2017年1月24日火曜日

選ばれた民に伝えられたのは「すべての民のための神」

ちいろば先生「旧約一日一章」より

エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。
(創世記36章1節)

ここにはエサウつまりエドムの系図が羅列されている。
しかし彼はすでに神の救いの歴史からはずれている。
なのになぜ、神の言葉なる聖書に記されているのであろうか?
その理由は、聖書に記されている神は全世界・全宇宙の神であるということ。
イスラエルは神の救いの御業(みわざ)遂行の為に召された僕(しもべ)にすぎないということ。

神は一人の滅びるのも望みたまわない方である。
私たちはともすると、神は自分だけの神のように思いやすい。
しかしクリスマスの夜、天使が羊飼いに告げて語った言葉は「全ての民に与えられる大きな喜びをあなた方に伝える」ということであった。
いま一度、神は「すべての民」の神であることを再確認し、このすべての民の神のみこころを伝える器としての私たちの使命を新たにしたいものである。

2017年1月18日水曜日

神様は愛で出来ている

神なんかいない!
わたしが成し遂げた。
と、あなたは言う
神さまがつくられた大地を踏みしめ
神さまがつくられた大気を吸って
神さまがつくられた陽光を浴びて
神さまがつくられたあなたは叫ぶ
「神なんかいない!」
そんなあなたを
神さまは抱きしめています
なぜなら
神さまは愛で出来ているからです
神さまの差し出すものは愛です。
なぜなら
神さまのご性質は愛だからです。
だから
神さまの差し出すものは
愛しか出てこないのです。

ほんとうの所有者からのメッセージ

目を覚ましていなさい
備えていなさい
わたしはすぐにでも帰ってくる
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いただきました、ご主人からのメッセージ

2017年1月7日土曜日

聖書が語る三つのビジョン

神のビジョン -聖書の語る三大ポイント-高原剛一郎
https://www.youtube.com/watch?v=ax7EF6zgKOw&t=1011s
ご注意)
以下の文面は作者の承諾を得ずに自分の学びのため勝手に書き起こしたものです。
本物はリンクをクリックすれば視聴することができます。
ぜひお勧めします。
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皆さんに紹介したい聖書というのは、神のあたまのなかにあるビジョンが描かれている本です。
この聖書の中には、神様のビジョンが書いてある。
どんなビジョンかというと、どんな人であっても新しく作ることができる。
人生にやり直しはある。
全部その罪をタダで許し、その人に無制限の祝福を注ぎ、永遠の命を与え、そして永遠の天国の永住権をタダで与えることができる。
・・というビジョンです。

ところが良すぎる話しって何か裏があるんじゃないか、警戒してかえって信じようとしないというのが多いんですよね。
今日は聖書が語る三つのビジョンを一緒に学びましょう。

