創世記1章より「光あれ」
ロゴス・ミニストリーからの学び
神は初めからおられた。
1-3 神は仰せられた。
「光があれ。」
すると光があった。
1-4 神は光を見て良しとされた。
神は光とやみとを区別された。
1-5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。
夕があり、朝があった。第一日。
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光るものが天の大空にあり、昼と夜を区別せよとされたのはもっと後、神が大きいほうの光るものに昼をつかさどらせ、小さいほうの光るものには夜をつかさどらせ、また星を作られたのは第4日目なのです。
ここで賢明な方は、矛盾を感じられたかもしれませんね。
「創世記が正しいとしても、星=恒星を作られたのは後じゃん。なんで初めに光があるの?」とね。
これは矛盾しておりません。
皆さん、光が何なのか、はっきりと判ってますか?
「判ってるよ、光でしょ・・・」
ほんとうに判ってるでしょうか?
光自体の正体は実はまだ判っていないのです。
光を光として人間が認識するためには、光が物体にあたり、その物体特有の波長が反射され、それに人の眼が反応して色と明るさを感じているのです。
人類が光について理解しているのは、電磁波の一種とみなすことが出来るということ。そのなかでも一定の波長域だけがヒトの眼に反応しうること。
かなり光の定義が怪しくなってきましたね。
そうなのです。光そのものについては、じつは何も判っていないのです。
神はヒトを作られました。そのヒトの眼に許される範囲の電磁波を称して人は光と呼んでいるのです。
ということは、太陽がなくたって、光はあったのです。無かったということは言い切れないのです。
現代科学においても、赤外線放射を捉えるカメラを使えば、ふだん光として捉えていない熱放射を光として見ることができます。
神は地が茫漠として、やみが大水の上にあり、神の霊が水の上をただ動いていただけの第1日目にして「光あれ。」と言われたのです。
物理的には熱放射をするだけのガス状星雲だったのかもしれませんが、それはすでに電磁波を放っていた。
そう理解することに矛盾はないのです。
だから・・・そうなんです。
初めに光があったのです!
ハレルヤ
主に在りて
アーメンですね!
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