2017年7月10日月曜日

は? 脳が何を目的に毎日進化しているか??

武田邦彦先生のニュース動画を見たときの反応を記録します。タイトルは、「正直分からない。脳が何を目的に毎日進化しているか?脳の謎・・・」、となっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=amXYM7V0h0E

DNAの特徴は改善や進化で強いものが出来てきたというのは間違いで、むしろ変化するのを阻み保持する方向に働きます。変化すると多くが滅ぶ方向に行くからです。脳が何を目的に毎日進化・・・なにもわかっておられないことが露呈しています。進化しませんし、むしろ人類発生当初が一番すぐれた完成形を保っていました。なので劣化はしているかもしれません。 ヒトがヒトである特徴のひとつに、言語を駆使するという能力があります。ヒトの場合、生まれた直後の脳のブローカ野(言語を支配)はどうなってるかというと、世界じゅうのあらゆる言語に対応できる「ベーシック・ソフトウェア」が組み込まれています。通常、赤ちゃんは3歳までに耳から入ってくる音をもとに母親の声なるものを「認識」し、単語を聞き分け、理解するようになります。音の入力そして五感を通して、あらゆる言語を理解する機能が予め備わって生まれてくるというのです。そして一つの言語が決まると、「アポトーシス」が働き無駄な回路は消滅します。3つ児の魂・・・とはよく言ったものです。母親が日本語だけを聞かせていると、英語が苦手な子供になるそうですが、それが上記の説明で裏付けされています。 ノアの洪水前の大気環境のもとで生命は最大限の能力を発揮します。2気圧の大気、酸素濃度26%〜30%、植物も動物も元気でした。偉大なオールマイティ・クリエーターの存在を無視してはいけません。デザイナーの存在を無視して、創られた側の存在たちだけで「うーん、わからん、あーだろ、こーだろ」と理屈をこね回しているようなもんです。 武田先生が好きそうな物理の法則を使うとするならば、エントロピー増大の法則は成り立っています。「自然(世界)は、常に、エントロピーが『小さい→大きい』という方向に進む。 すわなち、自然は『秩序から無秩序へ』という方向に進む」ということで、具体的に言うと、「整理整頓された部屋は、そのまま自然に任せておくと、 だんだん乱雑になりますよ~。 勝手に整理されるということはありえませんよ~」 ね・・わかりますか、勝手にDNAが進化つまり、まとまった方向へ、エントロピー縮小の方向に、下から上には逆上りはしないということ。 設計図と材料だけあっても、これを使用する意志の存在がなければ生命とはならないわけです。DNAと蛋白の原料だけ置いといても、生命は発現しません。「神の息吹」と言われたりする「いのち」が必要になります。これは創造主にしか出来ないことです。 わかりにくいですか、ならば、家の建築には設計図と建築材料のほかに、大工さんが必要です。ここで大工さんとは、家をつくるという「意志」と言ってもいいでしょう。 現代のDNAを組み替えるという技術も、組み換え後に「いのち」あるものに差し戻してるだけです。「いのち」を利用しただけで作ったわけではない、ということ。研究者の方々のほうがむしろ、クリエーターの存在に気づいていますよ。進化論はナンセンス、「進化教」もしくは「ダーウィン教」という一種の盲信宗教に近い。

