2016年2月3日水曜日

マリアのように

わたしはマリアのようでありたいと思います。
ロゴス・ミニストリーからの学び


考察:ベタニアのマルタ・マリア姉妹について
よく気が付くマルタとイエス様の傍にいたマリア
マルタの給仕は尊い行為なのです。
でも残念なことに一番大事なのはなにか、判っていないです。

マルタはとうとう我慢ができなくてイエス様に直訴します。
「マリアも手伝うように仰ってください。」
それなのになぜイエス様は「マリアは良いほうを選んだ。」
と言われたのでしょう?

一見して、マルタの給仕は正しいです。
通常の客人に対する給仕であればです。

でも今回、給仕する相手はイエス様なのです。
マルタには肉の身のイエス様しか見えていなかったようですね。


霊的にみてイエス様が見えられて直接教えを乞うことなど、あり得ないことなのです。
神のひとり子であるイエス・キリストが差し出される御言葉という食べ物を無条件にいただく事こそが、主の下僕(しもべ)として執るべき態度でした。
あまり時間がないことをマリアは悟っていたはずで、全身全霊でイエス様の御言葉を受け止めようとしていたのです。

どちらも尊い行為だとか、むしろ何もしなかったマリアよりマルタの行為を素晴らしいと執る説教者もいますが、霊的にみてイエス様に従っているのは、どちらでしょうね。

マルタもイエス様が居られることの意味を知っていたなら、なにを差し置いてでも、イエス様の御言葉に触れるべきだったのです。肉の身の給仕なら誰かに頼めばよかったのです。

何が一番大事か知っているマリアのようでありたいと思います。

主に在りて
アーメン

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