ちいろば先生「旧約一日一章」より
ただ神にのみ仕えよ。
(マタイ4章10節)
イエスは、悪魔によってではなく、御霊によって荒野へ導かれ、試みを受けられた。だから、私たちも現実の生活の中で試みを受けたとしても、それは悲しいことでも、恥ずかしいことでもない。試みを悲しみ、恥ずかしがるのは、聖書のメッセージからはずれている。
荒野の40日で、悪魔の始めの誘いは。神の子なら石がパンになるよう命じてごらんという事であった。それに対し「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるのである」と言われた。これを、人間は肉体のパンと魂の糧も必要だと解するのは平板な理解である。創世記1章3節「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあるように、神の言葉には力がある。ラザロに出てきなさいと言えば、死んで4日も経過したラザロが生き返るのである。単に精神と物質というような面から言われたのではない。
イエスの生きる道とは、食料の解決や、宗教的な力の誇示でもなく、またこの世の権力の掌握でもない。ただ神にのみ仕えていくという道だけであった。とするならば、私たちキリスト者はやはり、ただ神にのみ仕えていくところに立ち所があると思う。
主よ
私は砕かれた者です
ただ主に仕えることでしか生きる価値がありません。
主の御名を褒めたたえ、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
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