2018年11月19日月曜日

愛がなければ

聖書の学びをしていましたー。
使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙の一部からのものです。
それを読んで・・
1)例え、どんなに立派になろうが、どんなに知識を持とうが、愛が廃れてしまっては、なんにもならない、という学びをしました。
2)そしてどうやら、さらに素晴らしいものを神様が用意してくださっているようなのです。楽しみですね。

コリント人への手紙 第一 13章
13-1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13-2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13-3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13-4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13-5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13-6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13-7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13-8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13-9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13-10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
13-11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13-12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。


13-13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。




2018年6月19日火曜日

アフリカの若き殉教者の言葉


私は誇り高き交わりに加わっている。
さいは投げられた。
もう後へは引けない。
私は一歩踏み出したのだ。
心は決まった。
私はイエス・キリストの弟子になるのだ。 
私はもう振り向かない。
力を抜かない。
歩みを遅くしない。
後へ引かない。
じっと立ち止まることもしない。
私の過去は贖われた。
私の現在には意味があり、私の未来は保障されている。 
程度の低い妥協的な生き方はもうやめた。
見えるものに頼る生き方、
すべすべのひざ、
色あせた夢、
鎖のついたビジョン、
この世的な話、
安っぽい施し、
歪められたゴール 
私の目は向くべきところに向いている。
私の足取りは軽い。
ゴールは天国にある。
道は狭く、険しい。
同行者は少なくとも、案内人は信頼できる。
私の成すべき仕事は明らかである。
私はあきらめない。
黙らない。
力を抜かない。
イエスのために生き続ける。
祈り尽くす。
犠牲を払い切るまでは。
私は行かなければならない、
主が来られるまで。
ささげなければならない、
倒れるまで。
伝えなければならない、
すべての人が知るまで。
働かなければならない、
主が私を止められるまで。
そして、主が来られるとき、
私を探し出すのに苦労はしないだろう。
私の旗印は明らかだから。

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主よ
私を強くしてください
あなたがそうしてください
キリスト・イエスの御名によって。お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン


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2018年6月18日月曜日

地上の能力が衰えていくとき・・・・


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さて本日は、地上の能力が衰えていくとき・・、というテーマでお話しをしてみようと思います。

みなさんは、どんなお仕事で生計を立てていらっしゃるでしょうか。
ワタクシは高収入を得ていたプログラマーでした。
そして、それが突然出来なくなったことを思い出しながら、主が召命なさったことを語り、主に捧げる賛美とさせていただきます。
アーメン


イエス様が生きておられたとき、漁師の若者に「人間を漁る漁師になれ」とお誘いになられました。

でも、栄光の体で今も生きておられ、神の右の座におられ、それで地上の弟子を増やすとしたら・・・
現代の人間を天から眺めて、イエス様はどのようにして、お声がけをされるだろうか・・・

そのことに想像をめぐらせてみて、ハッと気が付きました!

地上の営みで頭がいっぱいになってる人間を振り向かせるには、それを出来なくすればいい・・

自分の能力を駆使して人生を謳歌していたワタクシを振り向かせるには、その元となってる能力を奪ってしまえばいい。
もしくは蓋をしてしまえばいいんですよね。

それでなるほど、突然仕事ができなくなった理由がわかりました。
コンピューター・プログラマーは、頭のなかで、コンピューターにどんな仕事をさせたらいいのかを想像し、数式をコンピューターの判る言葉に置き換えることでプログラムを組んでいきます。
ワタクシは、一万行ものプログラム・リストを頭のなかで整理することができました。

それが突然出来なくなったのですから、困惑しました。
そして、なんとかしようとして、ジタバタして、独立して会社なんか起こして、よけいな借金をつくったりして・・・
あの時、素直に主に向かっていれば、よかったものを・・

