2016年8月4日木曜日

神ご自身の手で十字架にかける痛み

ちいろば先生「新約一日一章」より

この幼な子のように自分を低くする者が・・・
(マタイ18章4節)

 現実の子供は無欲どころか貪欲で、しかも純真無垢であるとは到底思えない。イエスがここで言おうとしているのは、子供が純真であるかどうかではなく、小さい者になるということである。

 いっさいのものを捨てて従っている弟子たちにもなお欠けたものがあった。それが自分を低くするということであった。これは私たち信仰生活をしている者にとって大切なことである。小さいということは許されていることである。現実の世界においても、小さい者の一人が滅びないように願っていくという働きが求められている。

 私たちの教会においても、捧げている献金が自分の身を痛めるほどのものかどうか考えてみると、痛まない程度にというふうな便宜主義に陥っていないだろうか。神がひとり子イエスをこの世に送り、神ご自身の手で十字架にかけるということは、痛まない程度などというものではない。私たちはイエスの十字架の重み、神の愛、それらに対し事実を持って応答していくこと、そこに教会生活があると思う。

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