2016年2月27日土曜日

エゼキエル書にみる幻の神殿 - 再臨のキリスト

勇気が出ます、最後までお読み下さいませ!

エゼキエルによる素晴らしい福音です。
再臨のイエス様がここに!
ハレルヤ! 
マラナタ! 主が来てください。

主に在りて
アーメン
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エゼキエル書40-43章 「幻の神殿」

ロゴスミニストリーからの学びより抜粋

至聖所
エゼキエル書 
41:21 本堂の戸口の柱は四角で、至聖所の前には何かに似たものがあった。
41:22 それは木の祭壇のようであり、高さは三キュビト、長さは二キュビトで、その四隅も台も側面も木でできていた。彼は私に、「これが主の前にある机だ。」と言った。

エゼキエルが幻のなかでみせられた神殿、その本堂にある至聖所の解説。
モーセの幕屋とソロモンの神殿においては香壇のあった所でしたが、ここでは単純に木でできた机のみであり、本堂の中には燭台もなく、供えのパンの机もありませんでした。そして最も肝心な、契約の箱と贖いの蓋がありません。つまり至聖所の中は空っぽだったのです。
Ezekiel's Temple, Jerusalem, Israel, Future Jewish Messianic Kingdom: Throne in Most Holy Place 


 なぜでしょうか?
 それは、再臨のキリストご自身がその体を持って至聖所に入られるからです!43章に出てきますが、主の栄光がここに戻ってきます。それは主イエス・キリストご自身が入られて、至聖所で御座に着かれるからです。もはや光を灯すための燭台も、香を炊くための壇も必要ではありません。そして、十戒の石の板がある契約の箱も必要としないのです。 

 エレミヤ書31617節には、契約の箱を必要としない預言があります。「その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、・・主の御告げ。・・彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。

 ゼカリヤ書には、こう書いてあります。「彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。(6:13王であられかつ祭司であられる方です。

 そしてこの方から御言葉がでます。エレミヤ書3章、イザヤ書2章の預言には、すべての民がここに来て主の教えを聞きます。第一コリント13章に書かれているように、完全な方が来られたら、預言も知識もすたれます。もうこのように聖書を教える者たちがいなくても、主ご自身が教えてくださるのです!

ハレルヤ! 
マラナタ! 主が来てください。

主に在りて
アーメン

2016年2月26日金曜日

救いの完成、驚くべき神の救済計画


















エゼキエル39章からの学び(参照:ロゴスミニストリー)

全ての民に救いの手

ホロコーストは神がおられたからこそ起きたのだと信じられるだろうか?
なぜ、イスラエルがこれだけ世界中から騒がれてしまうのか。
なぜ、イスラエルがこれだけ嫌われているのか。

なぜ、ユダヤ人は頑固に神を受け入れないのか?
それは神がそうさせているから。
神は悪魔の働きをも使って、イスラエルに火を注がれる。
神は、ご自分が創られたものを、ご自分の主権によって思い通りに動かしておられる。

それは、私たち異邦人がまず救われるようにするため。
まずは異邦人の救いの完成。
それが神の御計画。
その後で、イスラエルが救われることになっている。

神はなぜ悪を許されるのか? ゴグを使われるのか?
ここにあわれみを感じることが出来る。
悪をも使い、長い歴史を通して、最終的にイスラエルが救われるという神の救済計画。
最終的に救い主と出会うイスラエルの民、しかし彼らが目にするのは、彼らの祖先たちが槍を突き刺したイエスの姿、その事実に驚き、恐れ慄く。
主がどれだけイスラエルを愛しておられたかを知らしめるためのストーリー。

何のしるしもなく、前ぶれもなく、主が空中にまで降りて来られる、「携挙」。まずこれが最初に起きる。
そして、天に上げられた教会とともに主が降りてこられ、ハルマゲドンの戦いが繰り広げられる。
天の軍勢とは、天に上げられた教会のこと。

主の御心のままに
アーメン

2016年2月21日日曜日

人類の弁護者キリスト

大津キリスト教会 日曜礼拝からの学び

ヨハネの手紙第一 2章1-2節
2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。

---  学び ---
神は光であって暗いところがありません。
神に対して正直でありなさい。

全ての人々に過ちがあります。
御父の前で弁護する方がイエス様です。
イエス様の弁護を受けるには徹底的に破綻している必要があります。
決定的な罪人であり、徹底的に破損している状態がヒトであるというのが神の診断結果なのです。
甚だしく悪に染まり、壊れていて、もう直せないのだと言っているのです。

わたしたちは罪人と定められていて、そこから救ってもらうには、世の法律とは別に、外部から助けてもらうしかないのです。
その助けて下さる方が主イエス・キリストであり、自分ではどうにもならないのです。

弁護人を必要とした方はいらっしゃいますか?
いちばん辛いのは、人から責められることです。
借金をして返せなくなった人、殺した人など、弁護人が必要となりますよね、

徹底的に糾弾する者は誰だか知っていますか?
それはサタンです。サタンの最大の役割は人を糾弾することなんです。
サタンは、「あなたは、あんな事をしたから、もうだめなんです。」、「それは酷すぎる、立ち直れない。」、とか、「そんなことだからダメなんですよ、最低な人間、それがあなたなんです。」など、徹底的に犯した罪を糾弾してきます。まともな事を言って弱点をついてきます。それがサタンなんです。

みなさん、どうでしょうか? 教会に来て、避難されたいですか? それとも慰められたいですか?

