2016年7月21日木曜日

一粒の麦の種となって

ちいろば先生「新約一日一章」より

良い地にまかれたものとは、み言葉を聞いて悟る人のことであって・・・
(マタイ13章23節)

 種のたとえであるが、種には命があるということ、み言葉には命があるということ。種に命がなければ、どんなに水をやっても肥料を施しても芽は出てこない。イエス様が繰り返し種の話しをされたのは、み言葉に命があるということ。

 これはしたら儲かるのにとか、これをしたら喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。そういうふうに受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。また、種は種のままであれば成長していかない。種としては死ななければならない。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 (ヨハネ12章24節)

 イエス様は神の祝福の種です。地に落ちて死なれたことによって、豊かな実を結びました。ここにみ言葉の成就があります。

主よ
イエス様が一粒の種となられ死なれたことにより、私たちに神の恵みすなわち福音のみ言葉が降り注がれました。
主はおっしゃいました。「あなたたちはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
しからば主よ、私も祝福の種となって、喜んで地に落ちます。
また人々に仕えることによって、福音のみ言葉が伝わりますように。
感謝を主に捧げ、お祈り申し上げます。
アーメン

0 件のコメント:

コメントを投稿