ちいろば先生「旧約一日一章」より
この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。
(創世記30章43節)
旧約においては、女性が子供に恵まれ、男性がその事業に繁栄することをもって、神の祝福のしるしとしている。しかしレアとラケルが競い合って夫ヤコブの子を産もうと卑劣な手段を用いたり、ヤコブのラバンに対する狡猾な手段をみるにつけ、彼らはまったく神に愛された人物としてふさわしからぬものである。しかし神はヤコブに大いなる富を与え、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つことをゆるし、彼に対する祝福を惜しまれなかった。
聖書にはこのような逆説的な事柄が多く記されてあり、私たちはその解釈や理解に戸惑うことがある。神は良いことをしたら報酬を与え、悪いことをしたら罰を与えるような、人の自由になる神ではない。なぜ神はカインの供物を顧みず、アベルの供物をよしとされたのか。なぜ主イエスはパリサイ人の家に泊まらず、取税人ザアカイの家に泊まることにされたのか。なぜ父親は、親孝行な長男には一度もしたことのない宴会を放蕩の末に帰ってきた弟のためにしたのか。私たちはその理由を理解することができない。
しかし、愛とは理由を求めないものではなかろうか。根拠を無視した業(わざ)ではなかろうか。この不条理、この矛盾こそ、真実な愛の本質ではなかろうか。
「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」(ローマ9章15〜16節)
使徒パウロは神がヤコブを愛し、エサウを憎んだことに関してこう記している。もし神が人間の意志や努力によってのみ報いたもう方であるならば、私たちは絶望するよりほかにない。なぜならば私たちはだれも神の愛や祝福を受けるだけの権利を持っていないからである。神が理由なく、ただご自身のゆえに私たちを愛され祝福してくださるゆえに、私たちに希望が与えられているのである。まさに私たちは「恵みにより、信仰によって」救われたのであり、神の賜物なのである。
このように、悪どいヤコブを愛し祝福したもう不条理の神こそ、聖書が証しする神であり、私たちはこの神ゆえに、希望をもって生きていけるのである。
アーメン
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