2016年2月15日月曜日
什一献金に対する考察と体験
この福音を兄弟姉妹と分かち合いたい・・・
ロゴスミニストリーのお説き明かしを聞いて、献金に対する迷いが消えたことなど
マラキ書1-4章 「形だけの礼拝」、このなかの、2B 什一献金の祝福 7-12
(※後半に併記している)
一昨年にこのメッセージを聞いて、わたしが理解したことは、
1.神様は初穂を献上する心を見ておられる。
2.主に捧げれば、主が直接その人を祝福なさるということ。
3.よって献金した先の教会で、どのように使われるかという件に関しては関知する必要がないということ。
わたしは、神様が「われを試してみよ」と命じておられましたので、初めはほんとうにお試しで捧げましたところ、恵みの上にまた恵みの連続で、今の私がここにいます。
近況はFacebookやGoogle+に投稿している通りです。
仕事面でも恵まれ病院で看護師として勤務しておりましたが、このたびお誘いを受けてある老健施設へ入職することになりました。
まことに主は御国の栄光をお示しになられる為、私をもお使いになられる神でもあられます。
なぜ今になって什一献金の考察なのかという件に関しましては、Facebook上の投稿で、献金は不要との意見があり、改めて考察してみたいと思ったからです。
--(併記)--------------------
ロゴスミニストリーより
マラキ書1-4章 「形だけの礼拝」
2B 什一献金の祝福 7-12
コリント第一9章14節、「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」
テモテ第一5章17,18節、「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』また、『働き手が報酬を受けることは当然である。』と言われているからです。
(1テモテ5:17-18)」
たしかに新約聖書には、所得の十分の一を主に捧げなさいという定めはありません。しかし、捧げなさいという命令はあり、十分の一を捧げるというのは神が与えられた非常に良い目安であるということなんですよね。
なぜ什一献金を惜しむのか?それは、もちろんお金が惜しいからです。お金がなくなると思っているからです。けれども、聖書には、もう一つの原則が働いていることを教えています。それは、「与えれば、与えられる」という原則です。主に捧げれば、主がその人を祝福してくださるという原則です。この原理はあまりにも明らかに働いているので、神は、「わたしを試してみよ」と命じておられるのです。
いかがでしょうか?
まだ、喜んで捧げているという実感を持っていない方は、ここにある約束にしたがって、「与えれば、与えられる」という祝福の中に入ってみませんか?
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