2017年9月12日火曜日

永遠の生命



「永遠の生命」
キリスト教における「永遠の生命」とは、不死の生命のことである。
老・病・死から解放された命(いのち)をいう。
その自身の内に絶対的幸福を得ることをいう。
私たちの命(いのち)のなかに幸福の源泉があるならば、永遠に生きるからといって、退屈になるようなことはない。
神様がそうである。
神様は永遠に生きておられるが退屈には思っておられない。
なぜなら、神様ご自身の内に喜び・幸福の源泉があるからである。
神様は高らかに歌っておられる。
じつにキリスト教を通して得られる「永遠の生命」には、神の生命の躍動と愛が内に溢れている。
すべての不幸から開放された命(いのち)を得るのである。
(写真:阿蘇の大草原 2017年3月)

2017年9月11日月曜日

153


「聖書に隠された数値に驚く」
私は数学が得意だ。とくに物理数学。だからコンピュータの専門家だったときも、大いにその才能を発揮して貢献することができた。
そんな私だから、聖書にかかれた数字の意味を知ったときにまったく驚いてしまった。たとえば、サタンには666、キリストには888、十字架には777という数値が隠れていると言われている。全てが数学的に表現可能であるのはたいへん納得がいく話ではあ
る。なぜなら神の摂理によって、ありとあらゆる世のなかの仕組みが出来上がっているからである。数学的な表現ができるということが物質の創造に関わっていることの証しでもある。
今回は、そのような聖書の秘密の数値のうち「153」に着目してみよう。
ヨハネ 21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは153匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
聖書を読んでいる方であれば、イエス様に言われて網を投げ入れ153匹もの魚を漁ったという話しはよくご存知のはずである。
この「153」という数字は3の倍数であり、特別な数字なのだ。どう特別なのか・・・
「153」は三角数であり、1~17までの整数を全部足した数である。
1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15+16+17=153
 こうした数は、「トライアングル・ナンバー」(triangle number)または、「三角数」と呼ばれている。
じつは聖書の中、また聖書に関連した数として、三角数がよく出てくる。次のものはみな三角数である。
●神は唯一──1
●神の三位一体──3
●神が天地創造のみわざをなされた日数──6
●カナの結婚式でイエスは、6つのかめに入った水を全部ぶどう酒に変えられた(ヨハ2・6)  ──6
●イエスは受難の予告から6日の後に変貌された(マコ9・2)――6
●「主の祈り」は6つの願いから成る――6
●神はモーセに「十戒」を与えられた。──10
●聖書巻頭の言葉、創世記1・1「はじめに神が天と地を創造された」を構成するヘブル語の文 字数──28
●聖書の書物数──66
●ペンテコステの日に二階座敷に集まっていた弟子達の数(使徒 1・15)──120
●難破した船でパウロと共に救われた人々の数(使徒27・36) ──276
●ノアの箱舟の長さ(創世6・15) ──300(キュビト)
●患難時代の独裁者「獣」を現わす数(黙示13・18)──666
●創世記1・1のヘブル語を数字に換算したもの(後述するゲマト リア)――2701
 これらはみな三角数である。そして、今私たちが見ている「153」も、三角数なのである。
「153」の特殊性
153の各桁の数値は1、5、3である。これら各桁の数を3乗して、たす。すると、どんな数が出てくるか。
153→(1の3乗)+(5の3乗)+(3の乗)
=(1×1×1)+(5×5×5)+(3×3×3)
=1+125+27
=153
つまり、各桁の数字を3乗して足すと、もとの153に戻るのである。計算した結果がもとの数字だというのは、あらゆる数値のなかでも、非常にまれな数値であるということが出来る。
さらに試して欲しいのだが、3の倍数である数値ならどんな数値でも、上記の計算を繰り返していくと最終的に「153」に戻るのである。そしていったん「153」になれば、あとは何度計算しても「153」のままである。
これは驚くべきことである。いかに「153」が特殊な数値であるかが判る。
この計算手法で「3乗」というのは、「立方体化」と呼ばれる数学的手法である。私たちの住む宇宙空間は三次元で表現できる。また、幕屋の至聖所が立方体であったことにも見られるように、立方体は重要な神的象徴であり、「3乗」というのはそれにかかわっている。
黙示録7章には神の印を押される144000人のイスラエルの子孫の一節があるが、この「144000」も3で割り切れる、つまり3の倍数である、ということはこれも上記の3乗の計算を繰り返すと最後は「153」に帰結する。
黙示録8章
七人の天使がラッパ(士気を上げる音)を吹く(8章6節-11章19節)
第一のラッパ:地上の三分の一、木々の三分の一、すべての青草が焼ける (8:6-7)
第二のラッパ:海の三分の一が血になり、海の生物の三分の一が死ぬ (8:8-9)
第三のラッパ:にがよもぎという星が落ちて、川の三分の一が苦くなり、人が死ぬ (8:10-11)
第四のラッパ:太陽、月、星の三分の一が暗くなる(8:12-13)
第五のラッパ:いなごが額に神の刻印がない人を5ヶ月苦しめる(9:1-12)
第六のラッパ:四人の天使が人間の三分の一を殺した。生き残った人間は相変わらず悪霊、金、銀、銅、石の偶像を拝んだ(9:13-21)
クリスチャン人口は、地球人口の3分の1と言われている。ということは、クリスチャン人口の数値を使って上記の計算を繰り返すと、やはり「153」という数値に帰結するのである。

2017年7月10日月曜日

は? 脳が何を目的に毎日進化しているか??

