2016年8月26日金曜日

主に捧げるための贄

とうとう、イスラム国の攻撃目標が、具体的に「クリスチャン」になってしまった。
いや・・・むしろ、だからこそ主に捧げる贄としての意味を持つのではなかろうか。

神は悪をも使われて、私を試されます。
生きやすい道と、狭く険しい道・・・
私には、わたし自身が主に捧げるための贄であったと証しする時が来るのでしょう、きっと。
それとも使徒ペテロのときがそうであったように、キリストを知らないとでも言い張るというのでしょうか。
しかし、そうやって生きのびることに意味などありません。
そもそも主からいただいた命なれば。
そもそも罪にまみれて死んでいた命です。
惜しくはありません。

(ルカによる福音書22章61〜62節)
61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
62 そして外へ出て、激しく泣いた。

イスラム国のプロパガンダ誌「ダビク」第15号は、「十字架をへし折る(Break the Cross)」という題名。そう、彼らの攻撃目標が、具体的に「クリスチャン」になっています。
この号におけるイスラム国の掲げた目標:
1.イスラム国の指導者が、終末をもたらす。
2.「十字架をへし折る」つまり、中東、西側諸国、世界中のキリスト者を虐殺し、地上からキリスト教を抹殺する。
3.キリスト者を憎む理由を六つ掲げ、究極の目標を述べ、全勝利を到達するまでキリスト者を殺害することを止めない理由を説明。
だそうです。
ダビクの中に、日本を標的にすることは以前、発表しました。そして今、キリスト者を標的にすることを、彼らの終末思想、彼らのイスラム教信仰によって明白に表明しています。

2016年8月23日火曜日

古い自分からの解放

ちいろば先生「旧約一日一章」より

あなたはもはや名をヤコブと言わず、
イスラエルと言いなさい。
(創世記32章28節)

イスラエルとは「神勝ちたもう」という意味だそうだ。ヤコブとは「押しのける」という意味だそうで、確かにヤコブは兄を押しのけ、叔父を押しのけた狡猾な人物であった。彼は自分のためにすべてを押しのけ、今や多くの富を得ることができた。しかし今や彼は故郷を前にし、兄との再会をひかえて「大いに恐れ、苦しみ」、不安におののいていたのである。

 ヤコブは、この不安の中でヤボクの渡しをわたり、一人の人と組打ちをした。その組打ちは夜明けまで続き、ヤコブの腿(もも)を強打された際に関節が外され、彼は歩行困難になってしまった。それでも彼は相手が帰るというのに「私を祝福して下さらなければ、帰しません」と言い、しがみついて離れなかった。闘いの相手の人は、ヤコブに名を尋ね、これからは「あなたの名はイスラエルです。あなたが神と人に力を競って勝ったからです」と言われた。


 ヤコブは押しのける者から、イスラエルすなわち神勝ちたもう、神にうち勝てる者への転換を果たした。古い自分から解放され、神にある人生に新しくされたのである。

 主イエスはゲッセマネで「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈った(マタイ26章39節)。そのときイエスは苦しみもだえて「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22章44節)。また「そのとき、み使いが天からあらわれてイエスを力づけた」(ルカ22章43節)と記されている。神の子が神に勝たれるにさえこれほどの苦しみと助けが必要であったのである。

 信仰生活とは、神に勝たれる人生を送ることである。常に神のみこころが優先される生活である。いっさいが神にゆだねられることである。そのとき、私たちは神を仰ぎ見て「力あるかたが、わたしに大きなことをしてくださった」と神をあがめることができるのである。

 あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさいと、主はきょうも私たちに語りかけておられるようである。

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(中山の感想)
ヤコブが闘っていた相手はおそらく、み使いである。主はヤコブがどれほどの思いで行動しているのかを試された。そしてヤコブは肉の闘いから解放され、神とともに歩む人生を選択することができた。イエス様でさえ、これから肉の身におきる死の十字架の苦しみから逃れるために、ゲッセマネにおいてみ父に祈り、血の汗を流し、天使が勇気づけてくれ、やっと自分の運命を克服されたのである。わたしも、日頃の暮らしむきの自慢、つまり仕事や家庭や財産、地位、名誉、ほまれなどを自分と思い込んでいることから離れ、ただ主の道備えに従い生かされていることに感謝する自分でありたい。

