2016年7月22日金曜日

なすべきことは神にささげること

ちいろば先生「新約一日一章」より

あなたがたの手で食物をやりなさい。
(マタイ14章16節)

 第14章はヨハネの死、パンの奇跡、ガリラヤ湖でのイエスのことが記されている。
 ヘロデは非常に気の弱い人間であった。ヘロデヤのことでヨハネから責められると悩みながらも、なおヨハネをかばい、喜んで教えを聞いていたのである。しかし一方では肉欲を楽しみ、ヘロデヤとの生活から逃れることができず、かといって自分を責めるヨハネを抹殺する勇気もない。真理にも忠実であり、この世にも忠実であろうとしたのがヘロデの姿から学びとることができる。しかし、そういう生き方はいつまでも続かない。信仰に徹底するということは、ある意味においてこの世から死にきらなければできるものではない。この世でも楽しい生活をしたいし、天国への行きたいというのは欲というものである。それはまるでシーソーの両端を同時に上げようとするようなものである。

 イエス様は、「日々自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい」と言われたが、自分の十字架を背負うということは、自分がなくなることである。何かを自分が持たないというよりも、持つ自分さえもなくなってしまうということが十字架である。十字架というのは徹底的な自己否定である。それでこそ自分の十字架と言えるのである。そこに私たちの決断がある。信仰は決断である。ヘロデはその決断ができず、その結果、ついに真理を抹殺するという罪を犯し、それが心の中に残った。ヨハネを殺したことがヘロデを生涯苦しめた。このようなことからも、十字架の許しの素晴らしさを覚えたい。

 13節からはパンの奇跡が語られている。夕方になり空腹になることは、この世の制約のひとつである。私たちの信仰は、このようにこの世の道理に直面する。「聖書を読みたいのに、時間がない」とよく耳にするが、「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに行かせてください」と弟子たちが言ったのと同じことが起きている。この世の道理に信仰生活が直面したときに、この世に従うならばそこに十字架はない。十字架は、この世の道理を突き抜ける。イエス様は「あなたがたの手で食物をやりなさい」の手とは神に捧げる手のことを言われたのである。教会のなかで旗振りをしたり先導したりする必要はない。マルタにならなくてもいい。私たちのなすべきことは神にささげていくことである。私たちが持っているものを神にささげたとき、神はそれを価値あるものに変えてくださり、私たちに賜るのである。そのようにして神から返されたものが、やがて5千人以上もの人々を飽かしめるような働きとすることができるのである。

主よ
自分の十字架を背負うとは、自分がなくなってしまうまで徹底的に神にささげ尽くすことであると知りました。
本日の学びをありがとうございます。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

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