それでも判らないワタクシに、第二弾の召しがありました。
これは強烈でした。
まさに強制執行です。

真夏の熱い日の夜、突然、寒さが襲ってきて、ガタガタ震えがきました。ガチガチと歯が噛み合わないほどの寒さです。
そのうち真っ暗になり、光を感じなくなりました。
次に、重力を感じなくなり、音を感じなくなり、まったくの虚無の空間に浮かんでいる感じになりました。

こうなって、はじめて私は神の名を叫んだのです。
「神様ー、助けて、助けてー!!」
すると、目の前に見えたのは一冊の白い聖書でした。

いくらなんでも、これは出来すぎなんじゃないの・・
と言われそうですが、実際にいまもここにあります。
これです。

それまではまったく聖書なんて読まなかったのに、たまたまもらったギデオン教会の聖書を、ポンと本棚に置いていたのでした。
いま思えば、これはたまたまではなく、神の摂理によって、私にも種がまかれていたのですね。

話しを戻すと、ガタガタ震える手で、初めて聖書を開いて読んだ箇所は、「誰でも疲れた者は、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」との主の御言葉だったのです。
聖書をパカっと開いて読んだら、そこだったのです。

もうおかしいでしょ、変でしょ。
読まされてるでしょ。

そこから私のイエス様探求が始まったのです。
これがたったの6年前・・

強制執行されちゃいました。
召しを受けたのです。

思えば、ヨハネは自信満々で網を降ろしても、まったく魚がとれなくなりすっかり自信をなくして、途方にくれているところに、主から「右に網をなげなさい」と言われ、すなおに網を投げると大漁で、それからイエス様の御言葉に従うようになっていったわけですよね。

おんなじだ・・・
イエス様が召命さなっている・・・
まさにオーマイガ!!

受けた幻のなかで、主は「急げ」と言われているのでした。

受けた幻の全貌が書かれているのはコチラ


こんなことが、いま世界中の未信者に起きているんじゃないかと思うんです。
異邦人信者が世界中にあふれるなか、少しずつ契約の民であるユダヤの人々にも真のメシアニック・ジューが増えていき、預言どおり、イスラエル12部族144000人のユダヤ人が「マラナ・タ、主よ来てください」と叫ぶようになるのですね。これが千年王国の始まりだと理解しております。

でも、患難期が始まる前の、どこかの時点でワタクシたちは空中に引き上げられているとのことでしたよね。
もしかしたら患難のはじまりの日、つまりイスラエルが反キリストと政治的契約を結ぶ日を、地上で見ることはないかもしれません。

同期のすみこさんとお交わりをするなか、主からの召命を振り返る機会となりましたことを、感謝します。
聖書塾の同期の皆さんとまた来月、お会いできる日を楽しみにしております。
主に感謝して、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2017年9月12日火曜日

永遠の生命



「永遠の生命」
キリスト教における「永遠の生命」とは、不死の生命のことである。
老・病・死から解放された命(いのち)をいう。
その自身の内に絶対的幸福を得ることをいう。
私たちの命(いのち)のなかに幸福の源泉があるならば、永遠に生きるからといって、退屈になるようなことはない。
神様がそうである。
神様は永遠に生きておられるが退屈には思っておられない。
なぜなら、神様ご自身の内に喜び・幸福の源泉があるからである。
神様は高らかに歌っておられる。
じつにキリスト教を通して得られる「永遠の生命」には、神の生命の躍動と愛が内に溢れている。
すべての不幸から開放された命(いのち)を得るのである。
(写真:阿蘇の大草原 2017年3月)

