2016年7月14日木曜日

すでに与えられている

ちいろば先生の「新約一日一章」より

門をたたく者はあけてもらえるからである。
(マタイ7章8節)

 まず「人を裁くな」というのは、自分のことを棚に上げて人を裁くなと言っておられるのである。ある本に「あなたがいま刑務所に入っていないとすれば、それは刑務所に入っている人のような試みに合わなかっただけである。そういう試みにあなたもあえば、同じことをするだろう。あなたはそういうことから守られていただけである」と書いてある。私たちも極限の状態に立たされると、はたしてどんな生き方をしていくだろうか。

 「門をたたく者はあけてもらえるからである」。この言葉では「からである」が大事と思われる。求めたら与えてやろうというのではなく、与えられているから求めなさい。というのが「からである」の意味である。すでに天から管が降りてきているのに、その管からのものをいただかないで、やたらに地上をはいずり回っているに等しい。私たちはすでに与えられているから求めていくのである。

 聖書を読み、み言葉に従っていくことは、不信との闘いである。どんな人でも、毎日毎日、神を信じられない自分と闘っているのである。信仰の深い人ほど、自分がどんなに不信仰な者であるかを知っている。

主よ
すでに与えられているから、求めれば実現するということを知りました。不信仰な私をお赦しください
主イエス・キリスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン

0 件のコメント:

コメントを投稿