。
ましてや神のなさる御業(みわざ)に欠けたところがあるとでも思うのでしょうか。

五感から入ってくる全ての記録、頭脳に集結された情報は天に記録されます。
心の動き、発した言葉、すべてです。

私たちの為す全ての業(わざ)、言葉だけでなく、行為だけでなく、
心のなかで考えていること、思い、動機、すべて。
隠れてしたことも天に記録されている。
死んだのち、裁かれるに値する証拠はすでに天に山積みされた状態にある。
しかしこの事に関し、憂慮する人はあまりにも少ない。


神の御倉(みくら)の基(もとい)

神様のなさる技は「義」と「公平」、「慈しみ」と「誠(まこと)」、これが神の御倉(みくら)の基(もとい)であると詩編89編-14節に書いてある。
すべて神のさなることは「義」と「憐み」によるのです。

2016年3月23日水曜日

主は私の肩を抱きしめて下さいます

主の愛が突然嵐のごとく襲い、涙が止まりません。
主は私の肩を抱きしめて下さいます。
『 迷える子羊だったわが弟よ、幸せになりなさい。
 どこにも行く必要はないのだよ。
 わたしは、これまでどうしたか知っているだろう。
 病の人々を癒し、罪を告白する人々を癒してきた。
 あなたも、そのようでありなさい。
 愛する人を抱きしめなさい。
 愛を欲しがる子供たちに愛を与えなさい。
 そして私についてきなさい。
 あなたは、これからもっと栄える。
 わたしがそうする。
 わが弟よ
 愛する下僕(しもべ)よ・・・』

主よ。
祝福の御言葉を感謝します。
あなたはいつも、わたしを抱きしめていて下さいます。
わたしがどこへ行こうとも。
そこにあなたはおられます。
尊き主の御名によって感謝の祈りを捧げます。
アーメン

2016年3月16日水曜日

マザー、まなざしの向こうに見ていたものは・・

もしあなたが謙虚であるなら何ごともあなたの心を汚さないでしょうもしあなたが聖人であるなら神に感謝しなさいもしあなたが罪人であるならそのままでいてはいけません(マザー・テレサ)

マザー・テレサはローマ教皇によって聖人に認定されました。カトリックによれば殉教者でない人が「聖人」に認定されるには、死後に2度の「奇跡」を起こしたことが認定される必要があるといいます。
しかし彼女は「奇跡」に関してこのようなことを言っています。
「奇跡なのは、私たちがこの仕事をすることではなく、それをすることが幸せだということです。」
「私は、不親切で冷淡でありながら奇跡を行うよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたいと思います。」

---
彼女はカトリックの枠を飛び越え、救済の道を奔走しました。
死後それでもマザーはカトリックの聖人となりました。
なぜだと思いますか?

マザーは、助ける人々の姿にイエス様を見ていました。渇いているイエス様、痛みのうちにあるイエス様、血を流すイエス様、銃弾に倒れたイエス様、飢えに苦しむイエス様・・・彼女達が嬉しそうに施しをするのは、いつもイエス様と会えたからなのです。マザーはカトリックの枠を飛び越え、見捨てられた人々に救済の手を差しのべ続けた真のクリスチャン、キリストにならう者であったと思います。わたしはマザーの姿に献身・・身を捧げることの意味と喜びを学びました。

祈ります。
天の父さま
わたくしもマザーのように、出会う人々のうちにイエス様の姿を見て、喜びに溢れて救済の道を歩めるようでありたいと思います。
しかし主よ。
自分ではどうすることもできません。
わたしは罪びとの頭で、死罪に値する人間ですから。
ですから主よ
あなたがそうして下さい。
聖霊を送ってください。
いついかなる時も、あなたがいて
歩む先に、あなたを見るようにしてください。
尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

2016年3月14日月曜日

説教テーマ「あなたの隣人を愛せよ」

まだ粗削りですが、
説教の学びを受けて、実際に説き証しを組み立ててみました。

<注意点>
(1) 一番大切なのはどれか。
(2) どの言葉が一番多いか。

1 説教は「宣べ伝える」こと
2 説教は「福音を語る」こと
3 説教は「教える」こと
4 説教は「勧める」こと
5 説教は「証言する」こと

叱りつけるのではなく、神の恵みを証しする。


対象テキスト
(マルコの福音書12章)
12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。
12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」


