2012年10月28日日曜日
信仰生活がはじまるまで
信仰生活がはじまるまで
炭鉱の町・大牟田に生まれました。
父は炭鉱夫でした。
当時、三井三池炭鉱で発生した労働争議は
死者まで出す戦後最大の労働争議へと発展
しました。
そんな中で母は私を産みました。
仕事一途な父と、家庭的な母のもとで
いま思えば何不自由ない少年時代を過ごさせて
もらいました。
地元の中学を卒業、技術者の道を目指すため
有明高専へ入学、当時すでに劇的進化を始め
ていたコンピュータの原理を学んで卒業し、
東京の富士通・電算センター勤務となりました。
その後、関連会社で熊本勤務になりましたが、
システム・ソフトウェアの開発に20年以上
従事しました。その間に結婚し、ふたりの娘にも
恵まれ、幸せな家庭生活を送っておりました。
なんだか順風満帆で、幸せそうで、このまま
平穏無事に人生を全うしても良さそうな気がします。
だけど、神さまは許して下さいませんでした。
そもそも、東京で暮らし始めた頃から違和感が
あったのです。
憧れていた職業に就き、恵まれた生活が保障されて
いても、生きている実感がまったくありませんでした。
それでも自分の才能は開花し、プログラマーとして
成功を修めたかのように思えました。
そしてとうとう、仕事面で不思議な現象が起きはじめた
のです。
泉のように溢れだしていた発想は、突然枯れた井戸の
ように、まったく出なくなりました。
いま思えば、すでに聖霊のお導きを受けていたと
いうことなのでしょうか。
道を閉ざされ、何をしようにも全部裏目に出て、
ひとりぽっちになってしまいました。
もう、やるべき事はやり尽くし、自暴自棄になって
どうでも良くなったときに、またもや不思議なお導きが
ありました。
「看護師になってみない?」と知人から誘われ、
看護の道を歩むことになったのです。
ふつうに考えると男性であることと高齢であることで、
なかなか看護学校など考えないと思います。
ところが不思議なことに、心のなかで、進むべき道を
求めましたところ、必要なものが必要なときに与えられ、
するすると何の障害もなく看護への道が開かれていきました。
皆さんから「勉強が大変でしょう?」、などとよく尋ね
られるのですが、勉強ができるような環境と頭脳を、
神さまからギフトとして頂きますので、まったく問題あり
ません。
このようにして、生まれながらの才能が閉じられ、これまで
の人生が終わってしまいました。
ある意味、これまでの私はもう死んだ、ということです。
そして、これからは人様に奉仕することで生きよと、神さま
から申し渡されたのです。
それが私に唯一残された道、看護師への道だったのです。
私はこれを神さまからの賜物、ギフトと受け取りました。
現在、看護学校の2年生です。
あと1年とちょっとで晴れて卒業し、看護師として活躍し
ようと思います。
あのマザーテレサのような愛の人になり、生きていきます。
じつは洗礼を受けてクリスチャン生活がはじまったのは、
今年の10月からなんです。
それまではインターネットやラジオから流れる宣教師の
説き証しを聞いていただけで、聖書をもらっても何が書いて
あるのかまったく判りませんでした。
それがあるとき、突然判りだしたのです!
主イエス・キリストが、罪深いわたくしの罪をも背負って、
十字架にかかり、墓に葬られ、三日目に復活した、あの
神の御子であり、救い主であると信じられるようになって
いました。
それからは聖書に何が書いてあるのか、よく判るようになり、
解釈が必要なことろも調べて理解するようになりました。
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<自分には関係のないことだと思っていた>
そもそもなんで、2000年前のイエス・キリストが
自分に何の関係があるものか、それこそ宗教じゃないか、
と私も最初はそう思っていました。
ところがキリストは単なる過去の偉人ではなく、
現代に生きておられ、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを
与えてくださる方だと判ってしまったのです。
大変なことになってしまいました!
キリストの死が、すべての時代の人の罪を赦す力を持っている
ということを、次の2つの点で理解することができました。
(1)神はすべてのことをご存じです。
ヨハネによる福音書は、
「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、
言葉は神であった」
という1節からはじまっています。
このことを創世記と読み合わせていきますと、
どうやら人の子イエスという方は、神の言葉が私たちと同じ
肉の身の姿をとられた方なのだということが判ってきます。
ですから2000年後の私たちのことをも知っておられ、
その上でイエス・キリストを十字架にかけて私たちの罪を
解決しようとされたのが神の御計画であったのです。
その私たちの罪とは原罪とも言われ、生まれながらにして
勝手気ままに思い行動する人間の特性がありますが、
これを自由と勘違いしているところに、そもそも大きな間違い
があったということなのです。
(2)キリストは今も生きておられる
しかし、死んだままならば、何の力もないところでありますが、
イエス・キリストには復活され、今は天で私たちのために、
とりなしをしていて下さっておいでです。
ヘブル人への手紙7章24-25節
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、
変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、
完全に救うことがおできになります。
キリストはいつも生きていて、彼らのために、
とりなしをしておられるからです。
つまり、私たちが罪を悔い改め、「どうか赦してください」と
祈ると、イエス・キリストが父なる神にとりなして、
「わたしに免じて赦してやってください」と言ってくださる
のです。
普通、祭司は羊を犠牲にしましたが、
イエス・キリストはご自分を犠牲にしました。
これこそが十字架の死の意味なのだということが、
ほんとうに判ってきたのです。
イエス・キリストは今も生きておられ、わたしたちを見守って
いてくださいます。
このような経緯で、
わたしがイエス・キリストに自分の罪を告白するなら、
わたしの罪をも赦される、ということが判ってきました。
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<涙が溢れてしかたが無かった箇所>
マタイ18章12-14節
あなたがたはどう思うか。
ある人に百匹の羊があり、
その中の一匹が迷い出たとすれば、
九十九匹を山に残しておいて、
その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、
よく聞きなさい、
迷わないでいる九十九匹のためよりも、
むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、
これらの小さい者のひとりが滅びることは、
天にいますあなたがたの父のみこころではない。
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ヨハネの黙示録3章20節
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、
彼もまたわたしと食を共にするであろう。
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ヨハネによる福音書14章21節より
わたしの掟を受け入れ、
それを守る人は、
わたしを愛するものである。
わたしを愛する人は、
わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛して、
その人にわたし自身を現す。
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ヨハネによる福音書14章23節より、
イエスはこう答えて言われた。
わたしを愛する人は、
わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとは
その人のところに行き、
一緒に住む。
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<毎朝祈りを捧げています>
聖霊に満たされる日々の祈り
愛する神さま、
私はあなたを必要としています。
私は今まで、自己中心の生き方をしていて、
あなたに対して罪をおかしてきました。
私の罪を許して下さい。
キリストが十字架にかかってくださり、
私の罪をも許してくださったことを感謝いたします。
いま一度、わたくしは、
キリストが私の心の王座につき、
私を支配してくださるよう願います。
あなたの命令と約束にもとづいて、
私を聖霊に満たしてください。
あなたが、私を聖霊に満たしてくださったことを信じて、
感謝いたします。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン
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