2016年7月12日火曜日

イエス様が好まれる人とは

ちいろば先生「旧約一日一章」より

心の貧しい人たちは、さいわいである。
(マタイ5章3節)

 3節から言われていることは、私たちの考え方とは逆説的である。貧しい者が幸いであるということはこの世ではありえない。強い者が地を継ぎ、弱い者や柔和な者はいつも放置される。憐れみ深いようなことをしていたら人生の落伍者になってしまう。心が清いことも、この世では通用しなかった。

 ところが、イエス様をお迎えすることによって、貧しい人が幸いになる世界がもたらされる。なぜ貧しい人が幸いであるか、その理由を述べるとこうなる。イエス様は心の貧しい人のところを選んで行かれる。だからその人たちは幸いなのである。

 イエス様は、誰も相手にしてくれず、自分はダメだと絶望している人のところへ行って友達になってくださる。罪を犯してどうしようもないというその罪を。イエス様は引き受けてくださる。悲しんでいる人を探し求めてその人のところへ行かれる。だからイエス様に出会い、イエス様からの慰めが与えられるのである。不公平なことにイエス様は、悲しんでいる人を求めて行かれるのである。

 もし、私たちがイエス様に出会い、イエス様の言葉を聞き、手に触れ、足に触れようと思うなら、ここに書かれているような人となり、そういう生活をしていかねばならない。聖書には富める青年の話しがある。「立法をどんなに頑張って守っても永遠の生命を得ることができない。どうしたらあなたのように永遠の生命に生かされるという確かさを持つことができますか?」と尋ねた時イエス様は「あなたの持ち物が、それを邪魔している」と言われた。「貧しくなるために」持ち物をみな人にあげたらよい、そうしたら永遠の生命を受けることができると言われたのである。

 先祖の遺産を持ち、生活も安定しているのだから幸せだと感じる。だが、「これが本物だ、世の宝ものがあそこに埋まっている」と考えるのならば、全財産を売り払ってでも、その土地を買い占めにかからないだろうか。いっさいのものを捨てていく情熱が、信仰には必要である。

 問題は、私たちがどこまで本気で地獄とか天国というものを信じているか、どこまでほんとうに神を信じているのかにかかっている。神の言葉を「もてあそぶ」ようなことをしていては、イエス様と出会うことはできない。あなたのためにこれもあれも捨てます、片目を失っても我慢しますというほどに神を慕い、イエス様を慕ってこそ、イエス様に出会うことができる。

 そこに私たちが貧しくなっていく世界がある。山上の垂訓は、イエス様がそういう人のところへ来られると解釈すれば納得できる。

主よ
イエス様が向かわれるような自分でありたいと思います
主がそうしてくださいます
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン

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