--- 組み立てた説教本文 ---

説教テーマ「あなたの隣人を愛せよ」

こんにちはわ
本日のテーマは「あなたの隣人を愛せよ」です。

まず祈ります。
天の父さま、本日このように皆さまとともに聖書の学びが出来ることを
感謝します。
隣人を愛せよとイエス様は仰いましたが、いま日本でも簡単に少年が
ナイフで人を殺傷することが起きており、いかに神の愛不在の状況で
あるかを象徴しているかのようです。
本日、愛とは何か、その本質を学べることを感謝し、
主イエス・キリストの御名によってお祈りを捧げます。
アーメン

さて、この「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というこの御言葉ですが、
聖書に何回も出てくる戒めの言葉ですね。
この隣人って誰なのでしょう?
誰だと思いますか?
・・あなたの席のとなりに座ってるひとですか?
あなたの住んでる家のお隣さんのことでしょうか?

マタイの福音書5章から7章までに書かれた山上の垂訓、これはまさに天の御国の宣言です。
素晴らしい聖句の塊、まさに聖なる銃弾ですね。
そして8章からはその立証となっているわけですが。
5章43節から48節最後まで読んでみますね。
5:43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

これが神の愛、アガペーするといいます。
日本人が考える愛=ラブ、これは男女関係に使われることがおおいのではないでしょうか。
また、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」は、旧約のどこにもない、イエス様の新しい教えとなっております。
このように、真に徹底した愛は、祈る相手をも憎まない愛なのです。

また、ルカの福音書10章でもイエス様と律法学者との問答が記されていますが、ここでは善きサマリア人の話しが有名ですね。
ちょっと読んでみましょう。
開ける方は開いて下さい。
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

ここで登場人物が3種類登場しております。
祭司とレビ人については、民数記18章6節以降を読みますと、主がイスラエル人のなかから特別にレビ族を天幕の奉仕をする人たちと定め、また祭司職を賜物の奉仕として与えられたことが書かれてあります。つまり彼らは純粋なユダヤ民族の血を守り抜いている人たちなんですね。
サマリヤ人についてはどうでしょう。
サマリヤ人は、純血ユダヤ人がもっとも嫌う人種でした。
ヨハネの福音書4章にはサマリヤの女の話しが出てきますが、イエス様の行動はじつに奇妙です。
聖書地図を参考にされるとよく判りますが、サマリヤの地域はユダヤ地方とガリラヤ地方との間にあり、ユダヤ人はサマリヤを避けるために、ヨルダン川の東側の道に迂回して、ユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していました。なぜか、それはサマリヤ人とユダヤ人の間には深い敵対心があったからです。サマリヤ人は、ユダヤ人と異邦人の混血人種でした。また彼らは、ユダヤ地方のモリヤ山ではなくサマリヤにあるゲリジム山にメシヤが戻って来ることを信じて、ユダヤ人とはまた別の宗教を造っていました。そのため、純粋な信仰を求めるユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、同じようにサマリヤ人もユダヤ人を嫌いました。
ユダヤ人がサマリヤの中を通るものなら、サマリヤ人からののしられ、つばをかけられたでしょう。
ですから、イエス様一行が「サマリヤを通らなければならなかった」と言うのは、サマリヤがユダヤとガリラヤ地方の中間に位置していたからではなく、別の理由があったのです。
それは、これから現われる一人の女に出会うためでした。
イエスは、人種的、宗教的な違いを超えて、ひとりの女に会うために、あえてユダヤ人も避けるサマリヤを通る道を選ばれたのです。それは聖書に残るような話しであったことからも、イエス様は敢えてそうされたとしか思えないということです。

脱線しました。
要するに、祭司とレビ人は純潔ユダヤ人で、サマリヤ人は混血。それでお互いに嫌ってるということです。この関係を知らないと、「善きサマリア人の話し」は意味が判らないことになりますので、
前知識として申し上げました。

