ちいろば先生「旧約一日1章」より
主はヤコブに言われた、「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい」
(創世記31章3節)
アブラハムには行きなさいと命じられ、ヤコブには帰りなさいと語られた。神はいつも、その人に向かって語られるかたなのである。また、ガリラヤの漁夫シモンに「ついてきなさい」と言われた主が、お共をしたいと願い出たゲネサレの人に向かって「あなたの家族のもとに帰って・・・」(マルコ5章19節)と命じられたのと同様である。
信仰とは家を出ることでもなければ、家に帰ることでもない。主の語りかけに従うことである。
「忙しくて礼拝に出ることもできない」と嘆く人がいる。礼拝に出ることを慕い求めることは尊い。しかし、今おかれている場所において神の語りかけを聞き逃すことは愚かな行為である。神はどんな境遇の人にも使命を与え、その人に語りかけてくださる。それを聞き分け、み言葉に聴き従い生きること、それが信仰である。
ヤコブはずるい男である。しかし彼は神の語りかけを聞いたとき、決然とそれに従ったのである。大事なことは神の語りかけに従順であるということ。
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(中山の回想)
そういえば、ここ半年の動きがめまぐるしい。とくに大きな問題もなく勤務していた病院をとつぜん辞めて老健施設で働きだしたかと思えば、今度はとつぜんそこを辞めさせられたりして、もう看護師はこりごりだと思ってまったく異業種の工場勤務をやり始めたら、また主からの語りかけがあり、それに応じて精神看護に戻る道を探し始め、いまは新築の病院で素晴らしいスタッフに恵まれ、患者さんにも頼りにされる仕事に就いている。ここに主の道備えを感じないわけにはいかない。すなおに主に感謝し、わが使命を全うするのみである。はてさて主からの次なる命令は、とどまれなのか、旅立ちなさいなのか、わたし・僕(しもべ)は命令に従うのみである。ここ最近のわたしの行動を追っている兄弟姉妹や牧師にも、私が仕事を辞めると言ったり、戻ると言ったりして、ご心配をかけてしまった。私は気違いでもなければ、気分屋でもない。ただ主に聞き従っているだけである。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
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