2016年12月29日木曜日

新たな装いで主にぬかずく

ちいろば先生「旧約一日一章」より

あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。
(創世記35章2節)

ヤコブはシケムの地に祭壇をたてて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名付け、イスラエルの神こそ神であることを告白した。しかしこの地で彼は思わぬ事件に出くわし、追われる身となった。これが娘ディナにまつわる忌まわしい事件である。
ヤコブは神の声を聞く。神はベテルに上り、そこに祭壇を築けとヤコブに言われた。思えば金100を持って買い取った土地と祭壇がシケムに地にあった。ベテルに上るということは、これらのものを捨てることを意味している。

自分を過去の行跡から断ち切ることはいかに難しいことであろうか。私たちは神のみ旨を知りつつも、なおそこにとどまってしまうことが多い。なかなか一度手にしたものを捨て去ることなどできないものである。

しかし神に出会うためにはベテルに上る必要がある。そこに神の家があるからである。
ヤコブは家族たちに言う。「あなたがたのうちにある異なる神々を捨て、身を清めて着物を着替えなさい。われわれは立ってベテルに上り、神に祭壇を造ろう。」
この言葉にヤコブの信仰心を見ることができる。これまでの長い歩みで身につけた神々を捨て去り、まったくむなしいものとなって、神に出会おうと決心したのである。ここでいう異なる神々とは、心を奪われているものをさす、例えば、お金や土地、家族、これがないと生きていけないと思い込んでいるものをいう。

主の許しによって、どんなに過去から自由になったとしても、古いままでは神と交わることはできない。内にある異なる神々、すなわち自己中心の思い、お金や地位や名誉、身分など、これがないと生きていけないと思うものを捨て去り、身を清め、着物を着替えて、新たな装いで主にぬかずく。
主の下僕(しもべ)がとるべきことが書かれてあった。

願わくば
わたくしにも主の名を崇めさせてください。
天に主の名が轟きわたっているように、
この地にも主の名がおよびますように。
私をお使いください。
主の御名によって、お祈りをお捧げいたします。
アーメン

2016年10月20日木曜日

主を賛美しよう

主よ 主よと
主を求めますが・・・
病気を治してください
癒してください
大学に合格させてください
結婚させてください
とか
主の恵みと平安を
とか
祈り求めますが・・・

もっともっと
ほんとは大変重要なことがあるのです。

主を信じ
祝福を受けたのですから
主が良くしてくださるのは当然です
もうすでに恵みを送ってくださっています

だから
それを終生追い求めるのは
やめにして
もっとするべきことをしましょう

イエス様のことをもっと深く
知る必要があります。
イエス様って、どんな人かな・・・
そんな気持ちで聖書を読んでみましょう
そして
イエス様のことがわかったら
その次は・・・

イエス様に身をまかせてみましょう
イエス様だったら、どう行動する?
イエス様だったら、どう考える?
イエス様だったら、どう答える?

イエス様を着る・・・と言えばわかりやすいかな

自分を高くするでなく
自分を低くするでなく
何をやったかではなく
行いによるのではなく

主を賛美しましょう
主の御国を褒め称えましょう
主に従い
主のなさることを自分もする
主がなさらないことは自分もしない

ただそれだけ
シンプルな生き方なんです
クリスチャンて

2016年10月13日木曜日

慎み深く、かつ大胆に

ちいろば先生「旧約一日一章」より

デナはその地の女たちに会おうと出かけて行った。
(創世記34章1節)

私たちの生活は人間という言葉が示すように、人との交わりなくしては成り立たない。
しかしレカブ人たちはカナンの地に住みながら、信仰の純粋性を守る為に、異教のカナン人との交わりを絶ち、荒野をさまよう生活をしていた。彼らはカナンの地を神から与えられたものとして受け取るべきであったのに、世から逃れることだけを考え、世につかわされていることに気がつかなかった。それゆえに彼らは滅んでしまった。

私たちもこのレカブ人のようになりやすい。信仰の純粋さを守ることばかりに気を取られ、神からこの世につかわされた者であることを軽視する。神の子が僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられて世に生まれ、罪人と交わりを持たれたように、私たちも積極的に世に出て行く者でなければならない。

しかしデナは神につかわされないのに、「その地の女たちに会おうと出かけていった」のである。彼女は、エレミヤが偽預言者について語ったように出かけていき、その結果、世のとりことなり、自分も相手も、そして自分の兄弟たちをも罪におとしいれたのである。

