2017年6月19日月曜日

山上の垂訓

新約聖書・マタイの福音書5章より

モーセの律法とは何かを
メシヤが語っているのが
山上の垂訓

これを行ったから
救われるというものではない
ということ

2017年6月13日火曜日

アブラハム、サラを差し出すこと2度め

聖書通読の学び 月刊誌「クレイ」参照
創世記20:1〜2
アブラハムはゲラルに滞在中、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。
「あなたは、なんということをしてくれたのか」、と言われたのは、これで2度め。
・・・これは創世記12章でネゲブ地方に大飢饉が訪れたときエジプトでアブラムが犯した過ちと同じことをまたやってる。
殺されまいとする臆病で哀れな老人、そんな表現がよく似合う。
・・驚嘆すべきことに、創世記12章でのアブラムは75歳でじゅうぶん老人のはず、妻サラも70歳くらいじゃなかろうか。それなのにエジプトの人々が目を奪われるほどの麗しい美女だったようだ。
創世記18章でサラが妊娠すると主に言われてサラは笑ったが、このときもすでに更年期を過ぎていた。
しかし創世記20章ではまたしてもアブラハムは、ゲラルの王アビメレクに、サラは妹だと偽り、王にサラを差し出している。
90歳くらいの老女であるはずのサラを、ようやると驚嘆すべきところですよ、ここは!
まだまだ女性としての魅力を保っていたということなんでしょうね。翌年にはイサク(笑う)ちゃんを産んだわけだしね!
信仰の人アブラハム、95歳にして、ようやるわー。
えげつなー、妻サラを「妹」と偽り権力者に差し出すこと2回、それでも主に愛されているのよね、アブラハム。
そうであれば、なおさらのこと、わたしもあなたも、主に愛されているんですよぉ。
ー クレイより ー
アブラハムの失態により、イサクの誕生が危うくなった。
もし神の介入がなかったなら、ユダヤ民族の誕生は歴史上なかったことになる。そしてメシア誕生も実現しなかったことになる。
この事件は、アブラハム契約が無条件契約であることを私たちに教えている。
アブラハム契約は、人間の失敗や罪によって破棄されるものではない。
次回学ぶが、この事件は神の介入によって解決へと向かう。
ほめたたえるべきは、神の御名だけである。
私たちの救いもまた、すべて神の守りによって完成する。「あなたがたは、
信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」(1 ペテ1:5)。
試練の中を通過している人は、天に蓄たくわえられている素晴らしい資産と霊的祝福を思い、そこから力をいただこうではないか。
私たちの救いは、神の確かさによって保証されているのである。
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主の御名によって信じ、感謝します。
アーメン

2017年6月12日月曜日

聖書通読の学び 月刊誌「クレイ」参照


創世記19:30 ~ 38
天使によってようやく逃げ延びたロトは、ツォアルという町に住むのを恐れ、ふたりの娘たちと一緒に山に住んだ。
しかし、ふたりの娘たちは父親を相手に子を宿す。近親相姦である。
彼女たちの子孫がアモン人とモアブ人になり、忌み嫌われる民となる。

ネヘミヤ13:1
モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人モアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。

これは申命記23章のことである。名指しで書かれてある。

ロトとその娘たちを通して、滅びたはずのソドムが、モアブ人とアモン人という形で再生することになる。モアブとは「父から」という意味、アモンとは「私の民の子」という意味らしい。

ロトは、最初は、財産と使用人と家族に恵まれた遊牧民であった。
ところが、最後は、財産を失くし、ほら穴に娘2 人と住むようになった。
さらに、子孫であるモアブ人とアモン人は、後に、イスラエルの民に対して姦と偶の罪を犯させるようになる(民数記25 章のバアル・ペオルの事件、レビ記18:21 のモレク礼拝の禁止、など参照)。

ロトの人生が狂い始めたのは、創世記13 章にあるように、ヨルダンの低地にある、まるでエデンの園のように麗しい土地を居留地とした。滅ぼされる前のソドムとゴモラの町はそこにあった。ロトは、霊的祝福よりも、物質的祝福を重視したのである。

