ちいろば先生「旧約一日一章」より
あなたはもはや名をヤコブと言わず、
イスラエルと言いなさい。
(創世記32章28節)
イスラエルとは「神勝ちたもう」という意味だそうだ。ヤコブとは「押しのける」という意味だそうで、確かにヤコブは兄を押しのけ、叔父を押しのけた狡猾な人物であった。彼は自分のためにすべてを押しのけ、今や多くの富を得ることができた。しかし今や彼は故郷を前にし、兄との再会をひかえて「大いに恐れ、苦しみ」、不安におののいていたのである。
ヤコブは、この不安の中でヤボクの渡しをわたり、一人の人と組打ちをした。その組打ちは夜明けまで続き、ヤコブの腿(もも)を強打された際に関節が外され、彼は歩行困難になってしまった。それでも彼は相手が帰るというのに「私を祝福して下さらなければ、帰しません」と言い、しがみついて離れなかった。闘いの相手の人は、ヤコブに名を尋ね、これからは「あなたの名はイスラエルです。あなたが神と人に力を競って勝ったからです」と言われた。
ヤコブは押しのける者から、イスラエルすなわち神勝ちたもう、神にうち勝てる者への転換を果たした。古い自分から解放され、神にある人生に新しくされたのである。
主イエスはゲッセマネで「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈った(マタイ26章39節)。そのときイエスは苦しみもだえて「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22章44節)。また「そのとき、み使いが天からあらわれてイエスを力づけた」(ルカ22章43節)と記されている。神の子が神に勝たれるにさえこれほどの苦しみと助けが必要であったのである。
信仰生活とは、神に勝たれる人生を送ることである。常に神のみこころが優先される生活である。いっさいが神にゆだねられることである。そのとき、私たちは神を仰ぎ見て「力あるかたが、わたしに大きなことをしてくださった」と神をあがめることができるのである。
あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさいと、主はきょうも私たちに語りかけておられるようである。
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(中山の感想)
ヤコブが闘っていた相手はおそらく、み使いである。主はヤコブがどれほどの思いで行動しているのかを試された。そしてヤコブは肉の闘いから解放され、神とともに歩む人生を選択することができた。イエス様でさえ、これから肉の身におきる死の十字架の苦しみから逃れるために、ゲッセマネにおいてみ父に祈り、血の汗を流し、天使が勇気づけてくれ、やっと自分の運命を克服されたのである。わたしも、日頃の暮らしむきの自慢、つまり仕事や家庭や財産、地位、名誉、ほまれなどを自分と思い込んでいることから離れ、ただ主の道備えに従い生かされていることに感謝する自分でありたい。
主よ
あなたが道をお示しになってください。
わたしは僕(しもべ)ですから、すなおに従います。
いま生かされていることに感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
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