ご注意)
以下の文面は作者の承諾を得ずに自分の学びのため勝手に書き起こしたものです。
本物はリンクをクリックすれば視聴することができます。
ぜひお勧めします。
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皆さんに紹介したい聖書というのは、神のあたまのなかにあるビジョンが描かれている本です。
この聖書の中には、神様のビジョンが書いてある。
どんなビジョンかというと、どんな人であっても新しく作ることができる。
人生にやり直しはある。
全部その罪をタダで許し、その人に無制限の祝福を注ぎ、永遠の命を与え、そして永遠の天国の永住権をタダで与えることができる。
・・というビジョンです。
ところが良すぎる話しって何か裏があるんじゃないか、警戒してかえって信じようとしないというのが多いんですよね。
今日は聖書が語る三つのビジョンを一緒に学びましょう。
新約聖書・テモテ第一の手紙2章5~6節より
2:5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
ここに三つのことが書いてあるのです。
1番目、神は唯一です。聖書で語る神、イスラエルの神は、人を創った作者、あなたの創り主、この宇宙の第一原因者、この世界の作者である方のことを聖書では創造主、God、神様とよんでいるのです。「人がつくった神」・「人を創った神」、(が)と(を)で全然違う。「人が作った神」は人を救うことができません。しかし「人をお創りになった作者」は作品が壊れた時に、修理することができるんじゃないですか?
あなたには作者がおられる。それが創造主なる神である。というのですが、この神様は目で見えないんですよね。この目で見えない神様をどうやって信じることができるんだろうか。
日本では進化論が繰り返し、繰り返し言われているんですよね。まぁ嘘でも百回聞いていたら本当かなと思ってしまう。日本で進化論が入ってきたのは130数年前です。明治維新の後で、この進化論を導入するんです。その当時アメリカでは、神がお創りになったということを教えており、進化論を教えることは禁じられていた。ヨーロッパでは神はこの世界をお創りになられたという考えと、この世界は偶然進化したのだとする進化論の両方を教えていて、どちらを採用するかは学んだ生徒に任されていた。フェアです、これは。ところが日本では、世界中で日本だけ、はじめっから進化論以外をいっさい教えることがなかったのです。進化論しか教えなかった理由は、明治時代の天皇は神であり、聖書でいうように天皇まで被造物であっては都合が悪いからです。130数年に渡って進化論の教育がなされてきました。それ以外聞いたことがないので、人は神が作ったと聞くと、信じられないのです。
でもね皆さん、進化論で説明のつかない自然のメカニズムってたくさんあるんですよ。そのうちの一つがハナバチラン(花蜂蘭)という植物です。この植物の花は雌の花蜂そっくりの花びらをしているのです。あまりにもそっくりなのでオスの花蜂がとまって交尾しようとしてモゾモゾするうちに受粉するのです。ふつうは気づくじゃないですか途中で、だけどもメスの花蜂そっくりのうぶ毛が生えているので、ますますこれは本物だと思うわけなんです。それでも最終的には偽物だと気づいてしまうわけなんですが、隣に花があるとまた騙されてしまう。懲りんやっちゃなー、なんでそうなるかというと、この植物はメスの花蜂がだすフェロモンそっくりの化学物質を放出しているのです。このフェロモンというのは異性を引きつけるホルモンですよ。ここで考えて欲しいのは、植物には視神経がないです。だから花蜂そっくりの形をしたら花蜂のオスがやってきて蜜を吸いにくるわ、おびき寄せられるわーというふうに考えようにも見る能力がないので真似ることができないのです。それから花は匂いを出すことはできますけども、そもそも匂いを嗅ぎ分けることはできないです。だからどんな匂いを出したら花蜂のオスをおびき寄せることができるのか判らない。自分ではどうしても花蜂のオスを引き寄せるようには出来ない。にもかかわらず、花蜂のオスを引き寄せるのにぴったりのデザインをしているのです。これを合理的に説明しようと思ったら、花蜂を知っていて、花蜂をどのように引きつけたらいいのか知っている神が花をデザインしたと考えるのが一番妥当だと思うのです。