主のとりなしの祈り「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守ってくださることであります」(ヨハネ17章15節)

私たちも、このように慎み深く、かつ大胆に世に生きる者となりましょう。

(中山感想)
高みばかり求めていると、兄弟姉妹の欠点ばかりが目についてしまいます。
そうではなく、むしろ彼らに使える僕(しもべ)の態度をとりましょう。
イエス様は、弟子たちの足を洗われましたよ。



2016年9月4日日曜日

大切なことは「静まってあなたこそ神である」と主に向かって告白すること

ちいろば先生「旧約一日一章」より

そこに祭壇を建てて、これを
エル・エロヘ・イスラエルと名づけた。
(創世記33章20節)

 ヤコブはエサウが四百人を率いてくるのを見たとき、非常な恐れを感じた。一方で単純素朴な兄エサウは弟ヤコブを認めるや、走り迎え、彼を抱き、泣いて喜んだ。

 ヤコブの心は穏やかでなかったのだが、これは兄エサウを騙したこともあるが、それ以上に、「お前の国へ帰り、お前の親族に行け、私はお前を恵もう」と言われた主の約束の言葉を忘れたところにあった。

 しかしその後、ヤコブはシケムで祭壇を建てて、これをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。イスラエルの神は神であるという意味である。彼はここで祝福の神を思い出し、もう一度その神の前に立ったのである。

 大切なことは、いつでも「静まってあなたこそ神である」と主に向かって告白することである。

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(中山感想)

 ヤコブも狡猾で酷い男であるが、次の34章を読むと分かるように、彼の子孫も酷い。娘が陵辱されたということで相手の部族の男たちを皆殺しにするような奴らである。なんでこんな酷い奴らが聖書に載っているのだろうか。しかし神様はご自分の栄光をお示しになるために、こんな酷い奴らでもお用いになられるのである。いや、酷くてどうしようもない奴らだからこそ、主の栄光はますます光を増すのである。

主の学びを感謝します。
アーメン


2016年8月26日金曜日

主に捧げるための贄

とうとう、イスラム国の攻撃目標が、具体的に「クリスチャン」になってしまった。
いや・・・むしろ、だからこそ主に捧げる贄としての意味を持つのではなかろうか。

神は悪をも使われて、私を試されます。
生きやすい道と、狭く険しい道・・・
私には、わたし自身が主に捧げるための贄であったと証しする時が来るのでしょう、きっと。
それとも使徒ペテロのときがそうであったように、キリストを知らないとでも言い張るというのでしょうか。
しかし、そうやって生きのびることに意味などありません。
そもそも主からいただいた命なれば。
そもそも罪にまみれて死んでいた命です。
惜しくはありません。

(ルカによる福音書22章61〜62節)
61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
62 そして外へ出て、激しく泣いた。

イスラム国のプロパガンダ誌「ダビク」第15号は、「十字架をへし折る(Break the Cross)」という題名。そう、彼らの攻撃目標が、具体的に「クリスチャン」になっています。
この号におけるイスラム国の掲げた目標:
1.イスラム国の指導者が、終末をもたらす。
2.「十字架をへし折る」つまり、中東、西側諸国、世界中のキリスト者を虐殺し、地上からキリスト教を抹殺する。
3.キリスト者を憎む理由を六つ掲げ、究極の目標を述べ、全勝利を到達するまでキリスト者を殺害することを止めない理由を説明。
だそうです。
ダビクの中に、日本を標的にすることは以前、発表しました。そして今、キリスト者を標的にすることを、彼らの終末思想、彼らのイスラム教信仰によって明白に表明しています。

2016年8月23日火曜日

古い自分からの解放

ちいろば先生「旧約一日一章」より

あなたはもはや名をヤコブと言わず、
イスラエルと言いなさい。
(創世記32章28節)

イスラエルとは「神勝ちたもう」という意味だそうだ。ヤコブとは「押しのける」という意味だそうで、確かにヤコブは兄を押しのけ、叔父を押しのけた狡猾な人物であった。彼は自分のためにすべてを押しのけ、今や多くの富を得ることができた。しかし今や彼は故郷を前にし、兄との再会をひかえて「大いに恐れ、苦しみ」、不安におののいていたのである。

