ヨハネの手紙第一 2章1-2節
2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。
--- 学び ---
神は光であって暗いところがありません。
神に対して正直でありなさい。
全ての人々に過ちがあります。
御父の前で弁護する方がイエス様です。
イエス様の弁護を受けるには徹底的に破綻している必要があります。
決定的な罪人であり、徹底的に破損している状態がヒトであるというのが神の診断結果なのです。
甚だしく悪に染まり、壊れていて、もう直せないのだと言っているのです。
わたしたちは罪人と定められていて、そこから救ってもらうには、世の法律とは別に、外部から助けてもらうしかないのです。
その助けて下さる方が主イエス・キリストであり、自分ではどうにもならないのです。
弁護人を必要とした方はいらっしゃいますか?
いちばん辛いのは、人から責められることです。
借金をして返せなくなった人、殺した人など、弁護人が必要となりますよね、
徹底的に糾弾する者は誰だか知っていますか?
それはサタンです。サタンの最大の役割は人を糾弾することなんです。
サタンは、「あなたは、あんな事をしたから、もうだめなんです。」、「それは酷すぎる、立ち直れない。」、とか、「そんなことだからダメなんですよ、最低な人間、それがあなたなんです。」など、徹底的に犯した罪を糾弾してきます。まともな事を言って弱点をついてきます。それがサタンなんです。
みなさん、どうでしょうか? 教会に来て、避難されたいですか? それとも慰められたいですか?
みなさん、ご存知のとおり、主イエスの十字架をもって、全世界・全人類の罪が贖われた。イエス様は「なだめの備えもの」だったのです。
私たちは、イエスを弁護人として頼める権利があります。
私たちは全面的に破損しているのです。イエスとともに十字架にかかって死んだのです。
そのあとで完全な救いが得られるということなのです。恐れ・不安・孤独、これらからの開放があります。
イエス様を弁護人として持つことの決定的な勝利、全人類はこの方の弁護がなければ立つことができません。
-- 考察 -- ロゴスミニストリーより
「キリストのうちにとどまる」
1章においてヨハネは、私たちを、御父と御子との交わりの中に招き入れていて、その交わりにおいて妨げとなるものは、「罪」であるということ。神と交わりがあると言っても、もし暗やみの中を歩んでいるなら、それは偽りであるということ。
神が光であるように、光の中を歩んでいるなら、神と交わりを持っており、御子イエスの血が私たちをきよめる、と書かれてあった。そこで罪を犯さないようにしなければならないということ。
しかし人は不完全で壊れているから罪を犯してしまうのであるが、
もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方がおられ、それが、義なるイエス・キリストであるということ。
今、自分が法廷にいることを想像してみる。自分は被告人で、罪を犯したために告訴を受けているとする。検察官は、「兄弟たちの告発者」と呼ばれる悪魔・サタン。そして弁護人がイエス・キリスト。
裁判官は父なる神。検察官・サタンは、自分に関するあらゆる罪を告発する。裁判官は、弁護人に発言の機会を与える。
弁護者・イエス様は、こう言われる。「検察官が言っていることは、すべてその通りです。被告人はすべてその罪を犯しました。」
え~!罪を犯していないことを証明してあげるのが弁護人の務めのはずではないか、と思うかもしれないが、けれども、自分を完全に無罪にする方法をこの弁護人は知っている。
弁護人は続けてこう述べる。「ところで、この人に対する刑罰ですが、お父さん・・・」その通り、この弁護人は裁判官の息子でもあったのだ。「・・・わたしがすべて、すでに身代わりに受けました。もうすでに裁かれたことですので、彼はもう罪を自分の身に負う必要はありません。」
そこで裁判官は、「判決を言い渡す。被告人は無罪である。」
これが、イエスさまが私たちのためにしてくださっていることなのだ。
ローマ8章には、父なる神の右に着かれているイエスが、私たちのために執り成しをしてくださっているとある。
イエスさまを信じることで、罪を犯したときに、弁護者となってくださるイエス様・・
この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。
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