みなさん、ご存知のとおり、主イエスの十字架をもって、全世界・全人類の罪が贖われた。イエス様は「なだめの備えもの」だったのです。

私たちは、イエスを弁護人として頼める権利があります。
私たちは全面的に破損しているのです。イエスとともに十字架にかかって死んだのです。
そのあとで完全な救いが得られるということなのです。恐れ・不安・孤独、これらからの開放があります。
イエス様を弁護人として持つことの決定的な勝利、全人類はこの方の弁護がなければ立つことができません。


-- 考察 -- ロゴスミニストリーより
「キリストのうちにとどまる」
1章においてヨハネは、私たちを、御父と御子との交わりの中に招き入れていて、その交わりにおいて妨げとなるものは、「罪」であるということ。神と交わりがあると言っても、もし暗やみの中を歩んでいるなら、それは偽りであるということ。
神が光であるように、光の中を歩んでいるなら、神と交わりを持っており、御子イエスの血が私たちをきよめる、と書かれてあった。そこで罪を犯さないようにしなければならないということ。
しかし人は不完全で壊れているから罪を犯してしまうのであるが、
もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方がおられ、それが、義なるイエス・キリストであるということ。


今、自分が法廷にいることを想像してみる。自分は被告人で、罪を犯したために告訴を受けているとする。検察官は、「兄弟たちの告発者」と呼ばれる悪魔・サタン。そして弁護人がイエス・キリスト。
裁判官は父なる神。検察官・サタンは、自分に関するあらゆる罪を告発する。裁判官は、弁護人に発言の機会を与える。
弁護者・イエス様は、こう言われる。「検察官が言っていることは、すべてその通りです。被告人はすべてその罪を犯しました。」

え~!罪を犯していないことを証明してあげるのが弁護人の務めのはずではないか、と思うかもしれないが、けれども、自分を完全に無罪にする方法をこの弁護人は知っている。
弁護人は続けてこう述べる。「ところで、この人に対する刑罰ですが、お父さん・・・」その通り、この弁護人は裁判官の息子でもあったのだ。「・・・わたしがすべて、すでに身代わりに受けました。もうすでに裁かれたことですので、彼はもう罪を自分の身に負う必要はありません。」
そこで裁判官は、「判決を言い渡す。被告人は無罪である。」
これが、イエスさまが私たちのためにしてくださっていることなのだ。
ローマ8章には、父なる神の右に着かれているイエスが、私たちのために執り成しをしてくださっているとある。
イエスさまを信じることで、罪を犯したときに、弁護者となってくださるイエス様・・

この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。

2016年2月15日月曜日

什一献金に対する考察と体験


この福音を兄弟姉妹と分かち合いたい・・・

ロゴスミニストリーのお説き明かしを聞いて、献金に対する迷いが消えたことなど

マラキ書1-4章 「形だけの礼拝」、このなかの、2B 什一献金の祝福 7-12
(※後半に併記している)

一昨年にこのメッセージを聞いて、わたしが理解したことは、
1.神様は初穂を献上する心を見ておられる。
2.主に捧げれば、主が直接その人を祝福なさるということ。
3.よって献金した先の教会で、どのように使われるかという件に関しては関知する必要がないということ。



わたしは、神様が「われを試してみよ」と命じておられましたので、初めはほんとうにお試しで捧げましたところ、恵みの上にまた恵みの連続で、今の私がここにいます。
近況はFacebookやGoogle+に投稿している通りです。
仕事面でも恵まれ病院で看護師として勤務しておりましたが、このたびお誘いを受けてある老健施設へ入職することになりました。
まことに主は御国の栄光をお示しになられる為、私をもお使いになられる神でもあられます。

なぜ今になって什一献金の考察なのかという件に関しましては、Facebook上の投稿で、献金は不要との意見があり、改めて考察してみたいと思ったからです。


--(併記)--------------------
ロゴスミニストリーより
マラキ書1-4章 「形だけの礼拝」
   2B 什一献金の祝福 7-12

コリント第一9章14節、「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」

テモテ第一5章17,18節、「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。
(1テモテ5:17-18)」

たしかに新約聖書には、所得の十分の一を主に捧げなさいという定めはありません。しかし、捧げなさいという命令はあり、十分の一を捧げるというのは神が与えられた非常に良い目安であるということなんですよね。

なぜ什一献金を惜しむのか?それは、もちろんお金が惜しいからです。お金がなくなると思っているからです。けれども、聖書には、もう一つの原則が働いていることを教えています。それは、「与えれば、与えられる」という原則です。主に捧げれば、主がその人を祝福してくださるという原則です。この原理はあまりにも明らかに働いているので、神は、「わたしを試してみよ」と命じておられるのです。

いかがでしょうか?
まだ、喜んで捧げているという実感を持っていない方は、ここにある約束にしたがって、「与えれば、与えられる」という祝福の中に入ってみませんか?

2016年2月12日金曜日

創造主

ロゴスミニストリーの学び

<創世記1章>
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

たった2節ですが、重要と思いまとめてみました。
27節では「創造された」という言葉が3回も使われています。
神様が、御自分に似せて人を作られました。あらためて考えてみると、こんな凄いことはありません。
猿に似た姿・形のことではありません。神様は霊ですから、肉体や知覚神経のことではなく、人もまた霊的存在であると言われているのです。
創世記2章では神様が息を吹きかけられて、人は生きたものとなったことが書かれています。


「創造された。」が3つも繰り返されていることは、神が三位一体であることの現れ。
神様は、ご自身の創造を3つの人格の協働作品であることを強調する表現であるとのこと。

じつは、驚嘆すべきことが起きたのです。
あなたはこの事実に驚きませんか?

