説教の学びを受けて、実際に説き証しを組み立ててみました。
<注意点>
(1) 一番大切なのはどれか。
(2) どの言葉が一番多いか。
1 説教は「宣べ伝える」こと
2 説教は「福音を語る」こと
3 説教は「教える」こと
4 説教は「勧める」こと
5 説教は「証言する」こと
叱りつけるのではなく、神の恵みを証しする。
対象テキスト
(マルコの福音書12章)
12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。
12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」
--- 組み立てた説教本文 ---
説教テーマ「あなたの隣人を愛せよ」
こんにちはわ
本日のテーマは「あなたの隣人を愛せよ」です。
まず祈ります。
天の父さま、本日このように皆さまとともに聖書の学びが出来ることを
感謝します。
隣人を愛せよとイエス様は仰いましたが、いま日本でも簡単に少年が
ナイフで人を殺傷することが起きており、いかに神の愛不在の状況で
あるかを象徴しているかのようです。
本日、愛とは何か、その本質を学べることを感謝し、
主イエス・キリストの御名によってお祈りを捧げます。
アーメン
さて、この「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というこの御言葉ですが、
聖書に何回も出てくる戒めの言葉ですね。
この隣人って誰なのでしょう?
誰だと思いますか?
・・あなたの席のとなりに座ってるひとですか?
あなたの住んでる家のお隣さんのことでしょうか?
マタイの福音書5章から7章までに書かれた山上の垂訓、これはまさに天の御国の宣言です。
素晴らしい聖句の塊、まさに聖なる銃弾ですね。
そして8章からはその立証となっているわけですが。
5章43節から48節最後まで読んでみますね。
5:43『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
これが神の愛、アガペーするといいます。
日本人が考える愛=ラブ、これは男女関係に使われることがおおいのではないでしょうか。
また、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」は、旧約のどこにもない、イエス様の新しい教えとなっております。
このように、真に徹底した愛は、祈る相手をも憎まない愛なのです。
また、ルカの福音書10章でもイエス様と律法学者との問答が記されていますが、ここでは善きサマリア人の話しが有名ですね。
ちょっと読んでみましょう。
開ける方は開いて下さい。
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
ここで登場人物が3種類登場しております。
祭司とレビ人については、民数記18章6節以降を読みますと、主がイスラエル人のなかから特別にレビ族を天幕の奉仕をする人たちと定め、また祭司職を賜物の奉仕として与えられたことが書かれてあります。つまり彼らは純粋なユダヤ民族の血を守り抜いている人たちなんですね。
サマリヤ人についてはどうでしょう。
サマリヤ人は、純血ユダヤ人がもっとも嫌う人種でした。
ヨハネの福音書4章にはサマリヤの女の話しが出てきますが、イエス様の行動はじつに奇妙です。
聖書地図を参考にされるとよく判りますが、サマリヤの地域はユダヤ地方とガリラヤ地方との間にあり、ユダヤ人はサマリヤを避けるために、ヨルダン川の東側の道に迂回して、ユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していました。なぜか、それはサマリヤ人とユダヤ人の間には深い敵対心があったからです。サマリヤ人は、ユダヤ人と異邦人の混血人種でした。また彼らは、ユダヤ地方のモリヤ山ではなくサマリヤにあるゲリジム山にメシヤが戻って来ることを信じて、ユダヤ人とはまた別の宗教を造っていました。そのため、純粋な信仰を求めるユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、同じようにサマリヤ人もユダヤ人を嫌いました。
ユダヤ人がサマリヤの中を通るものなら、サマリヤ人からののしられ、つばをかけられたでしょう。
ですから、イエス様一行が「サマリヤを通らなければならなかった」と言うのは、サマリヤがユダヤとガリラヤ地方の中間に位置していたからではなく、別の理由があったのです。
それは、これから現われる一人の女に出会うためでした。
イエスは、人種的、宗教的な違いを超えて、ひとりの女に会うために、あえてユダヤ人も避けるサマリヤを通る道を選ばれたのです。それは聖書に残るような話しであったことからも、イエス様は敢えてそうされたとしか思えないということです。
脱線しました。
要するに、祭司とレビ人は純潔ユダヤ人で、サマリヤ人は混血。それでお互いに嫌ってるということです。この関係を知らないと、「善きサマリア人の話し」は意味が判らないことになりますので、
前知識として申し上げました。
さて、
ルカ10:30で「ある人が、エルサレムからエリコへ下る途中で、強盗に襲われた。強盗どもは、その着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。」
この場合、ただ助けることが隣人を愛すことです。とありますが、
でも、次を見てください。「たまたま祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
とあります。祭司にとっても、レビ人にとっても、この人が死んでいると思ったかもしれません。それで、死体にふれると汚れるので、彼らは通り過ぎたのかもしれません。
倒れた人を助けるという、あまりにも明らかな愛の行為ではありますが、彼らは理屈を並べるだけで行なおうとしておりません。ところが、ユダヤ人からすると汚らわしい、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに居合わせ、彼をかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやったというストーリーなのです。
次の日、彼はデナリ2つを取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。
「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」
彼は、当たり前のことを、責任をもって最後まで実行しました。
「この3人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」
彼にも、実際に行なっていることが大事であって、人種なんか関係ないということぐらいわかっていました。だから、わからなかったのではなく、わかっているけれども行なっていないだけだったのです。
するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
こうして、イエスは、サマリヤ人の話を出すことによって、彼が律法を守り行なっていないことをお示しになりました。
どうでしょうか、隣人を愛しているかどうかは、見分けが簡単なことが判られてきたのではないでしょうか。
それなのに、理屈をこねて、自分が誤っていることを認めないと、自分を欺いてしまうのです。
ですから、単純さが必要です。自分が出くわす人々が困っていないか。助けを呼んでいないか。
何も、賞味期限ギリギリの食料を頭さげてもらい受けて、橋の下に行って、浮浪者たちに食事を恵みなさいとか、そんな大きなことを要求されているのではないのです。
あいさつをしているか。そうした、簡単なことによって、私たちは隣人への愛を示すことができます。
ですから、難しいことを考えるのではなく、ただ、隣人に良くしてあげましょう。
祈ります。
愛する天の父さま
隣人(となりびと)を愛するとは、
どんな人にも等しく太陽のように照らす神のアガペーの愛から来ていることを知りました。
しかし主よ
私たちは、どうしても利己的に生きてしまう罪びとです。
そんな私たちですが、自分の眼の痛みに自分が敏感であるように、
隣人(となりびと)の痛みにも敏感である私たちでありたいと思います。
自分では到底できそうもありませんが、
主よ
あなたが今そうして下さいましたことを感謝し、
尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
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