武田邦彦先生のニュース動画を見たときの反応を記録します。タイトルは、「正直分からない。脳が何を目的に毎日進化しているか?脳の謎・・・」、となっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=amXYM7V0h0E

DNAの特徴は改善や進化で強いものが出来てきたというのは間違いで、むしろ変化するのを阻み保持する方向に働きます。変化すると多くが滅ぶ方向に行くからです。脳が何を目的に毎日進化・・・なにもわかっておられないことが露呈しています。進化しませんし、むしろ人類発生当初が一番すぐれた完成形を保っていました。なので劣化はしているかもしれません。 ヒトがヒトである特徴のひとつに、言語を駆使するという能力があります。ヒトの場合、生まれた直後の脳のブローカ野(言語を支配)はどうなってるかというと、世界じゅうのあらゆる言語に対応できる「ベーシック・ソフトウェア」が組み込まれています。通常、赤ちゃんは3歳までに耳から入ってくる音をもとに母親の声なるものを「認識」し、単語を聞き分け、理解するようになります。音の入力そして五感を通して、あらゆる言語を理解する機能が予め備わって生まれてくるというのです。そして一つの言語が決まると、「アポトーシス」が働き無駄な回路は消滅します。3つ児の魂・・・とはよく言ったものです。母親が日本語だけを聞かせていると、英語が苦手な子供になるそうですが、それが上記の説明で裏付けされています。 ノアの洪水前の大気環境のもとで生命は最大限の能力を発揮します。2気圧の大気、酸素濃度26%〜30%、植物も動物も元気でした。偉大なオールマイティ・クリエーターの存在を無視してはいけません。デザイナーの存在を無視して、創られた側の存在たちだけで「うーん、わからん、あーだろ、こーだろ」と理屈をこね回しているようなもんです。 武田先生が好きそうな物理の法則を使うとするならば、エントロピー増大の法則は成り立っています。「自然(世界)は、常に、エントロピーが『小さい→大きい』という方向に進む。 すわなち、自然は『秩序から無秩序へ』という方向に進む」ということで、具体的に言うと、「整理整頓された部屋は、そのまま自然に任せておくと、 だんだん乱雑になりますよ~。 勝手に整理されるということはありえませんよ~」 ね・・わかりますか、勝手にDNAが進化つまり、まとまった方向へ、エントロピー縮小の方向に、下から上には逆上りはしないということ。 設計図と材料だけあっても、これを使用する意志の存在がなければ生命とはならないわけです。DNAと蛋白の原料だけ置いといても、生命は発現しません。「神の息吹」と言われたりする「いのち」が必要になります。これは創造主にしか出来ないことです。 わかりにくいですか、ならば、家の建築には設計図と建築材料のほかに、大工さんが必要です。ここで大工さんとは、家をつくるという「意志」と言ってもいいでしょう。 現代のDNAを組み替えるという技術も、組み換え後に「いのち」あるものに差し戻してるだけです。「いのち」を利用しただけで作ったわけではない、ということ。研究者の方々のほうがむしろ、クリエーターの存在に気づいていますよ。進化論はナンセンス、「進化教」もしくは「ダーウィン教」という一種の盲信宗教に近い。

2017年6月19日月曜日

山上の垂訓

新約聖書・マタイの福音書5章より

モーセの律法とは何かを
メシヤが語っているのが
山上の垂訓

これを行ったから
救われるというものではない
ということ

2017年6月13日火曜日

アブラハム、サラを差し出すこと2度め

聖書通読の学び 月刊誌「クレイ」参照
創世記20:1〜2
アブラハムはゲラルに滞在中、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。
「あなたは、なんということをしてくれたのか」、と言われたのは、これで2度め。
・・・これは創世記12章でネゲブ地方に大飢饉が訪れたときエジプトでアブラムが犯した過ちと同じことをまたやってる。
殺されまいとする臆病で哀れな老人、そんな表現がよく似合う。
・・驚嘆すべきことに、創世記12章でのアブラムは75歳でじゅうぶん老人のはず、妻サラも70歳くらいじゃなかろうか。それなのにエジプトの人々が目を奪われるほどの麗しい美女だったようだ。
創世記18章でサラが妊娠すると主に言われてサラは笑ったが、このときもすでに更年期を過ぎていた。
しかし創世記20章ではまたしてもアブラハムは、ゲラルの王アビメレクに、サラは妹だと偽り、王にサラを差し出している。
90歳くらいの老女であるはずのサラを、ようやると驚嘆すべきところですよ、ここは!
まだまだ女性としての魅力を保っていたということなんでしょうね。翌年にはイサク(笑う)ちゃんを産んだわけだしね!
信仰の人アブラハム、95歳にして、ようやるわー。
えげつなー、妻サラを「妹」と偽り権力者に差し出すこと2回、それでも主に愛されているのよね、アブラハム。
そうであれば、なおさらのこと、わたしもあなたも、主に愛されているんですよぉ。
ー クレイより ー
アブラハムの失態により、イサクの誕生が危うくなった。
もし神の介入がなかったなら、ユダヤ民族の誕生は歴史上なかったことになる。そしてメシア誕生も実現しなかったことになる。
この事件は、アブラハム契約が無条件契約であることを私たちに教えている。
アブラハム契約は、人間の失敗や罪によって破棄されるものではない。
次回学ぶが、この事件は神の介入によって解決へと向かう。
ほめたたえるべきは、神の御名だけである。
私たちの救いもまた、すべて神の守りによって完成する。「あなたがたは、
信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」(1 ペテ1:5)。
試練の中を通過している人は、天に蓄たくわえられている素晴らしい資産と霊的祝福を思い、そこから力をいただこうではないか。
私たちの救いは、神の確かさによって保証されているのである。
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主の御名によって信じ、感謝します。
アーメン