祈ります。
主よ、人の造りについて学びがあり、改めて驚くことばかりです。
わたしたちは神様の霊的属性が与えられた存在なのですね。

天の御国と力と栄光は永遠に主のものです。
感謝して、主の御名によって祈ります。
アーメン

2016年2月10日水曜日

平和の祈り

平和の祈り、4年前に知り、祈りました。
この祈りはとても厳格で、全てを主に捧げている者でなければ
祈ることなど叶いません。
なので、これまで祈れませんでした。
しかし祈っていたことを思い出しましたので、記事に残します。
あぁ主よ、時が来ているのでしょうか。

どうか主よ、御心のままに。
しかして主よ、願わくば、
この祈りのように成りたいと思います。
主の御名によって祈ります。
アーメン


平和を求める祈り ・ アッシジの聖フランチェスコ

主よ 

わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい

憎しみのあるところに愛を

いさかいのあるところにゆるしを

分裂のあるところに一致を

疑惑のあるところに信仰を

誤っているところに真理を

絶望のあるところに希望を

闇に光りを


悲しみのあるところに よろこびをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを 理解されるよりは理解することを

愛されるよりは愛することを わたしが求めますように

わたしたちは与えるから受け ゆるすからゆるされ

自分を捨てて死に 永遠の命をいただくのですから


2016年2月9日火曜日

イエス様が十字架にかかられ号泣したことなど

2012年の12月、夜学で大牟田看護学校に通っていた。
私は片道1時間以上を要する通学時間の間も欠かさずに聖書の学びをする習慣があった。
ロゴスミニストリーというサイトで聖書の説明かしを中心として録音されたものが、いつでも聞くことが出来るようになっていて、それをダウンロードして聞いているのだった。
もう夜中の10時くらいだろうか、帰りの運転中に突然、涙が溢れてきた。

主が十字架にかかられた意味や人間イエスの悲しみと苦しみとがいっぺんに伝わってきて、車を運転しながら涙が止まらなくなっていた。
しまいには嗚咽しながら号泣していた。
だけど帰らなきゃいけないから、泣きながら運転した。
すっかり体力を消耗するほどの勢いで泣いたのは初めてだった。

それから1ヶ月もしない、翌年の1月7日に父は他界した。
イエス様の死に号泣した私だったが、父が亡くなっても涙は出てこなかった。それよりも心停止するまでの間に、「神様が迎えに来てくれるから安心してね。」、と何度も呼びかけることが出来たことの満足感が大きかった。その瞬間だけ心拍が戻ったから、神様のことを意識できたのだろうと信じている。欲をいえばイエス様を救い主と信じてもらえたら良かったのだが、知らせを受けたときはもうレベル低下したあとだった。ちょっぴり後悔が残ったが、晴れ晴れとした気持ちで葬儀を終えたことも事実である。

按手で力づけられたこと

記憶違いでなければ3年ほど前、イエズスの聖心病院のシスター泉 キリエ様、大津キリスト教会にて特別講演をなさいました。
食事の交わりの時、シスターにご挨拶せねばと思い、「男ですが、看護師になろうと思います。」とシスターに申しました。
すると、シスターは「そう、がんばって。」と、私を按手なさいました。

主よ、あの時たしかに聖霊の力をいただいたのです。


主に在りて感謝します。
アーメン

2016年2月8日月曜日

マリア違い!?

教会で兄弟姉妹の皆さまと映画「マグダレーナコレクションズ(ジーザス・フィルム)」を観ていたとき、「あれ? マグダラのマリアって悪霊にとりつかれていたっけ?」という疑問が上がっていたようなので、まとめてみました。

聖書にはマリアという女性がいっぱい登場します。
なかでもマグダラのマリアとベタニアのマリアはよく混同されて理解されているようなので再確認したいと思います。

<マグダラのマリア>
ルカ8:1-3, 23:55などを読みますと、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた女性が書かれてあり、マリア・マグダレネと呼ばれていたようです。また彼女は多くの婦人たちと持ち物を出し合って一行に奉仕し、ガリラヤから付き従っていました。

マルコ16章を読みますと、イエス様の御遺体に香油を塗るために墓を訪れたのもマグダラのマリアで、ほかにヤコブの母マリア、サロメの3人がいました。

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<ベタニアのマリア>


ルカ10章38~42節を読みますとベタニアのマリアは裕福な女性で、イスラエル・エルサレムの近郊のベタニアに弟ラザロと姉マルタと共に暮らし、イエス様と親しかったようです。

参照:マリアのように@クリスチャン生活ブログ

ヨハネによる福音書12章1~8節を読みますと、高価な香油をイエス様の足にかけて髪の毛で拭ったのはベタニアのマリアだったことがわかります。

マリアだらけで、よく判らなくなるので、まとめてみました。

主に在りて感謝します。
アーメン

クリスチャンは弱い存在?