2017年9月11日月曜日

153


「聖書に隠された数値に驚く」
私は数学が得意だ。とくに物理数学。だからコンピュータの専門家だったときも、大いにその才能を発揮して貢献することができた。
そんな私だから、聖書にかかれた数字の意味を知ったときにまったく驚いてしまった。たとえば、サタンには666、キリストには888、十字架には777という数値が隠れていると言われている。全てが数学的に表現可能であるのはたいへん納得がいく話ではあ
る。なぜなら神の摂理によって、ありとあらゆる世のなかの仕組みが出来上がっているからである。数学的な表現ができるということが物質の創造に関わっていることの証しでもある。
今回は、そのような聖書の秘密の数値のうち「153」に着目してみよう。
ヨハネ 21:11
シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは153匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
聖書を読んでいる方であれば、イエス様に言われて網を投げ入れ153匹もの魚を漁ったという話しはよくご存知のはずである。
この「153」という数字は3の倍数であり、特別な数字なのだ。どう特別なのか・・・
「153」は三角数であり、1~17までの整数を全部足した数である。
1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15+16+17=153
 こうした数は、「トライアングル・ナンバー」(triangle number)または、「三角数」と呼ばれている。
じつは聖書の中、また聖書に関連した数として、三角数がよく出てくる。次のものはみな三角数である。
●神は唯一──1
●神の三位一体──3
●神が天地創造のみわざをなされた日数──6
●カナの結婚式でイエスは、6つのかめに入った水を全部ぶどう酒に変えられた(ヨハ2・6)  ──6
●イエスは受難の予告から6日の後に変貌された(マコ9・2)――6
●「主の祈り」は6つの願いから成る――6
●神はモーセに「十戒」を与えられた。──10
●聖書巻頭の言葉、創世記1・1「はじめに神が天と地を創造された」を構成するヘブル語の文 字数──28
●聖書の書物数──66
●ペンテコステの日に二階座敷に集まっていた弟子達の数(使徒 1・15)──120
●難破した船でパウロと共に救われた人々の数(使徒27・36) ──276
●ノアの箱舟の長さ(創世6・15) ──300(キュビト)
●患難時代の独裁者「獣」を現わす数(黙示13・18)──666
●創世記1・1のヘブル語を数字に換算したもの(後述するゲマト リア)――2701
 これらはみな三角数である。そして、今私たちが見ている「153」も、三角数なのである。
「153」の特殊性
153の各桁の数値は1、5、3である。これら各桁の数を3乗して、たす。すると、どんな数が出てくるか。
153→(1の3乗)+(5の3乗)+(3の乗)
=(1×1×1)+(5×5×5)+(3×3×3)
=1+125+27
=153
つまり、各桁の数字を3乗して足すと、もとの153に戻るのである。計算した結果がもとの数字だというのは、あらゆる数値のなかでも、非常にまれな数値であるということが出来る。
さらに試して欲しいのだが、3の倍数である数値ならどんな数値でも、上記の計算を繰り返していくと最終的に「153」に戻るのである。そしていったん「153」になれば、あとは何度計算しても「153」のままである。
これは驚くべきことである。いかに「153」が特殊な数値であるかが判る。
この計算手法で「3乗」というのは、「立方体化」と呼ばれる数学的手法である。私たちの住む宇宙空間は三次元で表現できる。また、幕屋の至聖所が立方体であったことにも見られるように、立方体は重要な神的象徴であり、「3乗」というのはそれにかかわっている。
黙示録7章には神の印を押される144000人のイスラエルの子孫の一節があるが、この「144000」も3で割り切れる、つまり3の倍数である、ということはこれも上記の3乗の計算を繰り返すと最後は「153」に帰結する。
黙示録8章
七人の天使がラッパ(士気を上げる音)を吹く(8章6節-11章19節)
第一のラッパ:地上の三分の一、木々の三分の一、すべての青草が焼ける (8:6-7)
第二のラッパ:海の三分の一が血になり、海の生物の三分の一が死ぬ (8:8-9)
第三のラッパ:にがよもぎという星が落ちて、川の三分の一が苦くなり、人が死ぬ (8:10-11)
第四のラッパ:太陽、月、星の三分の一が暗くなる(8:12-13)
第五のラッパ:いなごが額に神の刻印がない人を5ヶ月苦しめる(9:1-12)
第六のラッパ:四人の天使が人間の三分の一を殺した。生き残った人間は相変わらず悪霊、金、銀、銅、石の偶像を拝んだ(9:13-21)
クリスチャン人口は、地球人口の3分の1と言われている。ということは、クリスチャン人口の数値を使って上記の計算を繰り返すと、やはり「153」という数値に帰結するのである。

2017年7月10日月曜日

は? 脳が何を目的に毎日進化しているか??