2017年6月12日月曜日

聖書通読の学び 月刊誌「クレイ」参照


創世記19:30 ~ 38
天使によってようやく逃げ延びたロトは、ツォアルという町に住むのを恐れ、ふたりの娘たちと一緒に山に住んだ。
しかし、ふたりの娘たちは父親を相手に子を宿す。近親相姦である。
彼女たちの子孫がアモン人とモアブ人になり、忌み嫌われる民となる。

ネヘミヤ13:1
モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人モアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。

これは申命記23章のことである。名指しで書かれてある。

ロトとその娘たちを通して、滅びたはずのソドムが、モアブ人とアモン人という形で再生することになる。モアブとは「父から」という意味、アモンとは「私の民の子」という意味らしい。

ロトは、最初は、財産と使用人と家族に恵まれた遊牧民であった。
ところが、最後は、財産を失くし、ほら穴に娘2 人と住むようになった。
さらに、子孫であるモアブ人とアモン人は、後に、イスラエルの民に対して姦と偶の罪を犯させるようになる(民数記25 章のバアル・ペオルの事件、レビ記18:21 のモレク礼拝の禁止、など参照)。

ロトの人生が狂い始めたのは、創世記13 章にあるように、ヨルダンの低地にある、まるでエデンの園のように麗しい土地を居留地とした。滅ぼされる前のソドムとゴモラの町はそこにあった。ロトは、霊的祝福よりも、物質的祝福を重視したのである。

しかし、新約聖書ではロトのことを「義人」として評価している(2 ペテ2:6 〜9)。
ロトはソドムに住みながらも、心を痛めていたからである。

このように義人と言われたロトでさえも、誤った選択や彼の優柔不断な性格によって神の祝福からもれていったとするなら、私たちはなおさら知恵ある選択をしなければならないようだ。

ロトの弱点から、どのような教訓を学ぶことができるか・・・黙想する。
わたしは、ロト以上の酷い罪人です。
そのようなわたしですので、主との交わりに加わるとなど到底叶わぬことであります。
しかし、それにも関わらず、日々の一瞬でさえも死なずに、豊かに生かされていることができています。
これは、わたしが酷い罪人であることとは全く無関係に、一方的な神様の恵みによるものです。

天の父なる神様
わたしはひどい罪人であるにも関わらず
きょうも生かされていることを
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン





2017年6月7日水曜日

離婚は罪なの? 再婚はできないの?

きょうはズバリ、
離婚と再婚問題にチャレンジします。

あぁ、律法を守れない! 好きな人ができた、愛する人ができた、結婚したい。
いちど離婚してるけど、再婚は罪だ! クリスチャンとしては失格だ、もう教会にも行けない、汚れた。
・・などとお嘆きの方がおられたら、ローマ書8章を読んでほしいです。救われますよ。

ローマ人への手紙7章15節
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

使途パウロがいいたいのは、律法に「・・してはいけない」、と書かれてあると、それをやってしまう、というのです。
わたし、日本人ですが、この感覚はわかりづらい。してはいけないと書かれてあるなら、それを守ろうとします。ユダヤ人は、してはいけないと言われると、やりたくなるそうです。

ローマ書7章には結婚と浮気の事が書かれてあります。これを字義どおりにとらえると、奥さんが死亡でもしない限り、わたしの再婚は許されないということになります。
現実にそう理解しているクリスチャンは多いように思います。
離婚・再婚問題で苦しみぬいて、失格クリスチャンだらけになってしまいそうです。
わたしもその一人です。
そうとう苦しみました。ローマ書7章クリスチャンでしたよ。

しかしそれでも私は救われた、と宣言することができます。
「救われた」とは、いったい何から救われたのでしょう・・
それは神の怒りから救われているということです。

信仰義人(しんこうぎにん)・・・
クリスチャンである私はキリストとともに死んだので、律法はもう私に対して要求することはなくなりました。信仰によって義とされるとは例えば、わたしの働きや努力とは関係なく、まったく罪のないキリストの完全無欠の行いや思いがすべて、わたしが行ってきたことになっています。
いやー、そんなムシのいい話しがあるわけがない、そう思われますよね。
あるんです、神様からのギフトなんです。
無償のギフトは存在するのです。
まったくの話し、受け取るか、受け取らないかの差なんです。
キリストの名によって義とされるとは・・・そういうことです。

私はキリストとともに死んだ・・・
ちょっとまって! まだ実際に死亡したのではないです(笑)
そうではなくて、過去の自分とは決別したと、言い換えてもいい。
これは死んでこの世とオサラバしたのと同じくらい決定的であるということです。
あと戻りは、ない! ということ。

ここでローマ書7章に書いてある結婚の話しに戻します。
ダンナが死なない限り、再婚は出来ない、と律法に書かれてあったでしょうか・・
あれ? 少し違う見方ができるようですね。
そうなんです、別れた奥さんが死ぬ必要はなくなりました。
離婚したら、後を振り返らない。
奥さんが死んだのと同じくらい、絶対的にあとを振り返らない。
死人を憎んだって、しようがないのです。
感謝して赦しましょう。
離婚後たまたま再会しても、あとを振り返らない・・・

ローマ書7章3節
もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
はい、もうおわかりですね。
救われました・・・