参考 ロゴスミニストリー


教会に通うようになるまでは、
教会に行くような人は、どんな人たちか想像もつかなかった。

「でも教会に毎週行くというのは、毎回、死と再生を考えに行くようなもので、これは毎回、お葬式をしているようなもんだ。」
「だから、クリスチャンて、ほんとうは強い人達の集まりなんだな。」と思うようになりました。


2016年2月5日金曜日

ノアの大洪水が、水のバプテスマの型となった。

参考 ロゴスミニストリー

創世記6-3
「・・それで人の齢(よわい)は120年にしよう。」
これは人の寿命が120年になったというより、これから後120年後に人類が滅ぼされるということである。
地は暴虐と悪に満ちていた。
しかし神の恵みに見いだされたノアは、固く120年間、信仰を保ち箱舟の建設を続けた。

水で悪は消し去られ、水によって救われる。



水は墓を象徴している。
ノアは水から出てきて再出発する。
ノアの大洪水は水のバプテスマの型となった。

あぁ主よ
わたしはキリストによって十字架につけられた者です。
しかし主よ
キリストが3日後に蘇られたのと同じように私もまだ生きています。

祈ります。
教会はキリストの共同体です。
どうぞ私たちを聖霊で満たして下さい。

感謝して主の御名によって祈ります。
アーメン

2016年2月3日水曜日

中山富男とは何者? 信仰の証し

クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である

中山富男
炭鉱のまち大牟田に生まれる
機械いじりが大好きな少年でした。
亀やウサギや猫・犬、動物が大好きな少年でした。
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衝撃! 少年時代から招きは受けていた!?

Vision(ヴィジョン)について


幻 - 聖痕を示す人物あらわる
数回にわたりビジョンを見せられるも・・・
教育は大事ですね。わたしは、この人物が何者かわかりませんでした。
ざんねーん!

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充実した人生を送っておりました・・・

高専を卒業

東京暮らし(後に熊本の実家へ)

某F社電算会社(大規模コンピュータのソフト開発)

後にパソコンのソフト開発会社で課長職

土地100坪、一戸建て3000万円の家に住み

給料40万円、1回のボーナス100万円

看護師の奥さん

二人の娘たち

犬と猫とウサギのペット付き

羨ましくないですか?

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ところが、

全てを手放すことに・・・

なーんにも考えられない、めんどくさい・・・
後でよく考えてみると、酷いウツ状態になってたようです。

独立して失敗

妻の姉死亡

離婚

もう八方手をつくして、身動きできない状態になるまで、
待っておられるのです。
神様は不幸や悪さえも利用して、御力を発揮できる機会を
与えられます。
「もうダメだ、死んじゃうかも」、
その時、神は言われます。「この時を待っていた」
水難レスキューの例・・・

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完全な孤独に恐怖する


幻 - 虚無の空間、絶対的な孤独
光もなく完全な闇
重力もなく、絶対真空の空間にワープ!
寒さにガクガクと震えが止まらない!
神様助けて!
幻(ビジョン)が夢ではなく、現実の体験と 何ら変わることのない5感ある体験と知った!

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そのとき手にしたのは白い聖書だった!

ここから主の助けが入る
快進撃

きっかけは一冊の聖書・・・震える手で開いてみると・・・
「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」
マタイ福音書 11章 28節

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、 一緒に住む。」
ヨハネによる福音書 14章 23節

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教会に行かなきゃ

カルバリーチャペル・コスタメサを卒業された宣教師の説き明かしで 聖書を学び続ける。
いまも日々学びが続いている・・・

教会に行かなきゃ!という強い衝動が生まれる。
中山:「先生、教会どこに行ったらいいですか?」
先生:「わたしが探してあげるね。」
先生:「大津キリスト教会なんてどう?」
中山:「はい、行ってみます!」

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教会に通うこと10ヶ月で早くも水の洗礼

受洗後数日して、家の近くに白いハト・・・めったにみないなぁ・・・

幻(ビジョン) - 「馬がきたよ、おいで、見に行こう!」と言われ、 小さな馬小屋を見に行くと、なかに純白に輝く子馬がいた!
「あとは任せたから、育ててね。じゃあね。」と言って立ち去られる。

 この白馬の白さは、この世の白さと異なり、白い光を放っていた。


・・・目が覚めて、ガバっと起き上がり・・・ 「うま、うま、餌買ってこなきゃ・・・」と焦るワタシ・・・
ところで、馬を連れてきた人物はいった何者?・・・

聖書に登場する白い馬

黙示録19章11節
また、私は開かれた天を見た。
見よ。白い馬がいる。
それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

黙示録19章14節
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った

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小さな奇跡の連続で今の私が生かされている

看護師として病院に入職
50男が看護学校に入って勉強するなんて、普通じゃないです。
簡単に病院に入職できちゃいました。

このたび老健施設に招かれて入職します。

介護スタッフと医療スタッフが連動しない職場、組織的に酷い職場
そんな所へ、わざわざ出向く必要なんてあるでしょうか?
ほんとにこれを出世と思いますか?
これを羨ましいと思いますか?
羨ましいのは、初めの生活ではないですか?

敢えて苦労する方向に歩んでいるのはなぜでしょう?

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なぜか大変なところを敢えて歩まされてしまう。

主に祈り、願いが聞き届けられるのは、どんな時でしょう?
なぜ主は願いを聞き入れ、世の法則を捻じ曲げてでも祈りを聞き入れ、 実現して下さるのでしょうか?
それは、御自分の栄光を世にお示しになるため。 だから実現してしまうのです。
主の下僕として祈ります。

マラナタ 「御国がきてください。」


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幻(ビジョン) - 患難期のワンシーン!?

