同じお悩みをもつ独身の男女のみなさん、中年クリスチャンの私から聖書福音のメッセージを送ります!
聖書では離婚は罪であると言われ、相手が死別でもしない限り離婚も再婚もできずにドロドロの人生を歩むことになってしまわないよう、本当はイエス様はなんと言いたかったのか、一緒に考察をしていきましょう。
私は13年前に離婚しました。というか離婚を同意せざるを得ない状況であったわけです。さて世の中には経済的な理由、あるいは夫婦間の冷え切った関係または夫の暴力(DV)などが原因となり離婚することもあるわけですが、ここは一旦子供の養育問題は横に置いといて、当事者である私たちの離婚と再婚問題について、聖書に書いてある律法とイエス様のみ言葉に照らし合わせて、離婚は罪深い行為なのか、再婚は罪なのか、じゃあ私たち人間は姦淫の罪を犯し続けていて、この矛盾をどうしたらいいのか、もう祈るしかないのか、苦しむしかないのか、このあたりを鋭く考察して見ようと思うのです。
YAHOO!知恵袋に掲載されていた質問と投稿を参考に考察をしていきましょう。
ズバリ、再婚は姦淫であると聖書に書かれています。離婚については否定的な教会が多いように感じます。これは聖書通りと思います。しかし再婚について言うと、特にプロテスタントの教会はどこも容認しているような印象を受けます。私にはこれが聖書の教えと矛盾しているようで不思議でなりませんでした。
新約聖書 マタイ5:32 にはハッキリと、再婚は姦淫に当たると書かれています。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。<また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです>。」
どうみても、マタイ5:32 にはハッキリと再婚は姦淫に当たると書かれているようにしか思えないのです。しかしどうやらここでイエス様が言いたかった事は、当時のユダヤ人の習慣に関係があるようなのです。妻以外の女性と不倫すれば、姦淫罪で死刑になります。しかしここで当時の民衆は都合よく発想の転換をした! もし元妻と離婚し、不倫相手を妻にしてしまえば姦淫罪になりません。離婚はモーセも認めていますから(申命記 24:1)。そういうわけで、不倫を正当化するために結婚・離婚を繰り返す人々が当時は多かったのです。しかも、死別・離婚を問わず、夫をなくした女性の援助という名目もありますから。ここで言われている「離別された女と結婚する」というのは、そういう意味です。イエス様が反対したのは、そのように法の抜け穴を突いて不倫を正当化することでした。お前たちはそれで法を守ったつもりかもしれないが、そもそも情欲の目で女性を見た時点で、心で姦淫を犯しているではないかと。人の罪から出た小賢しいやり方が、神の法を台無しにしていると言われているわけです。
また、イエス様は、マルコ 10:5 では「モーセが離婚を許したのは、お前たちの心が頑であったから」だと言われています。しかし、本来的に夫婦は一体であるのだから、離してはならないものであるのだと。ここでイエス様は、原則と例外を考えておられます。
「夫婦は一体となる」は原則であり、神の意志によるもの。
しかし、夫婦関係が冷えきっていたり、あるいは暴力があったりした場合、離婚を許さなければかえって罪の温床になります。
モーセは人に罪を犯させぬよう、例外を設けたのです。
大事なことは、神の意志による原則と、人の罪を犯させないための例外とを、ごっちゃにしてはならないということです。
「聖書に書いてあるから守らなければならない!」ではなく、それが原則なのか例外なのかを踏まえた上で、「神の心にかなうこと」を選ぶ必要があるわけです。
だから、パウロは手紙の中で「これを命じるのは私ではなく主である」、あるいは「これを命じるのは主ではなく私である」ということを明示的に書き分けているわけです。そして後者に属するものつまり私ごととして「もし自制することができなければ結婚しなさい」と命じています(I コリント 7:9)。これは初婚・再婚を問わず、結婚していない男女に向けてのものです。
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聖書的解釈の結論)
原則)
夫婦は一体であり、神の意志によるものである。
例外)
しかし夫婦関係が冷えきっていたり、あるいは暴力があったりした場合、離婚を許さなければかえって罪の温床になるということ。
再婚について)
パウロから初婚・再婚を問わず、結婚していない独身の男女に向けてのメッセージ
「もし自制することができなければ結婚しなさい」(I コリント 7:9)
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ハレルヤ!
自制もできない私でありますから長い独身生活はかえって罪の温床になります。
ぜひとも早めに再婚して神の祝福を受けようと思います!
アーメン