2016年8月7日日曜日

ただ主の助けによって始められること

ちいろば先生「旧約一日一章」より

主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう。
(創世記24章7節)

 アブラハムが僕に、息子イサクの嫁探しを命じた地は、わたしの国すなわちアラム・ナハライムであり、そこはカナンのような痩せた土地ではなく、豊穣の地、メソポタミア文化の都として後世まで名を残した地である。そんな所から息子の嫁探しをして、このような田舎の地に嫁候補を連れてきなさいと言われたのであるから、僕(しもべ)は「あなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきか」と疑問を発したのは当然のことだろう。若い娘がこのような田舎の貧しいところへ来るだろうか、と僕が思ったのは、もっともなことである。

 主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう。イサクは決して故郷に帰ってはならなかった。ならばどうして彼は妻をめとることができようか。アブラハムは「主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう」ということだけが頼りであった。否、このことこそ、彼の立ち所であったのである。

 アブラハムはイサクをモリヤの山にともなったときも、神だけをたのむことができたゆえに彼はモリヤに行け、との主のみ言葉に従うことができたのである。

 イエス様から天国にはいることのむつかしさを聞いて、「では、だれが救われることができるだろうか」と弟子たちがつぶやいたとき、主は「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない」と教えられた。(マタイ19章26節)

 信仰とは、このような神にたよって踏み出すことを意味する。それはただ主の助けによって始められることである。恐れたり悩んだりすることは愚かである。いつでも主は信じる者の前にみ使いをつかわして、その歩みを助けたもうものである。

主よ
本日はイサクの嫁探しを通して、どのように主と接したら良いかを学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

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