2016年7月8日金曜日

自由を肉の働く機会としてはならない

ちいろば先生「旧約一日一章」より

彼(ノア)はぶどう酒を飲んで酔い、
   天幕の中で裸になっていた。
         (創世記9章21節)

洪水の後、ノアは祝福を受け、再び地上の生活を始めた。彼はその与えられた地で農夫となり、ぶどう畑を作り、そこより得たぶどうをもってぶどう主を作った。ある日彼はそのぶどう酒を飲んで酔い、大変な失敗をしてしまった。

使徒パウロは、コリントの教会に書き送った手紙の中で「すべてのことはゆるされている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」と述べ、「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」
          (1コリント10章23節以下)

私たちにはすべてのことが許されている
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったので」
          (ガラテヤ5章1節)
「召されたのは、実に、自由を得るためである。」
          (ガラテヤ5章13節)

しかし私たちは「その自由を、肉の働く機会とし」てはならない。むしろその恵みを「神の栄光のために」用いるべきである。ここに主の祝福を受けた者、主にあがなわれた者の聖なる義務がある。

わたしたちは神の子イエス・キリストの十字架という空前絶後の代価を払って買いとられたのだから、「自分のからだをもって、神の栄光をあらわ」さなければならないのである。
私たちの生活のいっさいの基準はここにある。

ノアは洪水から救われ、神の祝福を受けたという恵みを活かすことを怠った。そしてその恵みを自分を滅ぼすために用いたがゆえに、彼は大きな失敗をしたのである。そのあとに記されている「そして彼は死んだ」という言葉は、「ノアはすべて神の命じられたようにした」という言葉にくらべてなんと力ないことか。

信仰は私たちに勇気を与える。いくじなく杯に手をのばす者ではなく、栄光のために勇気ある者とせられたい。今日の証はここにある。


主よ
本日の学びを感謝します。
自分の生活のいっさいを主のために用いることができますように、
主よ
あなたがそうしてください

キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申上げます。
アーメン

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