ちいろば先生「旧約一日一章」より
イサクは妻が子を産まなかったので、
妻のために主に祈り願った。
(創世記25章21節)
神の約束を待つ者にと言って、まことに一日は千年にまさる思いである。どこまでも神の約束を信じ待つことができるか否か、信仰はその戦いである。あのアブラハムにして神を待ち抜くことができなかった。彼は妻のすすめを受け、はしためハガルによってその子を見ようとしたのである。それほど神を待つということはむつかしいことである。
しかしイサクは父の轍を踏まなかった。人間的な解決をはかろうとしなかった。どこまでも彼は神の言葉の成就を待ったのである。イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った、と聖書は記している。祈りだけが、人間をしてどこまでも神を待たしめる力である。
私たちの信仰生活で祈りが忘れられている時、私たちはこの世の子になっている。祈りの枯渇は教会の危機である。イサクが最も人間的な問題にまで徹底的に神を待ち望んだように、私たちもすべてにおいて神を待つ者となろう。そしてイサクが祈りの人であったように私たちも祈りに生きる者となろう。信仰生活にとって祈りの生活ほど自分をためされるときはない。そしてこれほど自分を強めてくれるときはない。
主よ
祈りの力を与えてくださり感謝します。
主イエス・キリスとの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
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