2016年6月29日水曜日

神とともに歩む

ちいろば先生の「旧約一日一生」より

創世記5章24節
エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。

5節には「アダの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。」とある。
たとい九百三十歳まで生きたとしても、やはり彼は死んだのだ。死こそが私たちの終着駅、人生の行きつくところである、というのがこの言葉が発しているメッセージである。しかしエノクだけは三百六十五歳、他の9人のほとんど三分の一しか記されておらず、エノクだけは死んだとは記されていない。「神が彼を取られたので、いなくなった。」と記されている。

神とともに歩むことをひたすら求め、それを何よりも大事なこととする者は、あるいはその命が人の三分の一で終わるやもしれない。しかし「神が彼を取られ」るのであるから、彼は死ななない。かえって命を救うのである。エノクはまさにこの主のみ言葉の証人である。

祈ります。
主よ
わたしは「神とともに歩む」ということを安易に考えていました。そのわたしにエノクの記事はするどく迫ってくる言葉でした。
主よ
学びを感謝し、お祈りをお捧げ申します。
アーメン

2016年6月28日火曜日

この世は「物が先」

ちいろば先生の「旧約一日一生」より

創世記4章16節
カインは主の地を去って、
  エデンの東、ノドの地に住んだ。

「衣食足りて礼節を知る」、中国の「管子(かんし)」という書物に書かれてある言葉である。生活が豊かであれば、人は礼儀を知るものである、という意味である。
「物が先」という思想から出た言葉で、何よりもまず物質的に豊かになることが先で、幸福はそこにある、という考えである。現代人はこの考え方に深く影響されている。

「カインは主の地を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。」、「ノド」とは動揺またはあせりという意味である。カインは神を離れ住んだけれども、そこは彼にとって「ノド」=あせりであり、動揺であり、不安であったというのがこの言葉の宣言である。神を離れ、神を二の次にし、そんなことはどうでもよいとするような人間は、たとえ巨万の富を得たとしても、かえってその生活は不安なものである。

主イエスはこう言われました。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」 マタイ6章33節

創世記の筆者は「物が先」という世に向かい、その生き方の終焉を証しした。
私たちは今日の時代に向かって、「神が先」というメッセージを証ししていく使命が与えられているのである。

闇の度合いが深まるほど、光の存在が必要であり、貴重であることを自覚し、ともに世に向かって大胆な「詩人」として生きていきましょう。

ハレルヤ!
榎本保郎先生
信じてついて生きます。
主よ
本日も深い学びを感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年6月27日月曜日

マナ 天の配材

ちいろば先生の「新約一日一生」より

マタイ2章3節
ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。

イエス様がヘロデ王の時代に生まれたことは、実に象徴的である。
私たちの時代でも万事裏目に出たりして、生きにくい。
そこにイエス様が、お生まれになった。私たちとは無関係ではない。私たちが涙を流し、苦労し、絶望する中に生まれたのである。そこにイエス様の誕生の意味がある。

ヨセフも、平凡で幸せな生活がしたかった、でも婚約者のマリアのお腹が大きくなれば、心境いかばかりだろうか。不安どころか怒りが湧いてこないだろうか。「おらの嫁を孕ませやがったのはどこのどいつだ!」なんて。天使から聖霊によって身ごもったと言われても心は痛んだがマリアを迎え入れた。これはヨセフの起きな愛情である。そしてやっと子供が生まれると、博士たちがやってきて、やれ捧げものだ、星が光った、はたまたエジプトへ逃げなさいなどど、煩わしい問題ばかりである。麗しいハネムーン旅行どころではなかったのである。平凡ながら幸せな生活をヨセフも望んでいたに違いないのです。

ここでの主役は誰ですか? ヨセフですか? マリアですか? ヘロデですか?
主役はイエスであり、神であります。

ヨセフ自身は喜ばしいことも、楽しいこともなかったです。天使がやってきてエジプトへ行けと言われ、知人もいない外国へ、産後間もないマリアと乳飲み子イエスを連れて、不安も大きい!

イエス様を迎えるということは、このように、ひとつの不安を迎え入れることだと思います。
信仰とは、主イエスを迎え入れ受け入れ、自分は僕(しもべ)になるということ。神の御心を優先させること。
そこに不安が生じてきます。
不安に対処するには、ふた通りの方法があります。ヘロデ王みたいに、自分に不安を抱かせる対象を抹殺すること。二つ目はヨセフのように不安の中に生きることであります。
みなさん、どうでしょうか。この世の常識、道理、世間並みの生活で生きてさえいれば、そこに不安なんかないですよね。楽しいばっかり。でも神様を信じて行動すると不安が起きてきます。聖書にはいいこと書いてあるね、でも私には無理! なんてことになっていきます。
13節には「あなたに知らせるまで、そこに止まっていなさい」と書いてあります。行ってみて、よかったら居てもいいよ、とかじゃないんです。神様の命令は、「そこに居なさい」、STAY THERE.です。反論の余地なしです。なかなか従えないです。
しかしヨセフはエジプトへ行きました。神を自分の主とする僕(しもべ)の生き方であります。自分の最上のものを捧げて、主を仰いだのであります。