しかし、新約聖書ではロトのことを「義人」として評価している(2 ペテ2:6 〜9)。
ロトはソドムに住みながらも、心を痛めていたからである。

このように義人と言われたロトでさえも、誤った選択や彼の優柔不断な性格によって神の祝福からもれていったとするなら、私たちはなおさら知恵ある選択をしなければならないようだ。

ロトの弱点から、どのような教訓を学ぶことができるか・・・黙想する。
わたしは、ロト以上の酷い罪人です。
そのようなわたしですので、主との交わりに加わるとなど到底叶わぬことであります。
しかし、それにも関わらず、日々の一瞬でさえも死なずに、豊かに生かされていることができています。
これは、わたしが酷い罪人であることとは全く無関係に、一方的な神様の恵みによるものです。

天の父なる神様
わたしはひどい罪人であるにも関わらず
きょうも生かされていることを
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン





2017年6月7日水曜日

離婚は罪なの? 再婚はできないの?

きょうはズバリ、
離婚と再婚問題にチャレンジします。

あぁ、律法を守れない! 好きな人ができた、愛する人ができた、結婚したい。
いちど離婚してるけど、再婚は罪だ! クリスチャンとしては失格だ、もう教会にも行けない、汚れた。
・・などとお嘆きの方がおられたら、ローマ書8章を読んでほしいです。救われますよ。

ローマ人への手紙7章15節
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

使途パウロがいいたいのは、律法に「・・してはいけない」、と書かれてあると、それをやってしまう、というのです。
わたし、日本人ですが、この感覚はわかりづらい。してはいけないと書かれてあるなら、それを守ろうとします。ユダヤ人は、してはいけないと言われると、やりたくなるそうです。

ローマ書7章には結婚と浮気の事が書かれてあります。これを字義どおりにとらえると、奥さんが死亡でもしない限り、わたしの再婚は許されないということになります。
現実にそう理解しているクリスチャンは多いように思います。
離婚・再婚問題で苦しみぬいて、失格クリスチャンだらけになってしまいそうです。
わたしもその一人です。
そうとう苦しみました。ローマ書7章クリスチャンでしたよ。

しかしそれでも私は救われた、と宣言することができます。
「救われた」とは、いったい何から救われたのでしょう・・
それは神の怒りから救われているということです。

信仰義人(しんこうぎにん)・・・
クリスチャンである私はキリストとともに死んだので、律法はもう私に対して要求することはなくなりました。信仰によって義とされるとは例えば、わたしの働きや努力とは関係なく、まったく罪のないキリストの完全無欠の行いや思いがすべて、わたしが行ってきたことになっています。
いやー、そんなムシのいい話しがあるわけがない、そう思われますよね。
あるんです、神様からのギフトなんです。
無償のギフトは存在するのです。
まったくの話し、受け取るか、受け取らないかの差なんです。
キリストの名によって義とされるとは・・・そういうことです。

私はキリストとともに死んだ・・・
ちょっとまって! まだ実際に死亡したのではないです(笑)
そうではなくて、過去の自分とは決別したと、言い換えてもいい。
これは死んでこの世とオサラバしたのと同じくらい決定的であるということです。
あと戻りは、ない! ということ。

ここでローマ書7章に書いてある結婚の話しに戻します。
ダンナが死なない限り、再婚は出来ない、と律法に書かれてあったでしょうか・・
あれ? 少し違う見方ができるようですね。
そうなんです、別れた奥さんが死ぬ必要はなくなりました。
離婚したら、後を振り返らない。
奥さんが死んだのと同じくらい、絶対的にあとを振り返らない。
死人を憎んだって、しようがないのです。
感謝して赦しましょう。
離婚後たまたま再会しても、あとを振り返らない・・・

ローマ書7章3節
もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
はい、もうおわかりですね。
救われました・・・

主の御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン