2016年7月20日水曜日

イエスは律法を逆転させるかた

ちいろば先生「新約一日一章」より

宮よりも大いなる者がここにいる。
(マタイ12章6節)

 旧約の世界の律法は、人間が神の前に正しく生きていくためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。

 イエス様は律法を逆転させるかたである。そこに恵みの世界、福音の世界がある。イエス様の十字架の贖いを信じることによって、神は私たちすべての者を罪なき者とみなしてくださった。罪がなくなったという意味ではない。あくまで律法は生きている。神は公平な方であるから、律法の罪に対し死の裁きをくださねばならない。一方で神は人間を愛してやまない方である。だから許したいと思われた。だから神ご自身による自己矛盾を解決する手段が必要となられた。それがイエスの十字架の贖いである。私たちの罪によってイエス様が死ぬ必要があった。そして律法の罪はイエス様の死の十字架で贖われた。よって私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって罪がない者とみなされるようになったのである。しかしそれは罪がなくなったという意味ではない。あくまでもイエスを信じ仰ぎみる時に、罪がない者とみなされるということ。ここを勘違いすると、じゃあたくさん恵みをいただくために、もっと罪深き生き方をしよう。というおかしな論理展開が起きてしまう。そうではなく、恵みの福音を受ければ受けるほど、人は罪を犯したいと思わなくなる。頑張って修行をやらなくても清い者とみなされ、罪を犯す必要もなくなったのである。罪を犯したいとも思わなくなる。身近な例で言えば、パチンコに行きたくなくなる。タバコを吸う必要がなくなる。お酒を飲む必要がなくなる。暴飲暴食をする必要がない。遊びまわる必要もない。恵みの福音を受けて、ただニコニコしていられる。イエス様、サイコー!

 注意)タバコが罪であるとか、お酒が罪であるという意味ではない。タバコやお酒にリラックス効果があることは認める。しかしそれを求めるあまり、他のすべきことをないがしろにすることが罪となる。恵みの福音を受けるとタバコやお酒のリラックス効果を求める必要がなくなるので、タバコやお酒が不要になるという意味で述べた。これが他の趣味・道楽においても同様である。

主よ
恵みを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン



0 件のコメント:

コメントを投稿