幻 - 工場の跡地のような荒れ果てた廃墟に住む人々、病人・老人・貧者。
二人がかりで救済に奔走している私とパートナー。(あなた誰なの?)

ちょっと焦っている感情が伝わる。いそげいそげ!

私の手には、権威を示す権利書が握られ、それに基づいた行動だった。
キリストを着る、キリストの権威・・・

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私は主の下僕です。

主が言われないことは行わず、主が成さることのみ、私も行います。
イエス様が水のバプテスマを受けられて、御父は天幕を裂かれました。

主イエスこそ道であり、地と天はつながり、いまも天の門は開いたままになっています。
ゆえに願いは聞き届けられ、千年王国の後にしか実現し得ないことが起こります。

願いが聞き届けられたとき、爆発的な変化が起こります。

重力の働きを止めたイエス様、水の上を歩かれました。
(マタイ福音書14章22~33)
 あらゆる物理法則がイエス様によって作られ、だから無視することも御出来になられます。

水をぶどう酒に変えたイエス様、カナの婚礼の席で、まだ私の時がきていないと 遮られたものの、「あの方の言うようにしてあげてください。」と言う母マリアの 信仰心にイエス様は応えられました。(ヨハネの福音書2章)

応えずにはいられない、それが私の主です。
そんな主の下僕が私です。
主との直接契約、イエス様は直接関係を結んでくださる主なのです。

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こんな大言壮語を言って、
なんだあの人は、あのあとボケて死んじゃったね。

なんてことになるかもしれません。

それならそれで、天においてパワフルに働くだけのことです。

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いずれにしても、恵みのうえに恵みなのです。
ハレルヤ

牧師になります。
と主に願い出ました。

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荒野に呼ばわる声になろう!

I wont to be a voice.  No need name. 主の到来を告げる声となろうと思います。

願いはすべて聞き届けられます。
天の門は開かれ、主イエスによって道が出来ているからです。

ここに集われる方々、 若い方、熟年・高齢の皆さま、男性・女性、みなさんそれぞれ悩みがあり、 みなさんそれぞれ願いを込めて、祈ってこられたと思います。
 50年前・20年前の祈りもあったと思います。

いまここでもう一度、「こうなりたい!」と願いを込めて、 今度は一緒に祈ってみませんか? 

それぞれの祈りの時間を持ちたいと思います。(15秒)

いまここに主よ、恵みを全部送って下さい。みなさんも受け取られてください。
ハレルヤ 主よ感謝します。

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栄光ある主に感謝します。

祈ります。
天の父さま、 願いを聞き入れてくださりありがとうございました。
今年、ますます、かの約束の地での争いごとは激しさを増し、オリーブ山は、いつ裂けてもおかしくない様相です。
世が闇に沈まんとする今こそ、私たち教会は、燭台の光をますます強めることができます。
主がそうなさってくださいます。

イエス様、あなたが来てください。いまこそ、あなたが必要です。

愛する主よ、
本日は素晴らしい証しの時をもつことが出来ました。

栄光ある主に感謝を捧げ、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン

主との個人契約

主とは個人的な関わりが必要です。
教会でこんな働きをしているとか、
有名だとか、関係ないのです。
そんな方に主は言われます。「わたしは、あなたを全然知らない」
「あなたは、何かが必要な時、苦しい時に、わたしのもとへやって来たが、わたしは、あなたと共に時を過ごし、共に食事をして関わりを持ったことがない。わたしは、あなたを知らない。」
と言われるのです。

中山の考察) 光が先? 太陽が先?

創世記1章より「光あれ」

ロゴス・ミニストリーからの学び

神は初めからおられた。
1-3 神は仰せられた。
   「光があれ。」
    すると光があった。
1-4 神は光を見て良しとされた。
  神は光とやみとを区別された。
1-5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。
    夕があり、朝があった。第一日。


光るものが天の大空にあり、昼と夜を区別せよとされたのはもっと後、神が大きいほうの光るものに昼をつかさどらせ、小さいほうの光るものには夜をつかさどらせ、また星を作られたのは第4日目なのです。

ここで賢明な方は、矛盾を感じられたかもしれませんね。
「創世記が正しいとしても、星=恒星を作られたのは後じゃん。なんで初めに光があるの?」とね。





これは矛盾しておりません。
皆さん、光が何なのか、はっきりと判ってますか?
「判ってるよ、光でしょ・・・」
ほんとうに判ってるでしょうか?

光自体の正体は実はまだ判っていないのです。
光を光として人間が認識するためには、光が物体にあたり、その物体特有の波長が反射され、それに人の眼が反応して色と明るさを感じているのです。

人類が光について理解しているのは、電磁波の一種とみなすことが出来るということ。そのなかでも一定の波長域だけがヒトの眼に反応しうること。

かなり光の定義が怪しくなってきましたね。
そうなのです。光そのものについては、じつは何も判っていないのです。

神はヒトを作られました。そのヒトの眼に許される範囲の電磁波を称して人は光と呼んでいるのです。

ということは、太陽がなくたって、光はあったのです。無かったということは言い切れないのです。
現代科学においても、赤外線放射を捉えるカメラを使えば、ふだん光として捉えていない熱放射を光として見ることができます。

神は地が茫漠として、やみが大水の上にあり、神の霊が水の上をただ動いていただけの第1日目にして「光あれ。」と言われたのです。
物理的には熱放射をするだけのガス状星雲だったのかもしれませんが、それはすでに電磁波を放っていた。
そう理解することに矛盾はないのです。

だから・・・そうなんです。
初めに光があったのです!