主よ
あなたが道をお示しになってください。
わたしは僕(しもべ)ですから、すなおに従います。
いま生かされていることに感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月20日土曜日

神の語りかけに従順であるということ

ちいろば先生「旧約一日1章」より

主はヤコブに言われた、「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい」
(創世記31章3節)

 アブラハムには行きなさいと命じられ、ヤコブには帰りなさいと語られた。神はいつも、その人に向かって語られるかたなのである。また、ガリラヤの漁夫シモンに「ついてきなさい」と言われた主が、お共をしたいと願い出たゲネサレの人に向かって「あなたの家族のもとに帰って・・・」(マルコ5章19節)と命じられたのと同様である。

 信仰とは家を出ることでもなければ、家に帰ることでもない。主の語りかけに従うことである。

 「忙しくて礼拝に出ることもできない」と嘆く人がいる。礼拝に出ることを慕い求めることは尊い。しかし、今おかれている場所において神の語りかけを聞き逃すことは愚かな行為である。神はどんな境遇の人にも使命を与え、その人に語りかけてくださる。それを聞き分け、み言葉に聴き従い生きること、それが信仰である。

 ヤコブはずるい男である。しかし彼は神の語りかけを聞いたとき、決然とそれに従ったのである。大事なことは神の語りかけに従順であるということ。

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(中山の回想)
そういえば、ここ半年の動きがめまぐるしい。とくに大きな問題もなく勤務していた病院をとつぜん辞めて老健施設で働きだしたかと思えば、今度はとつぜんそこを辞めさせられたりして、もう看護師はこりごりだと思ってまったく異業種の工場勤務をやり始めたら、また主からの語りかけがあり、それに応じて精神看護に戻る道を探し始め、いまは新築の病院で素晴らしいスタッフに恵まれ、患者さんにも頼りにされる仕事に就いている。ここに主の道備えを感じないわけにはいかない。すなおに主に感謝し、わが使命を全うするのみである。はてさて主からの次なる命令は、とどまれなのか、旅立ちなさいなのか、わたし・僕(しもべ)は命令に従うのみである。ここ最近のわたしの行動を追っている兄弟姉妹や牧師にも、私が仕事を辞めると言ったり、戻ると言ったりして、ご心配をかけてしまった。私は気違いでもなければ、気分屋でもない。ただ主に聞き従っているだけである。

主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月19日金曜日

理由なき神の愛

ちいろば先生「旧約一日一章」より

この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。
(創世記30章43節)

 旧約においては、女性が子供に恵まれ、男性がその事業に繁栄することをもって、神の祝福のしるしとしている。しかしレアとラケルが競い合って夫ヤコブの子を産もうと卑劣な手段を用いたり、ヤコブのラバンに対する狡猾な手段をみるにつけ、彼らはまったく神に愛された人物としてふさわしからぬものである。しかし神はヤコブに大いなる富を与え、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つことをゆるし、彼に対する祝福を惜しまれなかった。

 聖書にはこのような逆説的な事柄が多く記されてあり、私たちはその解釈や理解に戸惑うことがある。神は良いことをしたら報酬を与え、悪いことをしたら罰を与えるような、人の自由になる神ではない。なぜ神はカインの供物を顧みず、アベルの供物をよしとされたのか。なぜ主イエスはパリサイ人の家に泊まらず、取税人ザアカイの家に泊まることにされたのか。なぜ父親は、親孝行な長男には一度もしたことのない宴会を放蕩の末に帰ってきた弟のためにしたのか。私たちはその理由を理解することができない。