主の御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2017年5月29日月曜日

気づいてしまいました。
きょう突然、聖書に書いてある神様のことを今までになく明確に感じました。
それはこんな風にです。
神様はアルファでありオメガである存在です。
つまり過去から現在、そして未来へと続く一方通行の一本道を歩む私たち人間とは、異なる時間概念の存在であるということ。
いま私たちが手にしている「聖書」とは、そのような神様からのメッセージ、プレゼント、ギフトであるということ。
この聖書の使い方では、はじめは創世記から順番に読むことを薦められます。ことのなりゆきを知るには、そのとおりなのですが。
しかし気づいてしまったのです。聖書は時空を飛び越え、未来を旅するツール、タイムマシンなのだと。あるいは過去にさえも・・・
未来に約束された福音、これこそが究極の救いなのです。
黙示録にあるように、携挙があり、生みの患難期があり、それから訪れるミレニアム期 ・・その次代には携挙されなかったが主を信じる人々もいれば、携挙後に滅びない体を着せられ、新しい名で主とともにいるわたしたちとが混在して住んでいる世界なのです。つまり古い肉体のままの人もいれば、新しい体の人もいるわけです。だから新しいミレニアム時代の幕開けでは、主を信じる人々ばかりで麗しく統治されてはいるのですが、ミレニアムの終わりになると、古い肉の身で交配し世代交代をしているうちに堕落するものが出てくるのです。なぜ神様はサタンを拘留してとっておいたかと言いますと、このような荒廃したミレニアム期の終わりに、最終的な裁きを行うためにサタンを解き放たれる為なのです。また、すべての死者も蘇り、最終弁明とその後の裁きが行われます。また、かれらを飲み込んでいた”死”と”ハデス”さえも最後は火の池に投げ込まれ、そのようにして、創世記のはじめにあるような現在の地球環境と現在の宇宙空間は、創り主の手によって消え去ります。
黙示録21:1 以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
その後すぐに神様は新しい天と新しい地とを、わたしたちにお与えになられます。そして、そこに住む私たちには苦しみや悲しみ、叫びなどはなく、ただ主とともにいる喜びの日々が待っています。新しい都エルサレムは信じられないほど美しく輝き、主の輝きのために日没もありません。また、この時代には神殿がありません。なぜなら、主が神殿そのものだからです。
主はすぐに来るとおっしゃいました。
未来に約束された福音、これこそが究極の救いなのです。
そのような目線から現在のわたしたちがどうあるべきなのか・・・
目覚めていなさい、わたしはすぐに来る。
そのように主が言われた意味がわかってきたように思えます。
究極の救いが得られた未来の世界からの視点で、いまの自分をみること・・・それこそが重要なのではないでしょうか。
ただ救ってください、救ってくださいと闇雲に主に祈っても仕方がない、そんな風にいまは思っています。
なぜいま、私たちは聖書を手にとり、福音を学んでいるのか、なぜ福音を述べ伝えよと主はおっしゃるのか、その意味がわかってきました。
なぜ受洗後にビジョンを見せていただき、馬小屋とともに白馬の子馬を私の内に置いていかれ、その際に「うまく育ててみてね、じゃあね」、と言われたのか・・・
また、荒れ果てた工場跡地に住む病人や生活困窮者の人々を救うビジョンを見せていただき、不思議なことに一人ではなく、一緒に歩いている人がいました。わたしたちのことを「私の友」と言われた方が一緒におられ、なぜこのような事をしなければならないのかと疑問を発したわたしに「右手を見てごらん、あなたはもう権利書を持っているのだから、しっかりしなさい」、と言われていたことを憶えています。
いまもその事を思い出しながら、日々を過ごしています。
福音宣教への道か・・・
主よ
年齢を重ねた罪深いわたしに、このようなビジョンを見せておらる主よ、
わたしのことをさえ、「友よ」と言われる主よ
あなたが一緒に歩まれるのなら・・・
罪は贖われ、拭い去られ、
しかも選ばれた・・・なんと光栄なことでしょう。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、
お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2017年5月28日日曜日

主の掟(おきて)

主の掟(おきて)、戒めとは・・・
主がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちが互いに愛し合うようになること。
これが主イエス・キリストが私たちに課せられた戒め。
私は、友のために命を捨てることになったとしても、悲しくはありません。
悔しくはありません。
なぜなら、つねに主が横におられ、わたしと一緒に歩んでいてくださるからです。
わたしは、これほどの大きな愛を、ほかに知りません。
わたしはわたしのことを、主の命じることに従う僕(しもべ)であると思っていました。
ところが主は、「あなたは私の友である」、と言われました。
なぜなら、しもべなら、主人の考えを知ることはなく、命令に従うのみですが、天の御父が主に語られたことは、わたしにも聞かせてくださっているからです。
だから、「あなたは私の友だ」、と主は言われたのです。
わたしが友であることは、わたしが選んだのではなく、主がわたしを選び出し、友であるよう任命してくださったのです。
だから主の御名のもと、わたしがすることはみな、天の御父によって成就することになっています。
またそれによって栄光が天の御父にありますように。
そしてこの福音がすべての人々に届き、主を信じるすべての人々の内に主がありますように。
アーメン

聖霊の証

私は主の御名を褒め称え、主を愛します。
天に御名が在るように、地にも御名が在りますように。
わたしは主の掟を受け入れます。
わたしは主の掟を守ります。
主よ、こんなわたしを愛してくださり、ありがとうございます。
これからも、わたしを通して、あなたご自身を現してください。
わたしと接する方々に、あなたのお姿が現れて、あなたを賛美する者に変えてくださいますように。
ありがとうございます。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2017年4月10日月曜日

人は何の為に生きるのか?
人生の目的は何?