さて、
ルカ10:30で「ある人が、エルサレムからエリコへ下る途中で、強盗に襲われた。強盗どもは、その着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。」
この場合、ただ助けることが隣人を愛すことです。とありますが、
でも、次を見てください。「たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
とあります。祭司にとっても、レビ人にとっても、この人が死んでいると思ったかもしれません。それで、死体にふれると汚れるので、彼らは通り過ぎたのかもしれません。
倒れた人を助けるという、あまりにも明らかな愛の行為ではありますが、彼らは理屈を並べるだけで行なおうとしておりません。ところが、ユダヤ人からすると汚らわしい、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに居合わせ、彼をかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやったというストーリーなのです。
次の日、彼はデナリ2つを取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。
「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

彼は、当たり前のことを、責任をもって最後まで実行しました。

「この3人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」
彼にも、実際に行なっていることが大事であって、人種なんか関係ないということぐらいわかっていました。だから、わからなかったのではなく、わかっているけれども行なっていないだけだったのです。
するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

こうして、イエスは、サマリヤ人の話を出すことによって、彼が律法を守り行なっていないことをお示しになりました。
どうでしょうか、隣人を愛しているかどうかは、見分けが簡単なことが判られてきたのではないでしょうか。
それなのに、理屈をこねて、自分が誤っていることを認めないと、自分を欺いてしまうのです。
ですから、単純さが必要です。自分が出くわす人々が困っていないか。助けを呼んでいないか。
何も、賞味期限ギリギリの食料を頭さげてもらい受けて、橋の下に行って、浮浪者たちに食事を恵みなさいとか、そんな大きなことを要求されているのではないのです。
あいさつをしているか。そうした、簡単なことによって、私たちは隣人への愛を示すことができます。
ですから、難しいことを考えるのではなく、ただ、隣人に良くしてあげましょう。


祈ります。
愛する天の父さま
隣人(となりびと)を愛するとは、
どんな人にも等しく太陽のように照らす神のアガペーの愛から来ていることを知りました。
しかし主よ
私たちは、どうしても利己的に生きてしまう罪びとです。
そんな私たちですが、自分の眼の痛みに自分が敏感であるように、
隣人(となりびと)の痛みにも敏感である私たちでありたいと思います。
自分では到底できそうもありませんが、
主よ
あなたが今そうして下さいましたことを感謝し、
尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

2016年3月13日日曜日

説教の学び 3/13 「どれが一番大切ですか?」

マルコの福音書 12:28~31

牧師:一番大切と思う所を3つマルで囲ってください。

自分: 唯一の主 、 主を愛せよ 、 隣人を愛せよ

牧師: 神を愛し 、 自分を愛し 、 隣人を愛せよ


説教のテキストから何を引き出すか。

どれが一番大切でしょう? という問いかけ。
何だろうと思わせる。
これでもない、あれでもない・・・と考えさせてみる。

じゃあ、それらは本当に大切なのでしょうか?

ヒトの心が持つ機能、このうち「愛する」という機能、これが一番大切です。
ほかにも「学ぶ」という機能もありますけども、愛するということが大事です。

じゃあ、この愛という機能をどこに向けるか・・・
①神 、 ②自分 、 ③隣人

よく耳にするのが
「隣人を愛するって、わからない。」とか、
自分を愛することがよく判ってない方もいらっしゃいます。
これらは全て、初めの「神を愛する」ということが判ってないことから
きてることなんじゃないでしょうか。

じゃあ、神を愛してますか?
神を愛するためには、どうすればいいですか?


<本日学んだ極意>
(1) 命題を取り出す。(一番大切なのはどれか。)
(2) どの言葉が一番多いか。

<いかに話すか>
(1) 思想をまとめる
(2) スピーチ(プレゼンテーション)の能力

<講義後の聖徒たちによるディスカッションにて>
(1) やっぱ、情熱って大事だよねー!
(2) 愛ですよ、愛! 愛が無ければ、他の行為は無に等しい!