 しかし、愛とは理由を求めないものではなかろうか。根拠を無視した業(わざ)ではなかろうか。この不条理、この矛盾こそ、真実な愛の本質ではなかろうか。

 「神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」(ローマ9章15〜16節)

 使徒パウロは神がヤコブを愛し、エサウを憎んだことに関してこう記している。もし神が人間の意志や努力によってのみ報いたもう方であるならば、私たちは絶望するよりほかにない。なぜならば私たちはだれも神の愛や祝福を受けるだけの権利を持っていないからである。神が理由なく、ただご自身のゆえに私たちを愛され祝福してくださるゆえに、私たちに希望が与えられているのである。まさに私たちは「恵みにより、信仰によって」救われたのであり、神の賜物なのである。

 このように、悪どいヤコブを愛し祝福したもう不条理の神こそ、聖書が証しする神であり、私たちはこの神ゆえに、希望をもって生きていけるのである。

アーメン

2016年8月16日火曜日

あなたは本当にわたしの骨肉です

ちいろば先生「旧約一日一章」より

そこでヤコブは、すべての事をラバンに話した。
(創世記29章13節)

 ヤコブは父をだまし、兄を裏切り、その怒りを逃れて、はるばるハランの地にある叔父の家にたどり着いたのである。彼はこれから叔父の好意を美しい娘ラケルの関心を得なければならない。そのようなときに、彼は「すべての事をラバンに話した」のである。何一つ隠さず、狡猾さを秘めた自分の本当の姿をすべてさらけ出したのである。

 いったい彼はどうしてそのような大胆さに生きることができたのであろうか。それは彼があのルズびにおいて、神から「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り・・・」という言葉を聞いたからである。彼はそこで自分を赦し、愛したもう神に出会ったのである。そのとき、彼はもはや自分からさえ自由になることができたのである。

 けっして好ましいとは言えないヤコブの経歴を聞いた叔父は、なんと「あなたは本当にわたしの骨肉です」と言ったのである。本当の交わりは真実に生きることであり、真実は自分からも自由になることで初めて生きるようになるものである。

 主イエス・キリストの十字架は、もはや私たちに隠すことを不必要とした。すでにどんなに罪悪に満ちていようとも贖われたのである。ここに立つとき私たちはお互いに「あなたは本当にわたしの骨肉です」という交わりを生み出していくことができるのである。

2016年8月14日日曜日

何よりも大切なことは「すぐ」ということ

ちいろば先生「旧約一日一章」より

ヤコブは朝はやく起きて・・・
(創世記28章18節)

 信仰とは、神の語りかけを信じて生きることである。どんなことよりも神の言葉を確かとして生きることである。「わたしは道であり、真理であり、命である」との主の宣言を「アーメン」と受け入れることである。

 しかしヤコブにとって天涯孤独のルズの野は決して天の門、神の家とは思われなかったように、私たちにとっても、神の言葉は決してたやすく受け入れることのできるものではない。パウロは「世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである」(Iコリント7章31節)と戒めている。

 ヤコブは、朝まだ夢の覚めやらぬとき、この世の知恵も人の声もはいってこないときに起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、その所の名をベテルと名づけた。信仰が逆戻りしないように、彼はすばやく歯止めをしたのである。信仰生活にとってこれが大切である。

 私たちが主の弟子としての養いを受けるため、何よりも大切なことは「すぐ」ということである。それはいかなる感動にもまさること。

 「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4章7節)。朝は私たちにとってみ言葉への従順をあらわす時であるゆえ、黄金の時である。

2016年8月12日金曜日

誰もが祝福されるとは限らない

ちいろば先生「旧約一日一章」より

「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」
(創世記27章38節)

 ヤコブは母の狡猾な陰謀の手先となって、父からその祝福をだましとる。兄エサウはそれを知り、心ひそかに弟の抹殺を計画する。このような相克こそ実は私たちの生きている現実である。現実をふまえた信仰でなければ、それは単なる理想主義である。聖書の中にこうしたリアルな物語が記されていることこそ大切なことなのである。
 