武田邦彦先生のニュース動画を見たときの反応を記録します。タイトルは、「正直分からない。脳が何を目的に毎日進化しているか?脳の謎・・・」、となっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=amXYM7V0h0E

DNAの特徴は改善や進化で強いものが出来てきたというのは間違いで、むしろ変化するのを阻み保持する方向に働きます。変化すると多くが滅ぶ方向に行くからです。脳が何を目的に毎日進化・・・なにもわかっておられないことが露呈しています。進化しませんし、むしろ人類発生当初が一番すぐれた完成形を保っていました。なので劣化はしているかもしれません。 ヒトがヒトである特徴のひとつに、言語を駆使するという能力があります。ヒトの場合、生まれた直後の脳のブローカ野(言語を支配)はどうなってるかというと、世界じゅうのあらゆる言語に対応できる「ベーシック・ソフトウェア」が組み込まれています。通常、赤ちゃんは3歳までに耳から入ってくる音をもとに母親の声なるものを「認識」し、単語を聞き分け、理解するようになります。音の入力そして五感を通して、あらゆる言語を理解する機能が予め備わって生まれてくるというのです。そして一つの言語が決まると、「アポトーシス」が働き無駄な回路は消滅します。3つ児の魂・・・とはよく言ったものです。母親が日本語だけを聞かせていると、英語が苦手な子供になるそうですが、それが上記の説明で裏付けされています。 ノアの洪水前の大気環境のもとで生命は最大限の能力を発揮します。2気圧の大気、酸素濃度26%〜30%、植物も動物も元気でした。偉大なオールマイティ・クリエーターの存在を無視してはいけません。デザイナーの存在を無視して、創られた側の存在たちだけで「うーん、わからん、あーだろ、こーだろ」と理屈をこね回しているようなもんです。 武田先生が好きそうな物理の法則を使うとするならば、エントロピー増大の法則は成り立っています。「自然(世界)は、常に、エントロピーが『小さい→大きい』という方向に進む。 すわなち、自然は『秩序から無秩序へ』という方向に進む」ということで、具体的に言うと、「整理整頓された部屋は、そのまま自然に任せておくと、 だんだん乱雑になりますよ~。 勝手に整理されるということはありえませんよ~」 ね・・わかりますか、勝手にDNAが進化つまり、まとまった方向へ、エントロピー縮小の方向に、下から上には逆上りはしないということ。 設計図と材料だけあっても、これを使用する意志の存在がなければ生命とはならないわけです。DNAと蛋白の原料だけ置いといても、生命は発現しません。「神の息吹」と言われたりする「いのち」が必要になります。これは創造主にしか出来ないことです。 わかりにくいですか、ならば、家の建築には設計図と建築材料のほかに、大工さんが必要です。ここで大工さんとは、家をつくるという「意志」と言ってもいいでしょう。 現代のDNAを組み替えるという技術も、組み換え後に「いのち」あるものに差し戻してるだけです。「いのち」を利用しただけで作ったわけではない、ということ。研究者の方々のほうがむしろ、クリエーターの存在に気づいていますよ。進化論はナンセンス、「進化教」もしくは「ダーウィン教」という一種の盲信宗教に近い。

2017年6月19日月曜日

山上の垂訓

新約聖書・マタイの福音書5章より

モーセの律法とは何かを
メシヤが語っているのが
山上の垂訓

これを行ったから
救われるというものではない
ということ