この問いに対する答えは、聖書の中では単純明解です。

神様が人を作ったのだから、人は神さまの為になるように出来ているのです。

2017年4月9日日曜日

幸せって何かを考えた時、
イエス様が、「あぁ、いま幸せだなー。」って思うことをやろうと思うんだ。
うん・・それが僕の幸せになる。
自分にとってのね。

それを命がけでやろうと思うんだ。
だって、イエス様は僕たちの為に、命がけになったんだよ。
命をかけるほどに、やんなきゃいけなかった事だったんだよ。
それが十字架にかかる事。
僕らの罪の象徴だよ、あれは。
本当は僕らが十字架にかかるべきだったんだ。
だけど人類右代表でイエス様が十字架にかけられたんだ。
何のために?
僕たちが神様と仲直りする為さ。

神様は、嘘をつけない。
だから欺く知恵を身につけちゃった人間を罰して切り捨てなきゃならなくなったんだ。
でも出来るかい? 抹殺して、クシャって潰しちゃうなんて。
本当に好きで好きで仕方なかったんだよ、人間のことが。
だって自分に似せて作った最高作の人間のことだもの。
だから潰せなかったんだ、クシャって。

それで神様は考えたんだ。自分のひとり息子に罪を全部背負わせて、その彼を罰することにしたんだ。
そしたら大好きな自分の作品を壊さずに済むだろうって、考えたんだよ。
でも出来るかい? 自分の息子を悪人の身代わりに死刑にするなんて。
人類右代表、それがイエス様、ヒトであって、神の子でもあるんだよ。
罰せられるために人の世に生まれた神の子。
ひどい罪人に仕えるために生まれた神の子、イエス。

神様ってね、実は愛で出来てるんだよ。主成分は愛。
だから神様の差し出すものって、愛しかないんだよ。
信じていいんだと思うよ。
それだけはね。

2017年4月5日水曜日

離婚と再婚について

同じお悩みをもつ独身の男女のみなさん、中年クリスチャンの私から聖書福音のメッセージを送ります!
聖書では離婚は罪であると言われ、相手が死別でもしない限り離婚も再婚もできずにドロドロの人生を歩むことになってしまわないよう、本当はイエス様はなんと言いたかったのか、一緒に考察をしていきましょう。
私は13年前に離婚しました。というか離婚を同意せざるを得ない状況であったわけです。さて世の中には経済的な理由、あるいは夫婦間の冷え切った関係または夫の暴力(DV)などが原因となり離婚することもあるわけですが、ここは一旦子供の養育問題は横に置いといて、当事者である私たちの離婚と再婚問題について、聖書に書いてある律法とイエス様のみ言葉に照らし合わせて、離婚は罪深い行為なのか、再婚は罪なのか、じゃあ私たち人間は姦淫の罪を犯し続けていて、この矛盾をどうしたらいいのか、もう祈るしかないのか、苦しむしかないのか、このあたりを鋭く考察して見ようと思うのです。
YAHOO!知恵袋に掲載されていた質問と投稿を参考に考察をしていきましょう。
ズバリ、再婚は姦淫であると聖書に書かれています。離婚については否定的な教会が多いように感じます。これは聖書通りと思います。しかし再婚について言うと、特にプロテスタントの教会はどこも容認しているような印象を受けます。私にはこれが聖書の教えと矛盾しているようで不思議でなりませんでした。
新約聖書 マタイ5:32 にはハッキリと、再婚は姦淫に当たると書かれています。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。<また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです>。」
どうみても、マタイ5:32 にはハッキリと再婚は姦淫に当たると書かれているようにしか思えないのです。しかしどうやらここでイエス様が言いたかった事は、当時のユダヤ人の習慣に関係があるようなのです。妻以外の女性と不倫すれば、姦淫罪で死刑になります。しかしここで当時の民衆は都合よく発想の転換をした! もし元妻と離婚し、不倫相手を妻にしてしまえば姦淫罪になりません。離婚はモーセも認めていますから(申命記 24:1)。そういうわけで、不倫を正当化するために結婚・離婚を繰り返す人々が当時は多かったのです。しかも、死別・離婚を問わず、夫をなくした女性の援助という名目もありますから。ここで言われている「離別された女と結婚する」というのは、そういう意味です。イエス様が反対したのは、そのように法の抜け穴を突いて不倫を正当化することでした。お前たちはそれで法を守ったつもりかもしれないが、そもそも情欲の目で女性を見た時点で、心で姦淫を犯しているではないかと。人の罪から出た小賢しいやり方が、神の法を台無しにしていると言われているわけです。
また、イエス様は、マルコ 10:5 では「モーセが離婚を許したのは、お前たちの心が頑であったから」だと言われています。しかし、本来的に夫婦は一体であるのだから、離してはならないものであるのだと。ここでイエス様は、原則と例外を考えておられます。
「夫婦は一体となる」は原則であり、神の意志によるもの。
しかし、夫婦関係が冷えきっていたり、あるいは暴力があったりした場合、離婚を許さなければかえって罪の温床になります。
モーセは人に罪を犯させぬよう、例外を設けたのです。
大事なことは、神の意志による原則と、人の罪を犯させないための例外とを、ごっちゃにしてはならないということです。
「聖書に書いてあるから守らなければならない!」ではなく、それが原則なのか例外なのかを踏まえた上で、「神の心にかなうこと」を選ぶ必要があるわけです。
だから、パウロは手紙の中で「これを命じるのは私ではなく主である」、あるいは「これを命じるのは主ではなく私である」ということを明示的に書き分けているわけです。そして後者に属するものつまり私ごととして「もし自制することができなければ結婚しなさい」と命じています(I コリント 7:9)。これは初婚・再婚を問わず、結婚していない男女に向けてのものです。
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聖書的解釈の結論)
原則)
夫婦は一体であり、神の意志によるものである。
例外)
しかし夫婦関係が冷えきっていたり、あるいは暴力があったりした場合、離婚を許さなければかえって罪の温床になるということ。
再婚について)
パウロから初婚・再婚を問わず、結婚していない独身の男女に向けてのメッセージ
「もし自制することができなければ結婚しなさい」(I コリント 7:9)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ハレルヤ!
自制もできない私でありますから長い独身生活はかえって罪の温床になります。
ぜひとも早めに再婚して神の祝福を受けようと思います!
アーメン