 それにしても盲目の父をだましたヤコブが祝福を受け、正直に父の言葉に従って山野を駆け巡り、父のために真心から料理を用意したエサウが祝福からもれるということは、私たちの理解に苦しむところである。しかしこの物語の中にこそ、神の峻厳さが告白されていることを見落としてはならない。エサウは父に向かって「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」と声をあげて泣いたと記されている。ある旧約の学者は、このエサウの涙は、わなにかかった獣の叫びのように、聖書中最も哀調に満ちたものである、と語っているが、まことにそのとおりである。しかし、ここにエサウの神に対する不真剣さが示されている。

 「祝福はただ一つだけですか」と語る彼の言葉には、祝福に対するルーズさが顔をのぞかせている。「わたしをも祝福してください」という言葉の中に、救いについて彼のあまさが感じられる。

 主イエスのたとえの中に、十人の乙女の話がある。あたふたと油をととのえて帰ってきて、「ご主人様、ご主人様、どうぞあけてください」と叫ぶ乙女に対して、「わたしはあなたがたを知らない」という返事はまことに残酷である。しかし天国や祝福にはこのような峻厳さがあるのである。そのゆえにきょう一日を精いっぱい主に向かって生きること、これが信仰の要諦である。

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中山考察
しかしヤコブの狡猾さはどうだろうか、兄エサウのふりをしてまで、父の祝福を代わりに受け、それが父にバレているのに、父はヤコブを叱らない。わたしはここに、神の意志を感じる。単に早く生まれただけのエサウに長子の権利を与え、国々を納める覇者となることを神はお許しにならなかった。エサウはすぐに逆上する。感覚に支配されやすい彼の性格は、「おまえはおのれの剣(つるぎ)によって生き、おまえの弟に使えることになる。」と父イサクがエサウに語ったように、彼は暴力と継続的な紛争にあけくれることになる。そこで神は(押しのける・かかとつかみ)という意味の名を持つヤコブを祝福された。

主よ
神は哀れみの神であるだけでなく、
信仰するものに峻厳さを示してくださることを
ここに学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月9日火曜日

大事なことはきのうも、きょうも、あすも変わらない

ちいろば先生「旧約一日一章」より

彼らは言った、「われわれは主があなたと共におられるのを、はっきり見ました」
(創世記26章28節)

 ペリシテ人の王アビメレク一行はベエルシバのイサクのところに来ていた。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちである。彼らは主がイサクと共におられ祝福されるのを見て、神に適することができないことを悟り、和睦を申し出たのである。まことにイサクは戦わずして、主にあって勝利したのである。

 われわれは主があなたと共におられるのをはっきり見ました。まことにあなたは主に祝福されたかたです。なんと素晴らしい賞賛の言葉、私たちのまわりの人々は、私たちを見たとき、このように語るだろうか。

 一人の中風のものがイエスに癒され、彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの前を出ていったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。(マルコ2章12節) 伝道の秘訣はここにある。私が変えられること。主が私と共に生きてくださること。そのとき人々は目をみはり、神をあがめ、主を信じるにいたるのである。私たちが変えられず、祝福されず、主が共に生きてくださるというしるしがともなわず、論のみでは人は救われない。人を救うのは生ける神のみである。

 今日の伝道の困難さは、キリスト者であるわれわれが、しっかりと主の祝福にあずかっていないことにある。

 大事なことはきのうも、きょうも、あすも変わらない。それは私たちが主の祝福にあずかることである。「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」(ペテロ13章9節)。何よりも祝福にあずかる者とされている恵みに立って励もうではないか。

主よ
私たちはすでに主の恵みのなかにあります。
私たちはすでに主にあって変えられ、祝福され、主が私たちと共に生きてくださっています。
それを自覚する我々でありたいと思います。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月8日月曜日

祈りの力

ちいろば先生「旧約一日一章」より

イサクは妻が子を産まなかったので、
妻のために主に祈り願った。
(創世記25章21節)