2017年6月19日月曜日

山上の垂訓

新約聖書・マタイの福音書5章より

モーセの律法とは何かを
メシヤが語っているのが
山上の垂訓

これを行ったから
救われるというものではない
ということ

2017年6月13日火曜日

アブラハム、サラを差し出すこと2度め

聖書通読の学び 月刊誌「クレイ」参照
創世記20:1〜2
アブラハムはゲラルに滞在中、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。
「あなたは、なんということをしてくれたのか」、と言われたのは、これで2度め。
・・・これは創世記12章でネゲブ地方に大飢饉が訪れたときエジプトでアブラムが犯した過ちと同じことをまたやってる。
殺されまいとする臆病で哀れな老人、そんな表現がよく似合う。
・・驚嘆すべきことに、創世記12章でのアブラムは75歳でじゅうぶん老人のはず、妻サラも70歳くらいじゃなかろうか。それなのにエジプトの人々が目を奪われるほどの麗しい美女だったようだ。
創世記18章でサラが妊娠すると主に言われてサラは笑ったが、このときもすでに更年期を過ぎていた。
しかし創世記20章ではまたしてもアブラハムは、ゲラルの王アビメレクに、サラは妹だと偽り、王にサラを差し出している。
90歳くらいの老女であるはずのサラを、ようやると驚嘆すべきところですよ、ここは!
まだまだ女性としての魅力を保っていたということなんでしょうね。翌年にはイサク(笑う)ちゃんを産んだわけだしね!
信仰の人アブラハム、95歳にして、ようやるわー。
えげつなー、妻サラを「妹」と偽り権力者に差し出すこと2回、それでも主に愛されているのよね、アブラハム。
そうであれば、なおさらのこと、わたしもあなたも、主に愛されているんですよぉ。
ー クレイより ー
アブラハムの失態により、イサクの誕生が危うくなった。
もし神の介入がなかったなら、ユダヤ民族の誕生は歴史上なかったことになる。そしてメシア誕生も実現しなかったことになる。
この事件は、アブラハム契約が無条件契約であることを私たちに教えている。
アブラハム契約は、人間の失敗や罪によって破棄されるものではない。
次回学ぶが、この事件は神の介入によって解決へと向かう。
ほめたたえるべきは、神の御名だけである。
私たちの救いもまた、すべて神の守りによって完成する。「あなたがたは、
信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」(1 ペテ1:5)。
試練の中を通過している人は、天に蓄たくわえられている素晴らしい資産と霊的祝福を思い、そこから力をいただこうではないか。
私たちの救いは、神の確かさによって保証されているのである。
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主の御名によって信じ、感謝します。
アーメン

2017年6月12日月曜日

聖書通読の学び 月刊誌「クレイ」参照


創世記19:30 ~ 38
天使によってようやく逃げ延びたロトは、ツォアルという町に住むのを恐れ、ふたりの娘たちと一緒に山に住んだ。
しかし、ふたりの娘たちは父親を相手に子を宿す。近親相姦である。
彼女たちの子孫がアモン人とモアブ人になり、忌み嫌われる民となる。

ネヘミヤ13:1
モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人モアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。

これは申命記23章のことである。名指しで書かれてある。

ロトとその娘たちを通して、滅びたはずのソドムが、モアブ人とアモン人という形で再生することになる。モアブとは「父から」という意味、アモンとは「私の民の子」という意味らしい。

ロトは、最初は、財産と使用人と家族に恵まれた遊牧民であった。
ところが、最後は、財産を失くし、ほら穴に娘2 人と住むようになった。
さらに、子孫であるモアブ人とアモン人は、後に、イスラエルの民に対して姦と偶の罪を犯させるようになる(民数記25 章のバアル・ペオルの事件、レビ記18:21 のモレク礼拝の禁止、など参照)。

ロトの人生が狂い始めたのは、創世記13 章にあるように、ヨルダンの低地にある、まるでエデンの園のように麗しい土地を居留地とした。滅ぼされる前のソドムとゴモラの町はそこにあった。ロトは、霊的祝福よりも、物質的祝福を重視したのである。

しかし、新約聖書ではロトのことを「義人」として評価している(2 ペテ2:6 〜9)。
ロトはソドムに住みながらも、心を痛めていたからである。

このように義人と言われたロトでさえも、誤った選択や彼の優柔不断な性格によって神の祝福からもれていったとするなら、私たちはなおさら知恵ある選択をしなければならないようだ。

ロトの弱点から、どのような教訓を学ぶことができるか・・・黙想する。
わたしは、ロト以上の酷い罪人です。
そのようなわたしですので、主との交わりに加わるとなど到底叶わぬことであります。
しかし、それにも関わらず、日々の一瞬でさえも死なずに、豊かに生かされていることができています。
これは、わたしが酷い罪人であることとは全く無関係に、一方的な神様の恵みによるものです。

天の父なる神様
わたしはひどい罪人であるにも関わらず
きょうも生かされていることを
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン





2017年6月7日水曜日

離婚は罪なの? 再婚はできないの?

