アブラムは主を信じた。
主はこれを彼の義と認められた。
(創世記15章6節)
あるとき、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
年老いてなお一人の子もなく、また、「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも与えられ」(使徒7章5節)ていなかった彼にとって、この言葉は信じがたいものであった。しかし主は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるであろう」と言葉を重ねられるだけであった。誰がいったいこの言葉を神の約束として信じることができるだろうか。だが聖書は、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と記している。
信じるとは、現実からみ言葉の確かさを求めていくことではなく、み言葉に立って現実を受け入れていくことである。たとい現実はいかようであれ、全能全愛の神のゆえに現実を受け取っていくこと、それが信仰である。その時、私たちはアブラムのように、約束の祝福にあずかることができるのである。
主よ
現実がどんな状況であっても、み言葉に立って現実を受け入れることが信仰であると学びました。
主よ
アブラムのように約束の祝福を待ち望みます。
ですが主よ
御心のままになさってください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りをお捧げ申上げます。
アーメン
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