2016年7月19日火曜日

すなおに受け取る

ちいろば先生「新約一日一章」より

そこを立ち去られた。
(マタイ11章1節)

 イエス様は立ち去られる方である。神は私たちがいつでも帰ってくるのを待っておられるかたであると共に、また私たちのところから立ち去られるかたである。

 いつでも備わっていると思うことが信仰をダメにする。イエス様との出会い、今というものを大切にしなければならない。いま神の言葉がすなおに聞けることは、私たちの努力だけによるものではない。心が閉じてしまえば、いくら聖書を読んでも、無味乾燥なものとなって、そこから感動も喜びも湧いてはこない。もし神の言葉が慕わしく聞けるのであれば、それこそ神に祝された時なのであるから、そういう時を大切にしていかねばならない。

 預言者ヨハネが期待したキリスト像は、国家権力と闘い、イスラエルを自由にしてくれる地上の救い主である。ところがイエス様は、らい病人を癒したり、盲人の目をあけてやったりと、たった一人一人のことしかなさらない。イエス様は一人一人を神の前に立たせるために来られたのであり、また一人一人に福音を宣べ伝えるために来られたのである。「私につまづかない者は、さいわいである」(マタイ11章6節)。ヨハネはそういうイエス様につまづいた。

 ヨハネの信仰は一生懸命努力した結果、信仰を奪い取っていこうとするものである。(11章12節)。しかしイエス・キリストによって始まった世界は、神のほうから近づいてくださるのである。人間の熱心や功徳というもので、神の恵みや慈しみを奪いとることは決して出来ない。私たちは、ただ受けていく存在である。福音のもとにおかれた者にとっては、神から送られてきたものをすなおに受けとっていくことが必要である。

主よ
あらためて、恵みをすなおに受けとることの大切さを学びました。
本日の学びを感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

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