新約聖書・テモテ第一の手紙2章5~6節より
2:5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

ここに三つのことが書いてあるのです。
1番目、神は唯一です。聖書で語る神、イスラエルの神は、人を創った作者、あなたの創り主、この宇宙の第一原因者、この世界の作者である方のことを聖書では創造主、God、神様とよんでいるのです。「人がつくった神」・「人を創った神」、(が)と(を)で全然違う。「人が作った神」は人を救うことができません。しかし「人をお創りになった作者」は作品が壊れた時に、修理することができるんじゃないですか?
あなたには作者がおられる。それが創造主なる神である。というのですが、この神様は目で見えないんですよね。この目で見えない神様をどうやって信じることができるんだろうか。
日本では進化論が繰り返し、繰り返し言われているんですよね。まぁ嘘でも百回聞いていたら本当かなと思ってしまう。日本で進化論が入ってきたのは130数年前です。明治維新の後で、この進化論を導入するんです。その当時アメリカでは、神がお創りになったということを教えており、進化論を教えることは禁じられていた。ヨーロッパでは神はこの世界をお創りになられたという考えと、この世界は偶然進化したのだとする進化論の両方を教えていて、どちらを採用するかは学んだ生徒に任されていた。フェアです、これは。ところが日本では、世界中で日本だけ、はじめっから進化論以外をいっさい教えることがなかったのです。進化論しか教えなかった理由は、明治時代の天皇は神であり、聖書でいうように天皇まで被造物であっては都合が悪いからです。130数年に渡って進化論の教育がなされてきました。それ以外聞いたことがないので、人は神が作ったと聞くと、信じられないのです。
でもね皆さん、進化論で説明のつかない自然のメカニズムってたくさんあるんですよ。そのうちの一つがハナバチラン(花蜂蘭)という植物です。この植物の花は雌の花蜂そっくりの花びらをしているのです。あまりにもそっくりなのでオスの花蜂がとまって交尾しようとしてモゾモゾするうちに受粉するのです。ふつうは気づくじゃないですか途中で、だけどもメスの花蜂そっくりのうぶ毛が生えているので、ますますこれは本物だと思うわけなんです。それでも最終的には偽物だと気づいてしまうわけなんですが、隣に花があるとまた騙されてしまう。懲りんやっちゃなー、なんでそうなるかというと、この植物はメスの花蜂がだすフェロモンそっくりの化学物質を放出しているのです。このフェロモンというのは異性を引きつけるホルモンですよ。ここで考えて欲しいのは、植物には視神経がないです。だから花蜂そっくりの形をしたら花蜂のオスがやってきて蜜を吸いにくるわ、おびき寄せられるわーというふうに考えようにも見る能力がないので真似ることができないのです。それから花は匂いを出すことはできますけども、そもそも匂いを嗅ぎ分けることはできないです。だからどんな匂いを出したら花蜂のオスをおびき寄せることができるのか判らない。自分ではどうしても花蜂のオスを引き寄せるようには出来ない。にもかかわらず、花蜂のオスを引き寄せるのにぴったりのデザインをしているのです。これを合理的に説明しようと思ったら、花蜂を知っていて、花蜂をどのように引きつけたらいいのか知っている神が花をデザインしたと考えるのが一番妥当だと思うのです。
進化論によれば植物が出来てから昆虫ができるまで3億年かかるといいます。3億年待ってたらね、枯れる。3億年も待たんかって3週間も待てば枯れるんじゃないですか。
この世界はトータルにデザインされているのです。トータルにデザインされているのならば、デザイナーがいると考えるのが妥当なんじゃないでしょうか。私たちの作者、自然界の作者がおられる、その作者のことを、聖書では創造主と語るのです。

第2番目のポイント、また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
神と人とをむすぶ仲介者、この方も唯一で、イエス・キリストであるというふうに語っているのです。
この仲介者というのは、つなぐ人という意味です。宇宙ステーションで半年もの永きに渡って分刻みのミッションをこなして、パニックにならずに済んでいるのは、自分をサポートしてくれる大勢の専門家集団とつながっていることを知っているからなのです。地上においても、何があっても自分を支え守ってくれる大きな力をどこにも持っていなかったら、その人は弱いと思います。じつはこの創造主という方は、作者であって、私たちを支えることができる、私たちに祝福を与え、智慧を与え、私たちにアドバイスし、私たちの人生を実りあるものにすることが出来るお方であるのですが、ところが人間というのは、この神様と切れているんです。「俺の人生がだ、神様なんか関係ないよ」。神なんかいないという人生観で生きているので、地球上にいながら、時に苦しくてたまらない、行き詰まってどうしようもない、というふうになるのではないでしょうか。創造主との関係が切れているということが大きな問題なのです。この切れた関係のことを聖書では「罪」だと語るのです。