実は博士たちから送られた黄金、乳香、没薬などは、ヨセフたちがエジプトへ渡った渡航費や生活費になったいう説がありまして、このように神様は、エジプトへ逃げなさいと命令をされるだけでなく、命令を実行するにあたって、さしあたり必要な準備を整えてくださるお方でもあることを覚えていてください。
御言葉にしたがって生きていくとき、神は天の配材をもって私たちを守ってくださいます。
だから、もっと大胆に神の言葉に従って生きていいんです。私たちは地上のことしか判らないから不安ですが、マナは天から降ってくるのであります。私たちが心配する必要はない、神が心配してくださっています。
そして、博士たちが捧げたもの、ヨセフが捧げたもの、これらひとつひとつが、キリスト・イエスを守り、主がこの世においてわざをなしていくために用いられて行ったのであります。

私たちも、いま感謝すべきことは、すでに神に選ばれ用いられているということであります。
そこにこそ生きがいがあると思います。

祈ります!
天の父さま
マナとは食べ物だけとは限らず、天の配材のことであることがわかりました。御言葉に従って生きようとするとき、いろんな、この世的な葛藤や不安が心をよぎります。しかし主よ、あなたは命令をくださるだけでなく、その命令を実行するにあたり必要なものもすべて用意してくださいます。私たちは信じて行動するだけでいいんだということを学びました。
ありがとうございます。
尊き主、キリスト・イエスの御名によってお祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

神の民の系図

ちいろば先生の「新約一日一生」より

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図
マタイ1−1

マタイの福音書は、ユダヤ人に対して、イエスはキリストであることを宣べ伝えるために書かれました。ユダヤ人は系図を非常に重んじた民でした。

もしキリスト・イエスがいてくださらなかったら、無名のとるに足らない者であった私たちが、今日神の民として神の国の名簿に名を記され、神のご計画の中に一つの立場を与えられました。
私たちもこの系図の中に入るということです。
これが聖書の中で系図が長々と書かれていることの意味とメッセージです。

主よ
私たちも神の民としての名が天に記されていることの喜びを感謝します。
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

「光あれ」

榎本保郎先生 「旧約一日一章」より

神は「光あれ」と言われた。
 すると光があった。 (創世記1章3節)

わたしの愛唱聖句の一つ。
心が暗くなり、どうしようも亡くなったとき、よくこの聖句を口ずさむ。
そうすると、もう一度神を仰ぎ、主にある平安と希望がわがうちに湧いてくるのを覚える。

私たちは、この世に生きているがゆえに、この世の支配を受けやすい。
ガリラヤ湖での嵐で不安におののく弟子たちと、安心仕切って寝ている主イエスとの対比。
弟子たちは波に支配され風に支配されていた。主イエスは海に向かって「静まれ、黙れ」と語ることのできる権威ある神の言葉に支配されていた。
私たち信仰者は、この世にあってこの世に属するものではない。肉にあるものでありながら、肉に従って生きるものではない。神の力、神の恵みによって生きる者なのである。

自分の周りがどんなに暗くとも、神を信じる者は失望しない。いっさいが神の力の支配の中にあることを信じているから。

どんなときにも神が、「光あれ」と言われるとき、光があるのである。
このことを信じるならば、すでに我われ信仰者は勝利しているのである。

2016年6月3日金曜日

信じるということ

ガラテヤ書3章1-14節 「信仰による御霊」
長年教会に通いながら、表向きは信仰者のように振る舞い、実生活では神から離れてしまっている、そんな方々を見てパウロ兄も悲しみを持って見ていましたが、諦めもしませんでした。私たちの教会でも、急に来なくなった方がおられますが、主に在りて祈って参りましょう。

神は、あなたを素晴らしいと言ってすでに祝福されているのに、それを信じていないから祝福されないのであって、自分ができていないから祝福されないのではありません。
「私は、これこれをしなければ、クリスチャンの祝福にあずかれないのではないか?」と考えることは間違っているということです。自分が十分に罪深い、至らない、この状態ではやっていけないと思っていて、「ある程度、しっかりとしてから、また教会に来れるようにしよう。」と考えているのであれば、そうではない、ということです。それでは、御霊による祝福は受けることはできないのです。

そうではなく、自分の心をそのまま神の前に持っていき、ありのままの自分を神に見ていただき、そのままのあなたで神のところに行くべきです。問題は、きちんとできてないということではなく、きちんと素直になれていない、ということなのです。