 神の約束を待つ者にと言って、まことに一日は千年にまさる思いである。どこまでも神の約束を信じ待つことができるか否か、信仰はその戦いである。あのアブラハムにして神を待ち抜くことができなかった。彼は妻のすすめを受け、はしためハガルによってその子を見ようとしたのである。それほど神を待つということはむつかしいことである。

 しかしイサクは父の轍を踏まなかった。人間的な解決をはかろうとしなかった。どこまでも彼は神の言葉の成就を待ったのである。イサクは妻が子を産まなかったので、妻のために主に祈り願った、と聖書は記している。祈りだけが、人間をしてどこまでも神を待たしめる力である。

 私たちの信仰生活で祈りが忘れられている時、私たちはこの世の子になっている。祈りの枯渇は教会の危機である。イサクが最も人間的な問題にまで徹底的に神を待ち望んだように、私たちもすべてにおいて神を待つ者となろう。そしてイサクが祈りの人であったように私たちも祈りに生きる者となろう。信仰生活にとって祈りの生活ほど自分をためされるときはない。そしてこれほど自分を強めてくれるときはない。

主よ
祈りの力を与えてくださり感謝します。
主イエス・キリスとの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月7日日曜日

すべてを捨てて、従いまつらん

日曜礼拝 8月7日
米村牧師説教より

平和をつくるものは幸いです。
その人は神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ5章9節)

 平和を《つくるもの》は幸いである、と言われたのである。平和を愛好するものとは書かれていない。《つくるもの》になるには、命を捧げることである。

 戦地に赴いた日本兵、300万人もの戦争に捧げた人々がいた。そうでなければ、こんなに長い平和はこなかったのかもしれない。日本が戦後になぜこんなに早く復興が進んだのか考えてみると、戦地におもむき生きて帰ってきた人々はきっと、戦死した友を思い、彼らに恥じない国をつくろうと思って頑張った。

 神に献身・捧げること、これがすなわち平和をつくること。
すべてを捨てて、従いまつらん。

神の御子にますイエス」 新聖歌397番(聖歌582番)
https://www.youtube.com/watch?v=57FvnVvHjv4

神の御子にます イェスのために
罪を敵として 立つは誰ぞ
すべてを捨てて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

富の楽しみと 地の位に
目もくれずイェスに つくは誰ぞ
すべてをすてて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

罪に捕らわれし 魂をば
イェスに連れ来る 勇士は誰ぞ
すべてを捨てて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

わが持てるものは 主よ汝がもの
きよき御戦(みいくさ)に 用い給え
すべてを捨てて 従いまつらん
わがすべてにます 王なる主イェスよ

アーメン



ただ主の助けによって始められること

ちいろば先生「旧約一日一章」より

主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう。
(創世記24章7節)

 アブラハムが僕に、息子イサクの嫁探しを命じた地は、わたしの国すなわちアラム・ナハライムであり、そこはカナンのような痩せた土地ではなく、豊穣の地、メソポタミア文化の都として後世まで名を残した地である。そんな所から息子の嫁探しをして、このような田舎の地に嫁候補を連れてきなさいと言われたのであるから、僕(しもべ)は「あなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきか」と疑問を発したのは当然のことだろう。若い娘がこのような田舎の貧しいところへ来るだろうか、と僕が思ったのは、もっともなことである。

 主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう。イサクは決して故郷に帰ってはならなかった。ならばどうして彼は妻をめとることができようか。アブラハムは「主は、み使いをあなたの前につかわされるであろう」ということだけが頼りであった。否、このことこそ、彼の立ち所であったのである。

 アブラハムはイサクをモリヤの山にともなったときも、神だけをたのむことができたゆえに彼はモリヤに行け、との主のみ言葉に従うことができたのである。

 イエス様から天国にはいることのむつかしさを聞いて、「では、だれが救われることができるだろうか」と弟子たちがつぶやいたとき、主は「人にはそれはできないが、神にはなんでもできないことはない」と教えられた。(マタイ19章26節)