きょうはズバリ、
離婚と再婚問題にチャレンジします。

あぁ、律法を守れない! 好きな人ができた、愛する人ができた、結婚したい。
いちど離婚してるけど、再婚は罪だ! クリスチャンとしては失格だ、もう教会にも行けない、汚れた。
・・などとお嘆きの方がおられたら、ローマ書8章を読んでほしいです。救われますよ。

ローマ人への手紙7章15節
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

使途パウロがいいたいのは、律法に「・・してはいけない」、と書かれてあると、それをやってしまう、というのです。
わたし、日本人ですが、この感覚はわかりづらい。してはいけないと書かれてあるなら、それを守ろうとします。ユダヤ人は、してはいけないと言われると、やりたくなるそうです。

ローマ書7章には結婚と浮気の事が書かれてあります。これを字義どおりにとらえると、奥さんが死亡でもしない限り、わたしの再婚は許されないということになります。
現実にそう理解しているクリスチャンは多いように思います。
離婚・再婚問題で苦しみぬいて、失格クリスチャンだらけになってしまいそうです。
わたしもその一人です。
そうとう苦しみました。ローマ書7章クリスチャンでしたよ。

しかしそれでも私は救われた、と宣言することができます。
「救われた」とは、いったい何から救われたのでしょう・・
それは神の怒りから救われているということです。

信仰義人(しんこうぎにん)・・・
クリスチャンである私はキリストとともに死んだので、律法はもう私に対して要求することはなくなりました。信仰によって義とされるとは例えば、わたしの働きや努力とは関係なく、まったく罪のないキリストの完全無欠の行いや思いがすべて、わたしが行ってきたことになっています。
いやー、そんなムシのいい話しがあるわけがない、そう思われますよね。
あるんです、神様からのギフトなんです。
無償のギフトは存在するのです。
まったくの話し、受け取るか、受け取らないかの差なんです。
キリストの名によって義とされるとは・・・そういうことです。

私はキリストとともに死んだ・・・
ちょっとまって! まだ実際に死亡したのではないです(笑)
そうではなくて、過去の自分とは決別したと、言い換えてもいい。
これは死んでこの世とオサラバしたのと同じくらい決定的であるということです。
あと戻りは、ない! ということ。

ここでローマ書7章に書いてある結婚の話しに戻します。
ダンナが死なない限り、再婚は出来ない、と律法に書かれてあったでしょうか・・
あれ? 少し違う見方ができるようですね。
そうなんです、別れた奥さんが死ぬ必要はなくなりました。
離婚したら、後を振り返らない。
奥さんが死んだのと同じくらい、絶対的にあとを振り返らない。
死人を憎んだって、しようがないのです。
感謝して赦しましょう。
離婚後たまたま再会しても、あとを振り返らない・・・

ローマ書7章3節
もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
はい、もうおわかりですね。
救われました・・・