 ヤコブは、この不安の中でヤボクの渡しをわたり、一人の人と組打ちをした。その組打ちは夜明けまで続き、ヤコブの腿(もも)を強打された際に関節が外され、彼は歩行困難になってしまった。それでも彼は相手が帰るというのに「私を祝福して下さらなければ、帰しません」と言い、しがみついて離れなかった。闘いの相手の人は、ヤコブに名を尋ね、これからは「あなたの名はイスラエルです。あなたが神と人に力を競って勝ったからです」と言われた。


 ヤコブは押しのける者から、イスラエルすなわち神勝ちたもう、神にうち勝てる者への転換を果たした。古い自分から解放され、神にある人生に新しくされたのである。

 主イエスはゲッセマネで「わが父よ、もしできることでしたら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈った(マタイ26章39節)。そのときイエスは苦しみもだえて「その汗が血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22章44節)。また「そのとき、み使いが天からあらわれてイエスを力づけた」(ルカ22章43節)と記されている。神の子が神に勝たれるにさえこれほどの苦しみと助けが必要であったのである。

 信仰生活とは、神に勝たれる人生を送ることである。常に神のみこころが優先される生活である。いっさいが神にゆだねられることである。そのとき、私たちは神を仰ぎ見て「力あるかたが、わたしに大きなことをしてくださった」と神をあがめることができるのである。

 あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさいと、主はきょうも私たちに語りかけておられるようである。

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(中山の感想)
ヤコブが闘っていた相手はおそらく、み使いである。主はヤコブがどれほどの思いで行動しているのかを試された。そしてヤコブは肉の闘いから解放され、神とともに歩む人生を選択することができた。イエス様でさえ、これから肉の身におきる死の十字架の苦しみから逃れるために、ゲッセマネにおいてみ父に祈り、血の汗を流し、天使が勇気づけてくれ、やっと自分の運命を克服されたのである。わたしも、日頃の暮らしむきの自慢、つまり仕事や家庭や財産、地位、名誉、ほまれなどを自分と思い込んでいることから離れ、ただ主の道備えに従い生かされていることに感謝する自分でありたい。

主よ
あなたが道をお示しになってください。
わたしは僕(しもべ)ですから、すなおに従います。
いま生かされていることに感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2016年8月20日土曜日

神の語りかけに従順であるということ

ちいろば先生「旧約一日1章」より

主はヤコブに言われた、「あなたの先祖の国へ帰り、親族のもとに行きなさい」
(創世記31章3節)

 アブラハムには行きなさいと命じられ、ヤコブには帰りなさいと語られた。神はいつも、その人に向かって語られるかたなのである。また、ガリラヤの漁夫シモンに「ついてきなさい」と言われた主が、お共をしたいと願い出たゲネサレの人に向かって「あなたの家族のもとに帰って・・・」(マルコ5章19節)と命じられたのと同様である。

 信仰とは家を出ることでもなければ、家に帰ることでもない。主の語りかけに従うことである。

 「忙しくて礼拝に出ることもできない」と嘆く人がいる。礼拝に出ることを慕い求めることは尊い。しかし、今おかれている場所において神の語りかけを聞き逃すことは愚かな行為である。神はどんな境遇の人にも使命を与え、その人に語りかけてくださる。それを聞き分け、み言葉に聴き従い生きること、それが信仰である。

 ヤコブはずるい男である。しかし彼は神の語りかけを聞いたとき、決然とそれに従ったのである。大事なことは神の語りかけに従順であるということ。

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(中山の回想)
そういえば、ここ半年の動きがめまぐるしい。とくに大きな問題もなく勤務していた病院をとつぜん辞めて老健施設で働きだしたかと思えば、今度はとつぜんそこを辞めさせられたりして、もう看護師はこりごりだと思ってまったく異業種の工場勤務をやり始めたら、また主からの語りかけがあり、それに応じて精神看護に戻る道を探し始め、いまは新築の病院で素晴らしいスタッフに恵まれ、患者さんにも頼りにされる仕事に就いている。ここに主の道備えを感じないわけにはいかない。すなおに主に感謝し、わが使命を全うするのみである。はてさて主からの次なる命令は、とどまれなのか、旅立ちなさいなのか、わたし・僕(しもべ)は命令に従うのみである。ここ最近のわたしの行動を追っている兄弟姉妹や牧師にも、私が仕事を辞めると言ったり、戻ると言ったりして、ご心配をかけてしまった。私は気違いでもなければ、気分屋でもない。ただ主に聞き従っているだけである。

主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン