ちいろば先生の「旧約聖書一日一章」より
そこで主は彼(ノア)のうしろの戸を閉ざされた。
創世記7章16節
ノアはすべて神の命じられたように船を造り、彼の家族とすべての生き物二つずつをともなって船に入った。
そのさまはなんと滑稽であったことだろうか。世の人の嘲笑を浴びながら、ただ神をまこととして、彼はみ言葉に従ったのである。
ノアが船に入り終わったとき、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」と聖書は記している。神はノアを箱舟に閉じ込めたもうたのである。再びそこから出られないように。
よく信仰生活における窮屈さや束縛を嫌う人がいる。自分が行きたいときに礼拝に行き、聖書を読みたいときに聖書を読む、祈りたくなったときに祈る。そういう意信仰生活を好む人が多い。言い換えれば、うしろの戸を開けておいて、いつでも出られる自由を残しておきたいという人である。
確かにこういう信仰生活は気楽で楽しい。聖日を厳守し、日ごとにみ言葉を読み、祈りをする信仰生活は堅苦しく窮屈である。
しかし信仰生活の喜びは信仰生活の堅苦しさではなく、そこに神との出会いがあるから、そうしているのである。それは登山家の喜びと似ている。登山家の喜びは重い荷物を背負って山坂を登る苦しみではなく、下界とまったく異なる別天地に呼吸することにある。
本当の信仰の喜びは、自己本位な信仰生活を送っている人には味わうことができない。いつまでたっても信仰生活に歓喜が訪れない。なぜなら、彼らは信仰に閉じ込められることを嫌っている。
この”閉じ込め”は神の好意、神の愛である。
もしも主がノアのうしろの戸を閉じたまわなかったら、ノアは箱舟生活の単調さに耐えかねて外にでてしまい、せっかくの救いの恵みから転落したのではなかろうか。閉じ込められていたが故に、彼はまる一年もの間、二匹ずつの生き物たちとともに箱舟にとどまることができ、神の約束を受けることができた。
現実はきびしく、われわれは弱い
誘惑は執拗であり、われわれの力は乏しい
そうした中で信仰の高嶺に立つために、われわれは信仰の束縛を避けてはならない
うしろの戸を閉ざしたもう主を否んではならない
主よ
うしろの戸を閉ざしていただきました。
感謝します。
もう振り返りません
もはや罪の生活には戻りません
主よ
あなたがそうして下さいました
ありがとうございます
感謝します
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
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