 信仰とは、このような神にたよって踏み出すことを意味する。それはただ主の助けによって始められることである。恐れたり悩んだりすることは愚かである。いつでも主は信じる者の前にみ使いをつかわして、その歩みを助けたもうものである。

主よ
本日はイサクの嫁探しを通して、どのように主と接したら良いかを学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月5日金曜日

喜べ、今が恵みの時である

ちいろば先生「旧約一日一章」より

サラの一生は百二十七年であった。
「創世記23章1節」

 私たちは、サラのあまりにも人間的な姿にふれ、ほんとうにこれが信仰の母なのかと疑いたくなる。彼女は自分に子供がないことを憂えて下女ハガルを夫に与え、その女が子を孕むやいなや、嫉妬に燃えて彼女につらくあたり、その後自分にも子供が与えられると、下女の子と遊ぶことを快しとせず、夫をそそのかして、あわれな母と子を追い出す。また天の使いが神の約束を告げたとき、それを笑い、そのことを咎められるや偽って、自分は笑わないと否む。このようなサラがなぜ信仰の母と呼ばれるのであろうか。

 しかし、サラの素晴らしさは彼女の人格によるのではない。神の選びによるのである。彼女が信仰の父アブラハムの妻として選ばれたことにあるのである。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない」(エペソ2章8〜9節)。ただ彼女がアブラハムの妻として、彼と共にいたところに彼女の光栄のゆえんがあったのである。

 「サラの一生は百二十七年であった」と聖書には彼女の年齢が記されてあるが、聖書に出てくる夫人のなかで、年齢が記されているのはサラだけである。これはサラが偉大であったからではなく、その命の数が恵みの数であり、恩寵の累積であった。これが聖書に彼女の年齢が記されている理由である。

 神により選びを知り、ゆるしを知るにまさる知恵はない。サラの百二十七年がことごとく神の恩寵であったように私たちの生涯もまたことごとく主の恵みである。

今が恵みの時であることを喜ぼう。
今日が救いの日であることを感謝しよう。
たとえ今がどんな時であろうとも。

アーメン


 

2016年8月4日木曜日

神ご自身の手で十字架にかける痛み

ちいろば先生「新約一日一章」より

この幼な子のように自分を低くする者が・・・
(マタイ18章4節)

 現実の子供は無欲どころか貪欲で、しかも純真無垢であるとは到底思えない。イエスがここで言おうとしているのは、子供が純真であるかどうかではなく、小さい者になるということである。

 いっさいのものを捨てて従っている弟子たちにもなお欠けたものがあった。それが自分を低くするということであった。これは私たち信仰生活をしている者にとって大切なことである。小さいということは許されていることである。現実の世界においても、小さい者の一人が滅びないように願っていくという働きが求められている。

 私たちの教会においても、捧げている献金が自分の身を痛めるほどのものかどうか考えてみると、痛まない程度にというふうな便宜主義に陥っていないだろうか。神がひとり子イエスをこの世に送り、神ご自身の手で十字架にかけるということは、痛まない程度などというものではない。私たちはイエスの十字架の重み、神の愛、それらに対し事実を持って応答していくこと、そこに教会生活があると思う。

マイナスが取り除かれた

ちいろば先生「旧約一日一章」より

地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。
(創世記22章18節)

 アダムは祝福の園から出て呪いの地に住むようになった。然るにアダムの子孫である我々は数字に例えるならマイナス( )のような存在である。故に( )内の数の増加は負の増大となる。聖書に「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増すものは憂いを増す」(伝道1章18節)と記されている通りである。

 アブラハムは老年となって、「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」との約束を得た。これはのちのイエス・キリストをさす言葉である。キリストの十字架によって( )の前のマイナスが取り除かれたのである。もはや( )内の数の増加は負の増大とならない世界に私たちは入っている。

 私たちはイエス・キリストによって、祝福にあずかるべく召されているのである。このことを喜び、そこにしっかりと立って生きるところに私たちの栄光がある。また、もろもろの国民へ伝える使命がある。