2017年1月24日火曜日

選ばれた民に伝えられたのは「すべての民のための神」

ちいろば先生「旧約一日一章」より

エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。
(創世記36章1節)

ここにはエサウつまりエドムの系図が羅列されている。
しかし彼はすでに神の救いの歴史からはずれている。
なのになぜ、神の言葉なる聖書に記されているのであろうか?
その理由は、聖書に記されている神は全世界・全宇宙の神であるということ。
イスラエルは神の救いの御業(みわざ)遂行の為に召された僕(しもべ)にすぎないということ。

神は一人の滅びるのも望みたまわない方である。
私たちはともすると、神は自分だけの神のように思いやすい。
しかしクリスマスの夜、天使が羊飼いに告げて語った言葉は「全ての民に与えられる大きな喜びをあなた方に伝える」ということであった。
いま一度、神は「すべての民」の神であることを再確認し、このすべての民の神のみこころを伝える器としての私たちの使命を新たにしたいものである。

2017年1月18日水曜日

神様は愛で出来ている

神なんかいない!
わたしが成し遂げた。
と、あなたは言う
神さまがつくられた大地を踏みしめ
神さまがつくられた大気を吸って
神さまがつくられた陽光を浴びて
神さまがつくられたあなたは叫ぶ
「神なんかいない!」
そんなあなたを
神さまは抱きしめています
なぜなら
神さまは愛で出来ているからです
神さまの差し出すものは愛です。
なぜなら
神さまのご性質は愛だからです。
だから
神さまの差し出すものは
愛しか出てこないのです。

ほんとうの所有者からのメッセージ

目を覚ましていなさい
備えていなさい
わたしはすぐにでも帰ってくる
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いただきました、ご主人からのメッセージ

2017年1月7日土曜日

聖書が語る三つのビジョン

神のビジョン -聖書の語る三大ポイント-高原剛一郎
https://www.youtube.com/watch?v=ax7EF6zgKOw&t=1011s
ご注意)
以下の文面は作者の承諾を得ずに自分の学びのため勝手に書き起こしたものです。
本物はリンクをクリックすれば視聴することができます。
ぜひお勧めします。
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皆さんに紹介したい聖書というのは、神のあたまのなかにあるビジョンが描かれている本です。
この聖書の中には、神様のビジョンが書いてある。
どんなビジョンかというと、どんな人であっても新しく作ることができる。
人生にやり直しはある。
全部その罪をタダで許し、その人に無制限の祝福を注ぎ、永遠の命を与え、そして永遠の天国の永住権をタダで与えることができる。
・・というビジョンです。

ところが良すぎる話しって何か裏があるんじゃないか、警戒してかえって信じようとしないというのが多いんですよね。
今日は聖書が語る三つのビジョンを一緒に学びましょう。