第3番目のポイントです。
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
キリストが来られた目的、それは私たちの罪を償う為に、命を捨てる為にこの世界に送られた、旧約聖書に予言されていたメシヤ、救い主なのだということを語っているのです。
ところで、どんなに自分の思い通りに生きてきた人であっても、いよいよ命のともし火が消えようとする時に、全体重を預けることのできる誰かを求めるのではないでしょうか。もう自分で踏ん張ることが出来ない、もう自分で頑張ることはできないという時に、自分の全存在を下から支えて、背負って、保ってくれる人、自分の全てを委ねて、任せることが出来る、誰かを求めるのではないかと思うのです。皆さん、どうでしょうか、自分の全存在を任せることが出来る存在をお持ちでしょうか。
実は創造主の神様から離れた人間は、死に向かって進んでいます。そして人間は死んで終わりではありません。いちど死ぬことと、死後に永久に裁きを受けることが定まっていると聖書に書いてあります。この、死に向かっている人間を永久の滅びではなくて、永遠の命のほうに、私たちを導き入れる為に、どうしても神様の側でしなければならないことがあったのです。それは、私たちの罪を帳消しにするということです。罪を持ったまま、罪なき永遠の天国に行くことはできません。この罪をわたしの代わりに背負って、わたしの代わりに罪の罰をぜんぶ受ける為に、神はイエス・キリストという方を送ってくださいました、というのです。それが、「すべての人の贖いの代価」という言葉の意味なんです。キリストが、私たちの贖いの代価として身代わりとなって死んでくださった、その死んだ現場が十字架です。
あなたの為に死んでもいいという友人がいますか?
キリストはあなたの為に命を捨てる為に、わざわざ来てくださった方、そして命を捨てて三日目に死を突き破って、蘇って、復活してくださった方、このイエス・キリストを自分の救い主として信じるものは、誰一人として滅びることなく、永遠の命を持つことが出来ると、聖書は約束してくれるのです。ヤクザの親分は子分のために代わりに刑務所に行くことさえします。しかし神は自分に敵対する者にさえ、贖いの代価としてキリストを送ってくださっています。この方こそは本物の親分、本物の主です。
皆さん、身代わりの死、そして復活はそういう意味です。
ぜひ、このイエス・キリストをよくお考えになって、ここに真理があると思われたなら、この方を救い主として受け入れてください。

心からお薦めしたいと思います。

2017年1月4日水曜日

キリストを突き動かした神の愛  高原剛一郎


キリストを突き動かした神の愛  高原剛一郎

ご注意)
以下の文面は作者の承諾を得ずに、自分の学びのために勝手に書き起こしたものです。
そのつもりでお読みくだされば幸いです。
本物はリンクをクリックすれば視聴することができます。
ぜひお勧めします。
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人生の目的とは何だろう?
辛いことがあっても生きていかねばならない理由って何だろう?
どうして目的がわからないかと申しますと、人生をお与えになった神様を否定するからです。
料理の道具なんかもそうなんですが、何のために存在しているのか判らないものは、それを考案した人に聞いたらいいということなんです。
存在理由のわからないものは、作者に聞けばいい。
じゃあ、人間の存在理由を知りたいと思ったら、どうしたらいいのか。
人間をお創りになった作者に聞くのです。
私たちをお創りになった方、私たちが存在する第一原因者である方、あなたに命を与えた方、あなたに人生を与えた方がいらっしゃると聖書は語るのです。
天地・万物を創造した生けるまことの神様、創り主、この方が私たちのルーツです。

ニワトリが先か卵が先かという議論てあるじゃないですか、どうどう巡りの話しなんですけども、聖書の観点から見れば簡単なんです。ニワトリからなんです。神様はすべての鳥、すべての魚、すべての生き物・家畜をそれぞれ種類に従ってお創りになった。神がお創りになったというスタートラインを失うと、どんな問題もどうどう巡りになってしまうのです。
しかし聖書は繰り返し、あなたの魂の親がいるんですよ、私たちの創り主がおられるのですよと語るのです。