ハレルヤ
主に在りて
アーメンですね!

心に安らぎを


創世記1章
ロゴス・ミニストリーからの学び


「初めに」という言葉について
神が天地を創造されたところから始まりますが、神はその前からおられた。
「ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
そして2節に、ことばによってすべてのものが造られた、とある。
この「ことば」は、イエス・キリストのことである。父なる神と、イエス・キリストがすべてのものが造られる前からおられた、ということである。
永遠の方であり、すべてのものの前に生きておられ、この方が存在していなかったことはない。
「しかし、主はとこしえに御座に着き、さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。(詩篇 9:7)」

神はご自分で存在することができ、すべてのものを支配しておられる。
この真理を知れば、私たちは心に休らぎが生まれる。

創世記vs進化論

創世記1:1 初めに、神が天と地を創造した。

ロゴス・ミニストリーからの学び

目的をもって、この世界をつくられた。
私たちが持っている物を眺め、それが何十億年かけて偶然に出来上がったという理屈と、「これを造った人がいるのだ。」という理由と、どちらが理にかなっているだろうか?
  ICレコーダーの例
  このような機能が欲しい、という概念と、具体的な設計と製造の工程があってはじめて、ICレコーダーが存在している。何十億年もかけて偶然にできるわけがない。

人間の眼のつくり
生体の眼の造りは非常に精巧に作られていて、現在のカメラ・メーカーの技術でも追いつけないほどである。

「進化論」を信じるには進化論という信仰が必要だ。
聖書では創造者がいることを前提に話している。
自然界を見れば、そこに「初めに、神が天と地を創造した。」という神の栄光が表れているのに、それを自分の知性で押しつぶしているから、知性が暗くなり、そして空しくなっているという結果に陥る。
人間には、目的が必要である。自分の生きている意味が必要である。それがなければ生きられないように造られている。
そして、神が初めにおられた、という真理のみが、その問いに答えを与えているのです。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の
怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間
や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
(ローマ 1:18-23)」

結婚や食べ物について

パウロ兄からテモテへ送られた書簡より抜粋
ロゴス・ミニストリーからの学び


テモテ第一・4.2~6
それは、うそつきどもの偽善によるものです。
彼らは良心が麻痺しており、
結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。
しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られたものです。
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。
神のことばと祈りによって、清められるからです。

これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。
信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。


とこのようにパウロ兄は、多くの教会を任せている愛弟子テモテに手紙を送っています。テモテは30歳でまだ若くナイーブで、緊張してよく腹をこわしました。
結婚することを禁じてもいなければ、断食をすることも必要なく、良い物だから感謝して受け取りなさい、と言われているのです。

主の御名によりて感謝します。
アーメン

考察)主イエス・キリストとは、どれほどの救い主であるのか


ロゴス・ミニストリーからの学び

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と使徒パウロは言われました。
これはパウロ兄が、熱心なイエス様の弟子となる前は、イエスの弟子たちを迫害し殺していた親玉だったからなのです。「サウロの回心」ほか詳しいエピソードは抜きにして・・・だからそんなパウロがバプテスマを受けるときにも、ほかの弟子たちは「だって、我々を殺そうと追い回しているのがサウロなんですよ!」と言って猛反対したのです。
(※サウロ:改名前のパウロ)


「わたしは罪人の頭です」と罪の告白をするパウロ兄・・・
「私が救われた神ですから、あなたがたが救われないはずがないのです。」、と言われておられるのです。

人殺しと言えばモーセもそう。
エジプトの神官にまで登りつめた若きモーセ、しかし同法であるヘブライ人を助けようとして、エジプト人を殺してしまう。これが発覚しモーセは国外逃亡、ミディアン人の娘と結婚し、羊飼いとして40年間暮らしていた。
その後は燃える柴のなかから神に語り掛けられたエピソードの通り、杖を持つモーセとして活躍していくことになるのだった。
パウロもモーセも、酷いことしてきたんです。
なのに、神の前に出て悔い改めることで、義とみなされたのです。

主よ
わたしも人殺しこそしてはいませんが、悪い思いと行いは数え上げればきりが無いほどで、ひとつひとつの罪を主に告白するたびに痛い思いをしております。

どうか主よ、死ぬしかない自分でも悔い改めることができますように、聖霊を送って下さい。
そして、主イエス・キリストの御名によって義とみなされ、キリストの働きを一部担えるようにしてください。
国と力と栄えとは永遠に主のものだからです。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。
キリストの花嫁である大津キリスト教会のために。
アーメン

マリアのように

わたしはマリアのようでありたいと思います。
ロゴス・ミニストリーからの学び


考察:ベタニアのマルタ・マリア姉妹について
よく気が付くマルタとイエス様の傍にいたマリア
マルタの給仕は尊い行為なのです。
でも残念なことに一番大事なのはなにか、判っていないです。

マルタはとうとう我慢ができなくてイエス様に直訴します。
「マリアも手伝うように仰ってください。」
それなのになぜイエス様は「マリアは良いほうを選んだ。」
と言われたのでしょう?