新約聖書・テモテ第一の手紙2章5~6節より
2:5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

ここに三つのことが書いてあるのです。
1番目、神は唯一です。聖書で語る神、イスラエルの神は、人を創った作者、あなたの創り主、この宇宙の第一原因者、この世界の作者である方のことを聖書では創造主、God、神様とよんでいるのです。「人がつくった神」・「人を創った神」、(が)と(を)で全然違う。「人が作った神」は人を救うことができません。しかし「人をお創りになった作者」は作品が壊れた時に、修理することができるんじゃないですか?
あなたには作者がおられる。それが創造主なる神である。というのですが、この神様は目で見えないんですよね。この目で見えない神様をどうやって信じることができるんだろうか。
日本では進化論が繰り返し、繰り返し言われているんですよね。まぁ嘘でも百回聞いていたら本当かなと思ってしまう。日本で進化論が入ってきたのは130数年前です。明治維新の後で、この進化論を導入するんです。その当時アメリカでは、神がお創りになったということを教えており、進化論を教えることは禁じられていた。ヨーロッパでは神はこの世界をお創りになられたという考えと、この世界は偶然進化したのだとする進化論の両方を教えていて、どちらを採用するかは学んだ生徒に任されていた。フェアです、これは。ところが日本では、世界中で日本だけ、はじめっから進化論以外をいっさい教えることがなかったのです。進化論しか教えなかった理由は、明治時代の天皇は神であり、聖書でいうように天皇まで被造物であっては都合が悪いからです。130数年に渡って進化論の教育がなされてきました。それ以外聞いたことがないので、人は神が作ったと聞くと、信じられないのです。
でもね皆さん、進化論で説明のつかない自然のメカニズムってたくさんあるんですよ。そのうちの一つがハナバチラン(花蜂蘭)という植物です。この植物の花は雌の花蜂そっくりの花びらをしているのです。あまりにもそっくりなのでオスの花蜂がとまって交尾しようとしてモゾモゾするうちに受粉するのです。ふつうは気づくじゃないですか途中で、だけどもメスの花蜂そっくりのうぶ毛が生えているので、ますますこれは本物だと思うわけなんです。それでも最終的には偽物だと気づいてしまうわけなんですが、隣に花があるとまた騙されてしまう。懲りんやっちゃなー、なんでそうなるかというと、この植物はメスの花蜂がだすフェロモンそっくりの化学物質を放出しているのです。このフェロモンというのは異性を引きつけるホルモンですよ。ここで考えて欲しいのは、植物には視神経がないです。だから花蜂そっくりの形をしたら花蜂のオスがやってきて蜜を吸いにくるわ、おびき寄せられるわーというふうに考えようにも見る能力がないので真似ることができないのです。それから花は匂いを出すことはできますけども、そもそも匂いを嗅ぎ分けることはできないです。だからどんな匂いを出したら花蜂のオスをおびき寄せることができるのか判らない。自分ではどうしても花蜂のオスを引き寄せるようには出来ない。にもかかわらず、花蜂のオスを引き寄せるのにぴったりのデザインをしているのです。これを合理的に説明しようと思ったら、花蜂を知っていて、花蜂をどのように引きつけたらいいのか知っている神が花をデザインしたと考えるのが一番妥当だと思うのです。
進化論によれば植物が出来てから昆虫ができるまで3億年かかるといいます。3億年待ってたらね、枯れる。3億年も待たんかって3週間も待てば枯れるんじゃないですか。
この世界はトータルにデザインされているのです。トータルにデザインされているのならば、デザイナーがいると考えるのが妥当なんじゃないでしょうか。私たちの作者、自然界の作者がおられる、その作者のことを、聖書では創造主と語るのです。

第2番目のポイント、また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
神と人とをむすぶ仲介者、この方も唯一で、イエス・キリストであるというふうに語っているのです。
この仲介者というのは、つなぐ人という意味です。宇宙ステーションで半年もの永きに渡って分刻みのミッションをこなして、パニックにならずに済んでいるのは、自分をサポートしてくれる大勢の専門家集団とつながっていることを知っているからなのです。地上においても、何があっても自分を支え守ってくれる大きな力をどこにも持っていなかったら、その人は弱いと思います。じつはこの創造主という方は、作者であって、私たちを支えることができる、私たちに祝福を与え、智慧を与え、私たちにアドバイスし、私たちの人生を実りあるものにすることが出来るお方であるのですが、ところが人間というのは、この神様と切れているんです。「俺の人生がだ、神様なんか関係ないよ」。神なんかいないという人生観で生きているので、地球上にいながら、時に苦しくてたまらない、行き詰まってどうしようもない、というふうになるのではないでしょうか。創造主との関係が切れているということが大きな問題なのです。この切れた関係のことを聖書では「罪」だと語るのです。

第3番目のポイントです。
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
キリストが来られた目的、それは私たちの罪を償う為に、命を捨てる為にこの世界に送られた、旧約聖書に予言されていたメシヤ、救い主なのだということを語っているのです。
ところで、どんなに自分の思い通りに生きてきた人であっても、いよいよ命のともし火が消えようとする時に、全体重を預けることのできる誰かを求めるのではないでしょうか。もう自分で踏ん張ることが出来ない、もう自分で頑張ることはできないという時に、自分の全存在を下から支えて、背負って、保ってくれる人、自分の全てを委ねて、任せることが出来る、誰かを求めるのではないかと思うのです。皆さん、どうでしょうか、自分の全存在を任せることが出来る存在をお持ちでしょうか。
実は創造主の神様から離れた人間は、死に向かって進んでいます。そして人間は死んで終わりではありません。いちど死ぬことと、死後に永久に裁きを受けることが定まっていると聖書に書いてあります。この、死に向かっている人間を永久の滅びではなくて、永遠の命のほうに、私たちを導き入れる為に、どうしても神様の側でしなければならないことがあったのです。それは、私たちの罪を帳消しにするということです。罪を持ったまま、罪なき永遠の天国に行くことはできません。この罪をわたしの代わりに背負って、わたしの代わりに罪の罰をぜんぶ受ける為に、神はイエス・キリストという方を送ってくださいました、というのです。それが、「すべての人の贖いの代価」という言葉の意味なんです。キリストが、私たちの贖いの代価として身代わりとなって死んでくださった、その死んだ現場が十字架です。
あなたの為に死んでもいいという友人がいますか?
キリストはあなたの為に命を捨てる為に、わざわざ来てくださった方、そして命を捨てて三日目に死を突き破って、蘇って、復活してくださった方、このイエス・キリストを自分の救い主として信じるものは、誰一人として滅びることなく、永遠の命を持つことが出来ると、聖書は約束してくれるのです。ヤクザの親分は子分のために代わりに刑務所に行くことさえします。しかし神は自分に敵対する者にさえ、贖いの代価としてキリストを送ってくださっています。この方こそは本物の親分、本物の主です。
皆さん、身代わりの死、そして復活はそういう意味です。
ぜひ、このイエス・キリストをよくお考えになって、ここに真理があると思われたなら、この方を救い主として受け入れてください。