2016年8月3日水曜日

イエスの言葉を聞くこと

ちいろば先生「新約一日一章」より

これに聞け。
(マタイ17章5節)

 私たちの信仰に力が出てこないのは、画像に映し出されたイエスを見ているからであって、私に近づき、私に手をおき、私の内から悪霊を追い出してくださるイエスに出会わないからである。

 私たちは、神に何かをしようとし、ペテロが「ここに小屋をを三つ建てましょう」と言ったように、せめて小屋ぐらいは神のために建てようと考える。しかし、私たちにとって大事なことは、何かをするというのでなく、イエスの言葉を聞くことである。聞くということは、聞き流すということではなく、聞き従うということである。

 私たちはいつもいろいろな声を聞いている。ある時は神の声を、ある時は自分の内なる声、本能の声、勝手気ままな声を聞いている。しかし、その中でいつも神の声、キリストの声を聞き、それに従っていくことが大事である。

 神の言葉にかけていくということは、一つの恐れを起こすものである、聖書にこう書いてあるから私はそうするのだというふうに立ち上がっていくと、恐れが出てくる。しかし、その恐れのなかで、手をおいて「恐れることはない」と言ってくださるイエスに出会うことができるのである。


神に笑わせていただく者

ちいろいば先生「旧約一日一章」より

主は、先に言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行なわれた。
(創世記21章1節)

 私たちの神は言われたように、告げられたようにその約束を成就してくださる神なのである。その神の約束をただひたすらに待ち望んでみ言葉に生きるところに、私たちの信仰があるのである。

 しかし、神の約束は私たちの状況に基づいて語られるものではない。神の全能に基づいて語られるものである。信仰とは、人間の側に立ちながら、神の側に望みをおいて生きることである。神の側に生かされることである。サラが「神はわたしを笑わせてくださった」と告白しているように、神にあって笑う人生に生かされることである。

 聖書にあるように、神はいつの時代にも、誰に対しても真実をもって愛してくださる方である。それゆえに、私たちも神の約束を笑う者ではなく、神に笑わせていただく者とせられたいものである。キリスト者の勝利とはこのことである。

2016年8月2日火曜日

邪悪で不義な時代はしるしを求める

ちいろば先生「新約一日一章」より

そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。
(マタイ16章18節)

 自分が信じようとしないで、いつまでも観客席にいてふんぞり返り、なるほど神は愛だと言ったのでは、イエスが私たちのために十字架につかれたことを信じようとしてもできるものではない。牧師の説教を聞いて、また有名な本を読んで信じるようになろうとしている場合が多い。もちろんそれは一つの導火線になるかもしれないが、それで信仰を持ちつづけることができるものではない。 

 また、神がイエス・キリストにあって召し集められ、私たちをつかわされるという教会であるがゆえに、私たちの教会は神によって保たれてきたのであり、これからも神によって保たれていくのである。そこに私たちが教会を愛し、教会に属することに大きな意義を見いだしていくゆえんがあると思う。


神は天地の主であると信じること

ちいろば先生「旧約一日一章」より

この所には神を恐れるということがまったくないので・・・
(創世記20章11節)

 アブラハムはゲラルの人々を信頼することができなかった。神を恐れるという共通の広場を持たないゲラルの人々は何をするかわからない、そいう不安が彼をしていつわりの人となさしめたのである。
 しかし、神は私たちが信じるから存在するのだろうか。神は私たちが恐れるから、その力を持たれるのだろうか。断じてそうではない。神は私たちが信じようが信じまいが存在したもうのであり、私たちが恐れようが恐れまいが、神はみこころをなしたもうのである。アブラハムはこのことに気がつかなかったのである。

 今日私たちも、ただ相手の人ばかりを見ていたのでは、そこから対話の世界を作り出すことはできない。相手がどのようであれ、神は天地の主であると信じるときにのみ、私たちははじめて互いの信頼関係をつくり出すことができる。そこから対話を生み出すことができる。神を信じて生きること、それは私たちの生存の根本である。