ちいろば先生「新約一日一章」より
これに聞け。
(マタイ17章5節)
私たちの信仰に力が出てこないのは、画像に映し出されたイエスを見ているからであって、私に近づき、私に手をおき、私の内から悪霊を追い出してくださるイエスに出会わないからである。
私たちは、神に何かをしようとし、ペテロが「ここに小屋をを三つ建てましょう」と言ったように、せめて小屋ぐらいは神のために建てようと考える。しかし、私たちにとって大事なことは、何かをするというのでなく、イエスの言葉を聞くことである。聞くということは、聞き流すということではなく、聞き従うということである。
私たちはいつもいろいろな声を聞いている。ある時は神の声を、ある時は自分の内なる声、本能の声、勝手気ままな声を聞いている。しかし、その中でいつも神の声、キリストの声を聞き、それに従っていくことが大事である。
神の言葉にかけていくということは、一つの恐れを起こすものである、聖書にこう書いてあるから私はそうするのだというふうに立ち上がっていくと、恐れが出てくる。しかし、その恐れのなかで、手をおいて「恐れることはない」と言ってくださるイエスに出会うことができるのである。
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