1テモテ1章15節より
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

ここではキリスト・イエスがこの世界の到来なさった理由について書かれてあるのですが、この「罪人(つみびと)」、聖書が言っている「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」、的外れという意味があるのです。暗記するなら。罪の深みにハマルティアと覚えるのはだめでしょうか。ちなみに悔い改めのことをメタノイアと言います。これを逆から読むと、アイノタメ。何でですねん! 悔い改めはアイノタメにあるのですよ。(会場から笑い)
的外れとは、本来あるべきことからはずれてる、神様なんかいないという考えて生きていることを聖書では「罪人(つみびと)」というのです。

創造主を離れて、人と比べて、劣等感持ったり、足をひっぱったり、自分自身を貶めたりしながら、命のルーツが切れることによって死に向かって着実に進んでいってるというのが人間です。そして人間にはいちど死ぬことと、死んで裁きを受けることが定まっていると聖書では語るのです。この人間を罪の究極の結末である地獄から救うためにキリスト・イエスは来られたというのです。

罪とはいったいなんでしょうか。創造主から離れることです。離れた結果、神未満のものを恐れおののくようになりましたが、生きている時のみならず、その人生の最後に大変な結末が待っているのです。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」
罪とは 神のひとり子である方が、この世に生まれてくださった。創造主であられるのに、赤ちゃんとしてお生まれになってくださった、というのですが、これはあなたがナメクジになるよりも屈辱的なことです。わたしたちがモノ言わぬ虫になることよりも、宇宙の創り主が人としてこの世に来られたというのは尋常ならざることであります。
神様は人格を持った方であります。人格を持った神に似せられて私たちもは創られました。「知・情・意」、人格を持った被造物の人間が罪に翻弄され裁きに飲み込まれようとしているのを見たときに、キリストは黙って見過ごすことは出来なかった。人だって、自分の身内に似たものが虐められているときに、まるで身内が虐められているように感じ、飛びかかって助けようとします。キリストが最も崇拝している神に似せられて創られてる人間が壊れていくのを、滅びていくのを、ダメになっていくのを、指をくわえて見過ごすことはお出来にならなかった。その動機を敢えていうなら、「愛」です。神は実にそのひとり子をお与えになるほどにあなたを愛してくださった。そしてこの方は天から地上に来てくださった。この方はお説教して帰ったんじゃない、全く罪のない生涯を送られたこのお方が十字架にかかって、本来人間が死後に受けるべき永遠の裁きを身代わりに引き受けてくださったのですよ。そして死んで墓に葬られ、三日目に死を突き破って蘇ってくださいました。いま生きておられる方、生きておられるので皆さんの心をぜんぶ読んでおられる方、その方が創り主イエス・キリストなのです。これは真実であり、歴史的な検証に十分耐えうるものなんです。死んで蘇ったキリストを信じた弟子たちは、この世の果てまでこの真実を伝えてくれました。

そのまま受け入れるに値するものです。
ハブに噛まれた時に使う抗毒血清、あれはハブの毒を薄めて馬に注射し半年がかりで出来た血清を成分分離して抽出して出来たものを人に使えるようにしたものなんです。しかしこれを使わずにただ見ているだけでは効き目がない。説明を聞いているだけでは自分を救うものにならないのです。死を打ち倒したキリストの福音は、説明を聞くだけではなくて、自分の救い主として受け入れる必要があるのです。
キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
いかがでしょうか、自分の救い主として、そのまま、額面どおり受け入れるということがとても大事になるのです。
しかし今まで見たこともないものを聞いただけで信じるのは、なかなか難しいことではあります。
キリストがこの世に来て、もたらして下さったもの、それは罪人を救う福音です。この福音をぜひ自分のものとなさって下さい。

キリストはまたお越しになりますけども、その時にはクリスチャンたちを一挙に引き上げるために来てくださるのです。どうぞその前にキリスト・イエスを信じて下さいますように、心からお勧めします。