2016年3月6日日曜日

大津キリスト教会 日曜礼拝


私はクリスチャンになってから、世間とのつながりはライトタッチで生きるようになりました。
そのほうが楽に生きられます。
住民票は天の国にありますから。
本日は聖餐式があり、
米村牧師のお説明かし後に男女合同食事会に参加しました。
大変おいしゅうございました。


ヨハネの手紙1 
2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。


「キリストにはかえられません」
聖歌521番(新聖歌428番)

キリストにはかえられません
世の宝もまた富も
このおかたがわたしにかわって
死んだゆえです
世の楽しみよ去れ世の誉れよ行け
キリストにはかえられません
世のなにものも

--
しかし世の富は、ほんとうに悪いものでしょうか?
私にはそう思えません。
金銭を愛することが良くないということなのです。

私たちは大いに世と関わりを持たなければならない。
しかし、溺れてはいけない。
クリスチャンは一定の距離を置いているべき。

神に愛を捧げるのか
世に捧げるのか

世と世の悪は滅び去るのだ。
私たちは永遠の存在、滅びるものを愛すると
魂に大きな傷を負ってしまう。
※ソロモン王の例・・・「伝道者の書」参考

世は決して満足せしめない。
世は全部を要求するようになる。
最初は少し、
だんだん、時間と金と全財産を
奪っていく力を持っている。

世とは神と対局にあるものであるが、
世も心を要求する。

人との愛も見えなくするもののひとつ。
恋愛のキケン

神を愛する。
世との正しい距離感

私たちの魂は大きくて偉大で、
神様以外のものでは満足できないように
出来ている。

この世を愛しない。
一定の距離を置いていく
これはひとつの訓練でもある。

ユダヤ民族はなぜ偉大な功績を残せたのか。
彼らは、旧約聖書を残すことで、
世に貢献をしてきた。
どうして、出来たのか。
彼らは世に一定の距離を置いていた。
イスラエル人は世に流されない習慣を
2つ身につけていた。

習慣① 安息日
6日働いて7日目に休む。
これは仕事に溺れないため。
仕事の奴隷にならないようにするため。

汝の持てるものを捨てよ。
ただ自分自身であれ。

習慣② 捧げる
彼らは収入の十分の一を捧げた。
今のような保障制度がなかったので、
病人・やもめ・高齢者を支える必要があった。

現在の私たちは、教会に集うことによって、
社会貢献していることになるのです。
(※自分を捧げる意味)

以上、礼拝時メモより記録した。

主に在りて
アーメン


2016年2月27日土曜日

エゼキエル書にみる幻の神殿 - 再臨のキリスト

勇気が出ます、最後までお読み下さいませ!

エゼキエルによる素晴らしい福音です。
再臨のイエス様がここに!
ハレルヤ! 
マラナタ! 主が来てください。

主に在りて
アーメン
----------

エゼキエル書40-43章 「幻の神殿」

ロゴスミニストリーからの学びより抜粋

至聖所
エゼキエル書 
41:21 本堂の戸口の柱は四角で、至聖所の前には何かに似たものがあった。
41:22 それは木の祭壇のようであり、高さは三キュビト、長さは二キュビトで、その四隅も台も側面も木でできていた。彼は私に、「これが主の前にある机だ。」と言った。

エゼキエルが幻のなかでみせられた神殿、その本堂にある至聖所の解説。
モーセの幕屋とソロモンの神殿においては香壇のあった所でしたが、ここでは単純に木でできた机のみであり、本堂の中には燭台もなく、供えのパンの机もありませんでした。そして最も肝心な、契約の箱と贖いの蓋がありません。つまり至聖所の中は空っぽだったのです。
Ezekiel's Temple, Jerusalem, Israel, Future Jewish Messianic Kingdom: Throne in Most Holy Place 


 なぜでしょうか?
 それは、再臨のキリストご自身がその体を持って至聖所に入られるからです!43章に出てきますが、主の栄光がここに戻ってきます。それは主イエス・キリストご自身が入られて、至聖所で御座に着かれるからです。もはや光を灯すための燭台も、香を炊くための壇も必要ではありません。そして、十戒の石の板がある契約の箱も必要としないのです。 

 エレミヤ書31617節には、契約の箱を必要としない預言があります。「その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、・・主の御告げ。・・彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。

 ゼカリヤ書には、こう書いてあります。「彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(6:13王であられかつ祭司であられる方です。

 そしてこの方から御言葉がでます。エレミヤ書3章、イザヤ書2章の預言には、すべての民がここに来て主の教えを聞きます。第一コリント13章に書かれているように、完全な方が来られたら、預言も知識もすたれます。もうこのように聖書を教える者たちがいなくても、主ご自身が教えてくださるのです!

ハレルヤ! 
マラナタ! 主が来てください。

主に在りて
アーメン