一見して、マルタの給仕は正しいです。
通常の客人に対する給仕であればです。

でも今回、給仕する相手はイエス様なのです。
マルタには肉の身のイエス様しか見えていなかったようですね。


霊的にみてイエス様が見えられて直接教えを乞うことなど、あり得ないことなのです。
神のひとり子であるイエス・キリストが差し出される御言葉という食べ物を無条件にいただく事こそが、主の下僕(しもべ)として執るべき態度でした。
あまり時間がないことをマリアは悟っていたはずで、全身全霊でイエス様の御言葉を受け止めようとしていたのです。

どちらも尊い行為だとか、むしろ何もしなかったマリアよりマルタの行為を素晴らしいと執る説教者もいますが、霊的にみてイエス様に従っているのは、どちらでしょうね。

マルタもイエス様が居られることの意味を知っていたなら、なにを差し置いてでも、イエス様の御言葉に触れるべきだったのです。肉の身の給仕なら誰かに頼めばよかったのです。

何が一番大事か知っているマリアのようでありたいと思います。

主に在りて
アーメン

キリストにより頼む生き方

イエス・キリストによって罪を赦され、新しい御霊による歩みを始めた。
ロゴス・ミニストリーからの学び


この驚くべき恵み・・・

「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」ということばは真実です。
第一テモテ3:1

非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。ピリピ1:21

イエス・キリストによって罪を赦され、新しい御霊による歩みを始めた。
この驚くべき恵み、あふれるほどの愛のゆえに、キリストに従いたい、キリストを伝えたい、キリストにあって成長したい。

それゆえ、キリストにより頼んで、キリストの教えを守り、熱心に仕えていきたい。
あらゆる境遇の中で常に神様を選択し、神様を求め続けなければならない。


キリストと共に

あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
(ゼパニヤ書 3章17節)

聞かれて困らないように

まったくキリスト教を知らない方から聞かれて困るクリスチャンの方も多いと思います。
クリスチャンであれば、少々詳細を欠いてでも、あっさりと端的に即答できるようにならねばと思い、まとめてみました。


(ペンダントのこと)
伝道のため、または話題のきっかけづくりの為にペンダントをしています。物としてのペンダントそのものに力はないことは存じておりますが、ペンダントを見るたびに十字架の意味を思い出すので、その役割はあるかなと思っているところです。

問い)かっこいい十字架のペンダントですね。
クリスチャンですか?
私はプロテスタント系のクリスチャンです。

問1)プロテスタントって何ですか?
簡単に言えば、「聖母マリア」を信仰の対象としているのがカトリックで、「イエス様」を信仰の対象とするのがプロテスタントのクリスチャンです。





問2)じゃあ、なんでイェス様は十字架にかかって死んじゃったの?
当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ユダヤはヘロダ王が仕切っていました。宗教上はユダヤ人の律法学者と呼ばれる人々が仕切っていました。一方、数々の病気直しや奇跡を見せるイエスは急速に民衆の人気をあつめていったのです。それで、ヘロデ王や律法学者は、自分たちの地位を脅かされるのではと不安になり、イエスを排除する策を練り始めます。結果、律法破壊の罪と自ら王と名のる罪を着せられます。一方、ユダヤの民衆はローマの支配から自分たちを救う、ダビデ王のような強い救世主を望んでいましたから、あっさりと捕まり処刑されようとしているイエスに失望しました。そして律法学者たちの扇動もあり、十字架刑となったのです。

問3)どうしてクリスチャンになったの?
聖書の言葉には、人が生きていくうえでの道しるべとなる事が多く記載されており、自分もそれに従い生きてみようと思ったからです。人を、家族を愛することの大切さがわかるようになる事がいいと思います。

預言者ヨナ


あなた自身が全く身動きできないと思える状況でも、あなたを飲み込んだクジラは移動しているのだ。
ロゴス・ミニストリーからの学び


預言者ヨナは大きな魚(くじら)に飲み込まれ、3日後に吐き出されたのだった。
ある日、アッシリア人がビーチに居ると、突然、魚(くじら)が人間を吐き出した。くじらの胃液で、服は溶け、髪の毛はなくなり、肌は色素がなくなり真っ白であった。

アッシリア人たちは、髪の毛がなく、裸で真っ白な人間が魚から出てきて言うのを聞いた。「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる。」 ヨナ3:4
意外なことに、これで町中が悔い改めたのだった。
史上最大のリバイバルである。
言いたいことはこうだ。
みなさんの中にも、こう思っている人がいる。
「俺は大馬鹿だ。」「俺は役立たずだ。」
「ずっと暗闇にいるが、何も起こらない。」
「まったく先が見えない。」
「まともに考える事も出来ない。」
「叩かれて当然の大バカだ、俺は。」

くじらは動いているのです。
あなたが座り込んでいる、その間も。
神は働かれていて、あなたも もうすぐ吐き出される。
どこかの海岸で、あなたが最大限の影響力を与え、
祝福となれる場所で、クジラはあなたを吐き出す。

あなた自身が全く身動きできないと思える状況でも、あなたを飲み込んだクジラは移動しているのだ。

主との個人契約

主とは個人的な関わりが必要です。
教会でこんな働きをしているとか、
有名だとか、関係ないのです。
そんな方に主は言われます。「わたしは、あなたを全然知らない」
「あなたは、何かが必要な時、苦しい時に、わたしのもとへやって来たが、わたしは、あなたと共に時を過ごし、共に食事をして関わりを持ったことがない。わたしは、あなたを知らない。」
と言われるのです。