心からお薦めしたいと思います。

2017年1月4日水曜日

キリストを突き動かした神の愛  高原剛一郎


キリストを突き動かした神の愛  高原剛一郎

ご注意)
以下の文面は作者の承諾を得ずに、自分の学びのために勝手に書き起こしたものです。
そのつもりでお読みくだされば幸いです。
本物はリンクをクリックすれば視聴することができます。
ぜひお勧めします。
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人生の目的とは何だろう?
辛いことがあっても生きていかねばならない理由って何だろう?
どうして目的がわからないかと申しますと、人生をお与えになった神様を否定するからです。
料理の道具なんかもそうなんですが、何のために存在しているのか判らないものは、それを考案した人に聞いたらいいということなんです。
存在理由のわからないものは、作者に聞けばいい。
じゃあ、人間の存在理由を知りたいと思ったら、どうしたらいいのか。
人間をお創りになった作者に聞くのです。
私たちをお創りになった方、私たちが存在する第一原因者である方、あなたに命を与えた方、あなたに人生を与えた方がいらっしゃると聖書は語るのです。
天地・万物を創造した生けるまことの神様、創り主、この方が私たちのルーツです。

ニワトリが先か卵が先かという議論てあるじゃないですか、どうどう巡りの話しなんですけども、聖書の観点から見れば簡単なんです。ニワトリからなんです。神様はすべての鳥、すべての魚、すべての生き物・家畜をそれぞれ種類に従ってお創りになった。神がお創りになったというスタートラインを失うと、どんな問題もどうどう巡りになってしまうのです。
しかし聖書は繰り返し、あなたの魂の親がいるんですよ、私たちの創り主がおられるのですよと語るのです。

1テモテ1章15節より
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

ここではキリスト・イエスがこの世界の到来なさった理由について書かれてあるのですが、この「罪人(つみびと)」、聖書が言っている「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」、的外れという意味があるのです。暗記するなら。罪の深みにハマルティアと覚えるのはだめでしょうか。ちなみに悔い改めのことをメタノイアと言います。これを逆から読むと、アイノタメ。何でですねん! 悔い改めはアイノタメにあるのですよ。(会場から笑い)
的外れとは、本来あるべきことからはずれてる、神様なんかいないという考えて生きていることを聖書では「罪人(つみびと)」というのです。

創造主を離れて、人と比べて、劣等感持ったり、足をひっぱったり、自分自身を貶めたりしながら、命のルーツが切れることによって死に向かって着実に進んでいってるというのが人間です。そして人間にはいちど死ぬことと、死んで裁きを受けることが定まっていると聖書では語るのです。この人間を罪の究極の結末である地獄から救うためにキリスト・イエスは来られたというのです。

罪とはいったいなんでしょうか。創造主から離れることです。離れた結果、神未満のものを恐れおののくようになりましたが、生きている時のみならず、その人生の最後に大変な結末が待っているのです。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」
罪とは 神のひとり子である方が、この世に生まれてくださった。創造主であられるのに、赤ちゃんとしてお生まれになってくださった、というのですが、これはあなたがナメクジになるよりも屈辱的なことです。わたしたちがモノ言わぬ虫になることよりも、宇宙の創り主が人としてこの世に来られたというのは尋常ならざることであります。
神様は人格を持った方であります。人格を持った神に似せられて私たちもは創られました。「知・情・意」、人格を持った被造物の人間が罪に翻弄され裁きに飲み込まれようとしているのを見たときに、キリストは黙って見過ごすことは出来なかった。人だって、自分の身内に似たものが虐められているときに、まるで身内が虐められているように感じ、飛びかかって助けようとします。キリストが最も崇拝している神に似せられて創られてる人間が壊れていくのを、滅びていくのを、ダメになっていくのを、指をくわえて見過ごすことはお出来にならなかった。その動機を敢えていうなら、「愛」です。神は実にそのひとり子をお与えになるほどにあなたを愛してくださった。そしてこの方は天から地上に来てくださった。この方はお説教して帰ったんじゃない、全く罪のない生涯を送られたこのお方が十字架にかかって、本来人間が死後に受けるべき永遠の裁きを身代わりに引き受けてくださったのですよ。そして死んで墓に葬られ、三日目に死を突き破って蘇ってくださいました。いま生きておられる方、生きておられるので皆さんの心をぜんぶ読んでおられる方、その方が創り主イエス・キリストなのです。これは真実であり、歴史的な検証に十分耐えうるものなんです。死んで蘇ったキリストを信じた弟子たちは、この世の果てまでこの真実を伝えてくれました。

そのまま受け入れるに値するものです。
ハブに噛まれた時に使う抗毒血清、あれはハブの毒を薄めて馬に注射し半年がかりで出来た血清を成分分離して抽出して出来たものを人に使えるようにしたものなんです。しかしこれを使わずにただ見ているだけでは効き目がない。説明を聞いているだけでは自分を救うものにならないのです。死を打ち倒したキリストの福音は、説明を聞くだけではなくて、自分の救い主として受け入れる必要があるのです。
キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
いかがでしょうか、自分の救い主として、そのまま、額面どおり受け入れるということがとても大事になるのです。
しかし今まで見たこともないものを聞いただけで信じるのは、なかなか難しいことではあります。
キリストがこの世に来て、もたらして下さったもの、それは罪人を救う福音です。この福音をぜひ自分のものとなさって下さい。

キリストはまたお越しになりますけども、その時にはクリスチャンたちを一挙に引き上げるために来てくださるのです。どうぞその前にキリスト・イエスを信じて下さいますように、心からお勧めします。