2016年10月20日木曜日

主を賛美しよう

主よ 主よと
主を求めますが・・・
病気を治してください
癒してください
大学に合格させてください
結婚させてください
とか
主の恵みと平安を
とか
祈り求めますが・・・

もっともっと
ほんとは大変重要なことがあるのです。

主を信じ
祝福を受けたのですから
主が良くしてくださるのは当然です
もうすでに恵みを送ってくださっています

だから
それを終生追い求めるのは
やめにして
もっとするべきことをしましょう

イエス様のことをもっと深く
知る必要があります。
イエス様って、どんな人かな・・・
そんな気持ちで聖書を読んでみましょう
そして
イエス様のことがわかったら
その次は・・・

イエス様に身をまかせてみましょう
イエス様だったら、どう行動する?
イエス様だったら、どう考える?
イエス様だったら、どう答える?

イエス様を着る・・・と言えばわかりやすいかな

自分を高くするでなく
自分を低くするでなく
何をやったかではなく
行いによるのではなく

主を賛美しましょう
主の御国を褒め称えましょう
主に従い
主のなさることを自分もする
主がなさらないことは自分もしない

ただそれだけ
シンプルな生き方なんです
クリスチャンて

2016年10月13日木曜日

慎み深く、かつ大胆に

ちいろば先生「旧約一日一章」より

デナはその地の女たちに会おうと出かけて行った。
(創世記34章1節)

私たちの生活は人間という言葉が示すように、人との交わりなくしては成り立たない。
しかしレカブ人たちはカナンの地に住みながら、信仰の純粋性を守る為に、異教のカナン人との交わりを絶ち、荒野をさまよう生活をしていた。彼らはカナンの地を神から与えられたものとして受け取るべきであったのに、世から逃れることだけを考え、世につかわされていることに気がつかなかった。それゆえに彼らは滅んでしまった。

私たちもこのレカブ人のようになりやすい。信仰の純粋さを守ることばかりに気を取られ、神からこの世につかわされた者であることを軽視する。神の子が僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられて世に生まれ、罪人と交わりを持たれたように、私たちも積極的に世に出て行く者でなければならない。

しかしデナは神につかわされないのに、「その地の女たちに会おうと出かけていった」のである。彼女は、エレミヤが偽預言者について語ったように出かけていき、その結果、世のとりことなり、自分も相手も、そして自分の兄弟たちをも罪におとしいれたのである。

主のとりなしの祈り「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守ってくださることであります」(ヨハネ17章15節)

私たちも、このように慎み深く、かつ大胆に世に生きる者となりましょう。

(中山感想)
高みばかり求めていると、兄弟姉妹の欠点ばかりが目についてしまいます。
そうではなく、むしろ彼らに使える僕(しもべ)の態度をとりましょう。
イエス様は、弟子たちの足を洗われましたよ。