ガラテヤ書3章1-14節 「信仰による御霊」
長年教会に通いながら、表向きは信仰者のように振る舞い、実生活では神から離れてしまっている、そんな方々を見てパウロ兄も悲しみを持って見ていましたが、諦めもしませんでした。私たちの教会でも、急に来なくなった方がおられますが、主に在りて祈って参りましょう。
神は、あなたを素晴らしいと言ってすでに祝福されているのに、それを信じていないから祝福されないのであって、自分ができていないから祝福されないのではありません。
「私は、これこれをしなければ、クリスチャンの祝福にあずかれないのではないか?」と考えることは間違っているということです。自分が十分に罪深い、至らない、この状態ではやっていけないと思っていて、「ある程度、しっかりとしてから、また教会に来れるようにしよう。」と考えているのであれば、そうではない、ということです。それでは、御霊による祝福は受けることはできないのです。
そうではなく、自分の心をそのまま神の前に持っていき、ありのままの自分を神に見ていただき、そのままのあなたで神のところに行くべきです。問題は、きちんとできてないということではなく、きちんと素直になれていない、ということなのです。
問題は、自分の行ないがきちんとできていないのではなく、悔い改めて信じていないということなのです。ユダヤ主義者のように、「何かをして、それから信じる。」のではなく、「そのまま信じて、それから主が何とかしてくださる。」、これが信じるということなのです。
お金を貯めたから安心して信仰生活ができるとか、借金をしているから、まずそれを返してからでないと教会にこれないとか、そういうことではないということです。彼らは、偶像崇拝の対象が「お金」になっています。具像崇拝はいろんな形をとります。あなたにとって家族が一番大事で命よりも大切なのだとしたら、家族愛が崇拝対象になっています。言っていることが変ですか? おかしいですか? 家族愛が当たり前ですか?
家族を捨てよと、聖書で言っているのではありません。まずキリストを求めよ、と書いてあります。神様はあなたが必要なことはすでに知っておられますから、あとは主が何とかしてくださるということです。教会でも、ああしてください、こうしてください、と要求ばかり主に祈りを捧げていませんか? そんなのは聞き飽きたと聖書に書かれていませんでしたか? 私はそんなことは主がしてくださることを知っていますから、主を賛美し、神の栄光を喜び、主が何を言われているのかを、膝もとで聞いていたいのです。ベタニアのマリアのように。
素直に信じ、身を任せる。
この単純な真理を頭では理解していても、お母さんの胎内にいる赤ちゃんのように、神様に全てをお任せしているでしょうか?
イエス様は言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
(マルコ10章15節)
聖書に書いてあることを遠いどこかの国の物語のように流し読みしていませんか? 聖書に書かれてあるのは、神様の真実の御言葉なので、力を伴っています。信じているものには、その力が及びます。
主に在りて
アーメン
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