2016年6月27日月曜日

マナ 天の配材

ちいろば先生の「新約一日一生」より

マタイ2章3節
ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。

イエス様がヘロデ王の時代に生まれたことは、実に象徴的である。
私たちの時代でも万事裏目に出たりして、生きにくい。
そこにイエス様が、お生まれになった。私たちとは無関係ではない。私たちが涙を流し、苦労し、絶望する中に生まれたのである。そこにイエス様の誕生の意味がある。

ヨセフも、平凡で幸せな生活がしたかった、でも婚約者のマリアのお腹が大きくなれば、心境いかばかりだろうか。不安どころか怒りが湧いてこないだろうか。「おらの嫁を孕ませやがったのはどこのどいつだ!」なんて。天使から聖霊によって身ごもったと言われても心は痛んだがマリアを迎え入れた。これはヨセフの起きな愛情である。そしてやっと子供が生まれると、博士たちがやってきて、やれ捧げものだ、星が光った、はたまたエジプトへ逃げなさいなどど、煩わしい問題ばかりである。麗しいハネムーン旅行どころではなかったのである。平凡ながら幸せな生活をヨセフも望んでいたに違いないのです。

ここでの主役は誰ですか? ヨセフですか? マリアですか? ヘロデですか?
主役はイエスであり、神であります。

ヨセフ自身は喜ばしいことも、楽しいこともなかったです。天使がやってきてエジプトへ行けと言われ、知人もいない外国へ、産後間もないマリアと乳飲み子イエスを連れて、不安も大きい!

イエス様を迎えるということは、このように、ひとつの不安を迎え入れることだと思います。
信仰とは、主イエスを迎え入れ受け入れ、自分は僕(しもべ)になるということ。神の御心を優先させること。
そこに不安が生じてきます。
不安に対処するには、ふた通りの方法があります。ヘロデ王みたいに、自分に不安を抱かせる対象を抹殺すること。二つ目はヨセフのように不安の中に生きることであります。
みなさん、どうでしょうか。この世の常識、道理、世間並みの生活で生きてさえいれば、そこに不安なんかないですよね。楽しいばっかり。でも神様を信じて行動すると不安が起きてきます。聖書にはいいこと書いてあるね、でも私には無理! なんてことになっていきます。
13節には「あなたに知らせるまで、そこに止まっていなさい」と書いてあります。行ってみて、よかったら居てもいいよ、とかじゃないんです。神様の命令は、「そこに居なさい」、STAY THERE.です。反論の余地なしです。なかなか従えないです。
しかしヨセフはエジプトへ行きました。神を自分の主とする僕(しもべ)の生き方であります。自分の最上のものを捧げて、主を仰いだのであります。

実は博士たちから送られた黄金、乳香、没薬などは、ヨセフたちがエジプトへ渡った渡航費や生活費になったいう説がありまして、このように神様は、エジプトへ逃げなさいと命令をされるだけでなく、命令を実行するにあたって、さしあたり必要な準備を整えてくださるお方でもあることを覚えていてください。
御言葉にしたがって生きていくとき、神は天の配材をもって私たちを守ってくださいます。
だから、もっと大胆に神の言葉に従って生きていいんです。私たちは地上のことしか判らないから不安ですが、マナは天から降ってくるのであります。私たちが心配する必要はない、神が心配してくださっています。
そして、博士たちが捧げたもの、ヨセフが捧げたもの、これらひとつひとつが、キリスト・イエスを守り、主がこの世においてわざをなしていくために用いられて行ったのであります。

私たちも、いま感謝すべきことは、すでに神に選ばれ用いられているということであります。
そこにこそ生きがいがあると思います。

祈ります!
天の父さま
マナとは食べ物だけとは限らず、天の配材のことであることがわかりました。御言葉に従って生きようとするとき、いろんな、この世的な葛藤や不安が心をよぎります。しかし主よ、あなたは命令をくださるだけでなく、その命令を実行するにあたり必要なものもすべて用意してくださいます。私たちは信じて行動するだけでいいんだということを学びました。
ありがとうございます。
尊き主、キリスト・イエスの御名によってお祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

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