進化論によれば植物が出来てから昆虫ができるまで3億年かかるといいます。3億年待ってたらね、枯れる。3億年も待たんかって3週間も待てば枯れるんじゃないですか。
この世界はトータルにデザインされているのです。トータルにデザインされているのならば、デザイナーがいると考えるのが妥当なんじゃないでしょうか。私たちの作者、自然界の作者がおられる、その作者のことを、聖書では創造主と語るのです。
第2番目のポイント、また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
神と人とをむすぶ仲介者、この方も唯一で、イエス・キリストであるというふうに語っているのです。
この仲介者というのは、つなぐ人という意味です。宇宙ステーションで半年もの永きに渡って分刻みのミッションをこなして、パニックにならずに済んでいるのは、自分をサポートしてくれる大勢の専門家集団とつながっていることを知っているからなのです。地上においても、何があっても自分を支え守ってくれる大きな力をどこにも持っていなかったら、その人は弱いと思います。じつはこの創造主という方は、作者であって、私たちを支えることができる、私たちに祝福を与え、智慧を与え、私たちにアドバイスし、私たちの人生を実りあるものにすることが出来るお方であるのですが、ところが人間というのは、この神様と切れているんです。「俺の人生がだ、神様なんか関係ないよ」。神なんかいないという人生観で生きているので、地球上にいながら、時に苦しくてたまらない、行き詰まってどうしようもない、というふうになるのではないでしょうか。創造主との関係が切れているということが大きな問題なのです。この切れた関係のことを聖書では「罪」だと語るのです。
第3番目のポイントです。
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
キリストが来られた目的、それは私たちの罪を償う為に、命を捨てる為にこの世界に送られた、旧約聖書に予言されていたメシヤ、救い主なのだということを語っているのです。
ところで、どんなに自分の思い通りに生きてきた人であっても、いよいよ命のともし火が消えようとする時に、全体重を預けることのできる誰かを求めるのではないでしょうか。もう自分で踏ん張ることが出来ない、もう自分で頑張ることはできないという時に、自分の全存在を下から支えて、背負って、保ってくれる人、自分の全てを委ねて、任せることが出来る、誰かを求めるのではないかと思うのです。皆さん、どうでしょうか、自分の全存在を任せることが出来る存在をお持ちでしょうか。
実は創造主の神様から離れた人間は、死に向かって進んでいます。そして人間は死んで終わりではありません。いちど死ぬことと、死後に永久に裁きを受けることが定まっていると聖書に書いてあります。この、死に向かっている人間を永久の滅びではなくて、永遠の命のほうに、私たちを導き入れる為に、どうしても神様の側でしなければならないことがあったのです。それは、私たちの罪を帳消しにするということです。罪を持ったまま、罪なき永遠の天国に行くことはできません。この罪をわたしの代わりに背負って、わたしの代わりに罪の罰をぜんぶ受ける為に、神はイエス・キリストという方を送ってくださいました、というのです。それが、「すべての人の贖いの代価」という言葉の意味なんです。キリストが、私たちの贖いの代価として身代わりとなって死んでくださった、その死んだ現場が十字架です。
あなたの為に死んでもいいという友人がいますか?
キリストはあなたの為に命を捨てる為に、わざわざ来てくださった方、そして命を捨てて三日目に死を突き破って、蘇って、復活してくださった方、このイエス・キリストを自分の救い主として信じるものは、誰一人として滅びることなく、永遠の命を持つことが出来ると、聖書は約束してくれるのです。ヤクザの親分は子分のために代わりに刑務所に行くことさえします。しかし神は自分に敵対する者にさえ、贖いの代価としてキリストを送ってくださっています。この方こそは本物の親分、本物の主です。
皆さん、身代わりの死、そして復活はそういう意味です。
ぜひ、このイエス・キリストをよくお考えになって、ここに真理があると思われたなら、この方を救い主として受け入れてください。
心からお薦めしたいと思います。