2017年5月29日月曜日

気づいてしまいました。
きょう突然、聖書に書いてある神様のことを今までになく明確に感じました。
それはこんな風にです。
神様はアルファでありオメガである存在です。
つまり過去から現在、そして未来へと続く一方通行の一本道を歩む私たち人間とは、異なる時間概念の存在であるということ。
いま私たちが手にしている「聖書」とは、そのような神様からのメッセージ、プレゼント、ギフトであるということ。
この聖書の使い方では、はじめは創世記から順番に読むことを薦められます。ことのなりゆきを知るには、そのとおりなのですが。
しかし気づいてしまったのです。聖書は時空を飛び越え、未来を旅するツール、タイムマシンなのだと。あるいは過去にさえも・・・
未来に約束された福音、これこそが究極の救いなのです。
黙示録にあるように、携挙があり、生みの患難期があり、それから訪れるミレニアム期 ・・その次代には携挙されなかったが主を信じる人々もいれば、携挙後に滅びない体を着せられ、新しい名で主とともにいるわたしたちとが混在して住んでいる世界なのです。つまり古い肉体のままの人もいれば、新しい体の人もいるわけです。だから新しいミレニアム時代の幕開けでは、主を信じる人々ばかりで麗しく統治されてはいるのですが、ミレニアムの終わりになると、古い肉の身で交配し世代交代をしているうちに堕落するものが出てくるのです。なぜ神様はサタンを拘留してとっておいたかと言いますと、このような荒廃したミレニアム期の終わりに、最終的な裁きを行うためにサタンを解き放たれる為なのです。また、すべての死者も蘇り、最終弁明とその後の裁きが行われます。また、かれらを飲み込んでいた”死”と”ハデス”さえも最後は火の池に投げ込まれ、そのようにして、創世記のはじめにあるような現在の地球環境と現在の宇宙空間は、創り主の手によって消え去ります。
黙示録21:1 以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
その後すぐに神様は新しい天と新しい地とを、わたしたちにお与えになられます。そして、そこに住む私たちには苦しみや悲しみ、叫びなどはなく、ただ主とともにいる喜びの日々が待っています。新しい都エルサレムは信じられないほど美しく輝き、主の輝きのために日没もありません。また、この時代には神殿がありません。なぜなら、主が神殿そのものだからです。
主はすぐに来るとおっしゃいました。
未来に約束された福音、これこそが究極の救いなのです。
そのような目線から現在のわたしたちがどうあるべきなのか・・・
目覚めていなさい、わたしはすぐに来る。
そのように主が言われた意味がわかってきたように思えます。
究極の救いが得られた未来の世界からの視点で、いまの自分をみること・・・それこそが重要なのではないでしょうか。
ただ救ってください、救ってくださいと闇雲に主に祈っても仕方がない、そんな風にいまは思っています。
なぜいま、私たちは聖書を手にとり、福音を学んでいるのか、なぜ福音を述べ伝えよと主はおっしゃるのか、その意味がわかってきました。
なぜ受洗後にビジョンを見せていただき、馬小屋とともに白馬の子馬を私の内に置いていかれ、その際に「うまく育ててみてね、じゃあね」、と言われたのか・・・
また、荒れ果てた工場跡地に住む病人や生活困窮者の人々を救うビジョンを見せていただき、不思議なことに一人ではなく、一緒に歩いている人がいました。わたしたちのことを「私の友」と言われた方が一緒におられ、なぜこのような事をしなければならないのかと疑問を発したわたしに「右手を見てごらん、あなたはもう権利書を持っているのだから、しっかりしなさい」、と言われていたことを憶えています。
いまもその事を思い出しながら、日々を過ごしています。
福音宣教への道か・・・
主よ
年齢を重ねた罪深いわたしに、このようなビジョンを見せておらる主よ、
わたしのことをさえ、「友よ」と言われる主よ
あなたが一緒に歩まれるのなら・・・
罪は贖われ、拭い去られ、
しかも選ばれた・・・なんと光栄なことでしょう。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、
お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

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