2016年8月5日金曜日

喜べ、今が恵みの時である

ちいろば先生「旧約一日一章」より

サラの一生は百二十七年であった。
「創世記23章1節」

 私たちは、サラのあまりにも人間的な姿にふれ、ほんとうにこれが信仰の母なのかと疑いたくなる。彼女は自分に子供がないことを憂えて下女ハガルを夫に与え、その女が子を孕むやいなや、嫉妬に燃えて彼女につらくあたり、その後自分にも子供が与えられると、下女の子と遊ぶことを快しとせず、夫をそそのかして、あわれな母と子を追い出す。また天の使いが神の約束を告げたとき、それを笑い、そのことを咎められるや偽って、自分は笑わないと否む。このようなサラがなぜ信仰の母と呼ばれるのであろうか。

 しかし、サラの素晴らしさは彼女の人格によるのではない。神の選びによるのである。彼女が信仰の父アブラハムの妻として選ばれたことにあるのである。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない」(エペソ2章8〜9節)。ただ彼女がアブラハムの妻として、彼と共にいたところに彼女の光栄のゆえんがあったのである。

 「サラの一生は百二十七年であった」と聖書には彼女の年齢が記されてあるが、聖書に出てくる夫人のなかで、年齢が記されているのはサラだけである。これはサラが偉大であったからではなく、その命の数が恵みの数であり、恩寵の累積であった。これが聖書に彼女の年齢が記されている理由である。

 神により選びを知り、ゆるしを知るにまさる知恵はない。サラの百二十七年がことごとく神の恩寵であったように私たちの生涯もまたことごとく主の恵みである。

今が恵みの時であることを喜ぼう。
今日が救いの日であることを感謝しよう。
たとえ今がどんな時であろうとも。

アーメン


 

0 件のコメント:

コメントを投稿