荒野に呼ばわる声になる

荒野に呼ばわる声になる

自分が何を考え、
何を信じ、
何に対して心を燃やすかによって、
あなたが、
神から何を受け取るかが決まるのだ。

神は、あなたが自分の人生を、
ただほんの少し垣間見ていた所
から、
大きく動かそうとしておられる。

主イエスが来られてこの方、
私たちは、天の国を垣間見るだけでなく、
中に入ることが出来るようになった。
参考:「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

神は言われる。
「新約の時代よりずっと、天の門は開いているのだ。」
主イエスが開かれて以来、一度も閉ざされていない。
ステパノが石打ちにされた時、彼が天を見つめると、天が開いていた。(使徒の働き7章)
ペテロが幻を見た時も、天は開かれていて、
ヨハネが、パトモス島で幻を見た時も、天は開いていた。
このように、新約の時代、門は常に開かれたままなのである。




だが、
自分が心を閉ざしていたら、
天が開かれていても意味がない。
ホテルのジョイント・ルームをご存知だろうか?
2つの部屋がドア2枚でつながっているのだが、
こちら側のドアを開けると、もう1枚ドアがあって、
両方のドアが開いて、初めて二つの部屋を行き来することができる。
これと同じだ。
神は、隔たりを裂き、チョウツガイを外して全開状態、
だけど、あなたが自分の側のドアを開けない限り、
神が用意されたスイートルームに行くことはできないのだ。
あなたが神を待っているのではなく

神が、あなたを待っているのだ。


あなたが祈ってきたこと、
あなたが望んできたこと、
祈り、宣言し続けてきたこと、
50年前、20年前に受けた予言の言葉、
諦めそうになったこともあるだろう。
でも、いま言うのです。
「あなたが私に約束してくださった事すべてを、いま受け取ります!!」
サンキューGOD!

主とは個人的な関わりが必要です。
教会でこんな働きをしているとか、
有名だとか、関係ないのです。
そんな方に主は言われます。「わたしは、あなたを全然知らない」
「あなたは、何かが必要な時、苦しい時に、わたしのもとへやって来たが、わたしは、あなたと共に時を過ごし、共に食事をして関わりを持ったことがない。わたしは、あなたを知らない。」
と言われるのです。

バプテスマのヨハネについて
エリヤの再来だとか、預言者とか、救世主だとか、
なにかと肩書をつけたがる人々に対し、
彼は言った。
「私はただの、天からの声にすぎない。」
ヨハネは名声ではなく、声という役目を担った。
通常は肩書や名声や地位を求め、何か特別な事をしたがるものだ。
正しくはこのように言うべきだ。
「肩書も地位もいらない!」
「ただ、声を与えて下さい!!!」
ただ、世を変える声になりたい。
エリヤも同じだ。
彼の名は出てこないが、ただ彼の働きのみが書かれている。
ヘブル人への手紙11章:女たちは、死んだものを蘇らせていただきました。
これはエリヤです。
神は、このような人物を探しておられる。
わたしは、何もせずして名を覚えられるより、
何かをして、名前を忘れられるほうが良い。
閉じられた天の下で、立派な名声を受けるくらいなら、
開かれた天の下で、名も無き者の方が良い。
地上で名声を求めない者が、天においてパワフルに働くことが出来るのだ。

ハレルヤ

主は、永遠の最高祭司
主は死なない
私は、主の御前に立つ。

「開かれた天の下で生きるとは?」
それは、毎日、毎時間、全ての瞬間を、
神の御前で生きようとする決意

いつか神の御前に立てるように、とよく言うが、
いま、神の御前に立とう。
天は開かれている。
みんな何らかの困難や悩みがある。
みんな弱さがあって、誰にでも試練はやって来る。
だが、神の御前に今現在立っているのだと気づくことで、
毎日が、人生が、爆発的に変わるのだ。

尻込みしそうになったとき思ってほしい。
「いま神の御前に立っているのだ。」
そう思うことで人生から罪を追い出し、
人生に妥協がなくなる。
すべて、神から出ていないものを、人生から締め出そう。
人生から恐れが取り除かれる。

イスラエルに新たな天然資源

ヨハネの黙示録を精読中。
イスラエルに新たな天然資源が見つかり、
誰もがエルサレムをつけ狙い、略奪しようと集結している。
あぁ、エルサレム
貴女はまるで蜜をしたため、香りを放つ花のようだ。ハチや熊どもを呼び寄せる。
舞台役者は揃いはじめた。
主の裁きは、いつ始まってもおかしくない。
御父が言われた事は必ず成就する。
大変な数の屍の山が築かれ、
オリーブ山は裂ける。
そして、世界中の誰もが知るあのお方が現れる。
聖書に書かれた神の言葉は必ず成就する。
だが、そうなってから悔い改めても、
もう遅い。
娶ったり、贈り物を贈りあったり、してる暇はない。
悔い改めよ。
今ならまだ間に合う。
主イエスの膝もとで、肩の荷を降ろすといい。
我々、異邦人も集い来よ。
ユダヤの民よ、あなた方はまた犯される。
今度は世界中から。
メシヤを信じて欲しい。
主にあって 祈ります。
アーメン