問題は、自分の行ないがきちんとできていないのではなく、悔い改めて信じていないということなのです。ユダヤ主義者のように、「何かをして、それから信じる。」のではなく、「そのまま信じて、それから主が何とかしてくださる。」、これが信じるということなのです。

お金を貯めたから安心して信仰生活ができるとか、借金をしているから、まずそれを返してからでないと教会にこれないとか、そういうことではないということです。彼らは、偶像崇拝の対象が「お金」になっています。具像崇拝はいろんな形をとります。あなたにとって家族が一番大事で命よりも大切なのだとしたら、家族愛が崇拝対象になっています。言っていることが変ですか? おかしいですか? 家族愛が当たり前ですか?
家族を捨てよと、聖書で言っているのではありません。まずキリストを求めよ、と書いてあります。神様はあなたが必要なことはすでに知っておられますから、あとは主が何とかしてくださるということです。教会でも、ああしてください、こうしてください、と要求ばかり主に祈りを捧げていませんか? そんなのは聞き飽きたと聖書に書かれていませんでしたか?  私はそんなことは主がしてくださることを知っていますから、主を賛美し、神の栄光を喜び、主が何を言われているのかを、膝もとで聞いていたいのです。ベタニアのマリアのように。

素直に信じ、身を任せる。
この単純な真理を頭では理解していても、お母さんの胎内にいる赤ちゃんのように、神様に全てをお任せしているでしょうか?
イエス様は言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
(マルコ10章15節)
聖書に書いてあることを遠いどこかの国の物語のように流し読みしていませんか? 聖書に書かれてあるのは、神様の真実の御言葉なので、力を伴っています。信じているものには、その力が及びます。

主に在りて
アーメン

ネタばれ注意! 映画「復活」の感想

ネタばれ注意の記事です。
映画「復活」を見てきました。
映画「パッション」では、ゲッセマネの祈りから始まり血まみれのイエス様が印象的でしたね。
この映画は冒頭から目が離せません。バラバが捕らえられ、いきなりイエス様の磔刑のシーンから始まります。
イエス様が「完了した」と仰られた直後から物語は始まります。ローマの提督に忠実な100人隊長のクラヴィアスの体験を中心に物語は進行します。この100人隊長は熱心な信者を殺しまくっていた人です。だが部下から「このナザレ人は真実な人です。」と言われ膝折りをためらい、槍さしを部下に命じます。そして主が墓に葬られ石で封印するも、ユダヤ人祭司たちが復活を予言されていると恐れるので、提督の指示のもと3日間寝ずの番をつけます。ところが3日目の夜が明けてみると、番人たちはぶどう酒で寝込み、厳重に縛っていた石の扉は吹っ飛び、その石を縛って封印していたロープは強靭な力で引きちぎられていました。(聖書を読むと御使いが遣わされて来ています。御使い1人いれば1国が吹っ飛びます。ましてや石の扉など造作もなかったでしょう。)
提督は100人隊長に死体探しと弟子たちの追跡を命じます。しかし弟子たちを追跡しているうちに、いつの間にか弟子たちの魅力に引き込まれ仲間になりローマ軍の追跡をかわす手伝いをしてしまいます。しかし逃亡の途中でついにローマ兵に見つかってしまいますが、隊長クラヴィアスは「彼らが世界を変えるのだ。見逃せ。」と、かつての部下に命じ、彼を去らせます。そして、約束の地「ガリラヤ湖畔」でとうとう復活の主に合うのです。(感動)
そして弟子たちとともに隊長クラヴィアスも主の奇跡の御わざを目のあたりにします。
イエス様が去られる前の晩、ひと夜を弟子たちと同じように隊長クラヴィアスも主ととも過ごします。イエス様から「きみの望みはなんだい?」と尋ねられ、「永遠の生命を得たかったんだね」と言い当てられ驚くも、願いが主によって成就した喜びと平安のうちに朝を迎えます。
主がいないと叫ぶ弟子たち。主を探し求めると、輝きを増した主が遠くに立っておられ、「君たちの居場所を作りに行くんだよ」と言われ、見えなくなられます。
主は言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
このように主からの大宣教命令を受け、弟子たちが伝道のために散っていくシーンで、自分にもこの命令が送られたように感じ、涙が溢れてしまいました。主とともにいたい・・・
隊長クラヴィアスは「一緒に行こう」とパウロに誘われますが、一緒に行きせんでした。行けなかったのでしょう。しかし一度家に戻り隊長の印を置くと、彼はひとり旅に出ます。ここで映画は終わります。
もしかしたら、ひとり身になって、弟子たちの後を追ったのかもしれませんね。だって、主を十字架にかけた側の人間であるにも関わらず、復活した主に告白し、主に直接祝福を受けたのですから。
隊長クラヴィアスの目を通して、あなたも歴史の生き証人となれる映画です。
オススメですよ。