ちいろば先生「旧約一日一章」より
「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」
(創世記27章38節)
ヤコブは母の狡猾な陰謀の手先となって、父からその祝福をだましとる。兄エサウはそれを知り、心ひそかに弟の抹殺を計画する。このような相克こそ実は私たちの生きている現実である。現実をふまえた信仰でなければ、それは単なる理想主義である。聖書の中にこうしたリアルな物語が記されていることこそ大切なことなのである。
それにしても盲目の父をだましたヤコブが祝福を受け、正直に父の言葉に従って山野を駆け巡り、父のために真心から料理を用意したエサウが祝福からもれるということは、私たちの理解に苦しむところである。しかしこの物語の中にこそ、神の峻厳さが告白されていることを見落としてはならない。エサウは父に向かって「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」と声をあげて泣いたと記されている。ある旧約の学者は、このエサウの涙は、わなにかかった獣の叫びのように、聖書中最も哀調に満ちたものである、と語っているが、まことにそのとおりである。しかし、ここにエサウの神に対する不真剣さが示されている。
「祝福はただ一つだけですか」と語る彼の言葉には、祝福に対するルーズさが顔をのぞかせている。「わたしをも祝福してください」という言葉の中に、救いについて彼のあまさが感じられる。
主イエスのたとえの中に、十人の乙女の話がある。あたふたと油をととのえて帰ってきて、「ご主人様、ご主人様、どうぞあけてください」と叫ぶ乙女に対して、「わたしはあなたがたを知らない」という返事はまことに残酷である。しかし天国や祝福にはこのような峻厳さがあるのである。そのゆえにきょう一日を精いっぱい主に向かって生きること、これが信仰の要諦である。
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中山考察
しかしヤコブの狡猾さはどうだろうか、兄エサウのふりをしてまで、父の祝福を代わりに受け、それが父にバレているのに、父はヤコブを叱らない。わたしはここに、神の意志を感じる。単に早く生まれただけのエサウに長子の権利を与え、国々を納める覇者となることを神はお許しにならなかった。エサウはすぐに逆上する。感覚に支配されやすい彼の性格は、「おまえはおのれの剣(つるぎ)によって生き、おまえの弟に使えることになる。」と父イサクがエサウに語ったように、彼は暴力と継続的な紛争にあけくれることになる。そこで神は(押しのける・かかとつかみ)という意味の名を持つヤコブを祝福された。
主よ
神は哀れみの神であるだけでなく、
信仰するものに峻厳さを示してくださることを
ここに学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
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