主の御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2017年5月29日月曜日

気づいてしまいました。
きょう突然、聖書に書いてある神様のことを今までになく明確に感じました。
それはこんな風にです。
神様はアルファでありオメガである存在です。
つまり過去から現在、そして未来へと続く一方通行の一本道を歩む私たち人間とは、異なる時間概念の存在であるということ。
いま私たちが手にしている「聖書」とは、そのような神様からのメッセージ、プレゼント、ギフトであるということ。
この聖書の使い方では、はじめは創世記から順番に読むことを薦められます。ことのなりゆきを知るには、そのとおりなのですが。
しかし気づいてしまったのです。聖書は時空を飛び越え、未来を旅するツール、タイムマシンなのだと。あるいは過去にさえも・・・
未来に約束された福音、これこそが究極の救いなのです。
黙示録にあるように、携挙があり、生みの患難期があり、それから訪れるミレニアム期 ・・その次代には携挙されなかったが主を信じる人々もいれば、携挙後に滅びない体を着せられ、新しい名で主とともにいるわたしたちとが混在して住んでいる世界なのです。つまり古い肉体のままの人もいれば、新しい体の人もいるわけです。だから新しいミレニアム時代の幕開けでは、主を信じる人々ばかりで麗しく統治されてはいるのですが、ミレニアムの終わりになると、古い肉の身で交配し世代交代をしているうちに堕落するものが出てくるのです。なぜ神様はサタンを拘留してとっておいたかと言いますと、このような荒廃したミレニアム期の終わりに、最終的な裁きを行うためにサタンを解き放たれる為なのです。また、すべての死者も蘇り、最終弁明とその後の裁きが行われます。また、かれらを飲み込んでいた”死”と”ハデス”さえも最後は火の池に投げ込まれ、そのようにして、創世記のはじめにあるような現在の地球環境と現在の宇宙空間は、創り主の手によって消え去ります。
黙示録21:1 以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
その後すぐに神様は新しい天と新しい地とを、わたしたちにお与えになられます。そして、そこに住む私たちには苦しみや悲しみ、叫びなどはなく、ただ主とともにいる喜びの日々が待っています。新しい都エルサレムは信じられないほど美しく輝き、主の輝きのために日没もありません。また、この時代には神殿がありません。なぜなら、主が神殿そのものだからです。
主はすぐに来るとおっしゃいました。
未来に約束された福音、これこそが究極の救いなのです。
そのような目線から現在のわたしたちがどうあるべきなのか・・・
目覚めていなさい、わたしはすぐに来る。
そのように主が言われた意味がわかってきたように思えます。
究極の救いが得られた未来の世界からの視点で、いまの自分をみること・・・それこそが重要なのではないでしょうか。
ただ救ってください、救ってくださいと闇雲に主に祈っても仕方がない、そんな風にいまは思っています。
なぜいま、私たちは聖書を手にとり、福音を学んでいるのか、なぜ福音を述べ伝えよと主はおっしゃるのか、その意味がわかってきました。
なぜ受洗後にビジョンを見せていただき、馬小屋とともに白馬の子馬を私の内に置いていかれ、その際に「うまく育ててみてね、じゃあね」、と言われたのか・・・
また、荒れ果てた工場跡地に住む病人や生活困窮者の人々を救うビジョンを見せていただき、不思議なことに一人ではなく、一緒に歩いている人がいました。わたしたちのことを「私の友」と言われた方が一緒におられ、なぜこのような事をしなければならないのかと疑問を発したわたしに「右手を見てごらん、あなたはもう権利書を持っているのだから、しっかりしなさい」、と言われていたことを憶えています。
いまもその事を思い出しながら、日々を過ごしています。
福音宣教への道か・・・
主よ
年齢を重ねた罪深いわたしに、このようなビジョンを見せておらる主よ、
わたしのことをさえ、「友よ」と言われる主よ
あなたが一緒に歩まれるのなら・・・
罪は贖われ、拭い去られ、
しかも選ばれた・・・なんと光栄なことでしょう。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、
お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン

2017年5月28日日曜日

主の掟(おきて)

主の掟(おきて)、戒めとは・・・
主がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちが互いに愛し合うようになること。
これが主イエス・キリストが私たちに課せられた戒め。
私は、友のために命を捨てることになったとしても、悲しくはありません。
悔しくはありません。
なぜなら、つねに主が横におられ、わたしと一緒に歩んでいてくださるからです。
わたしは、これほどの大きな愛を、ほかに知りません。
わたしはわたしのことを、主の命じることに従う僕(しもべ)であると思っていました。
ところが主は、「あなたは私の友である」、と言われました。
なぜなら、しもべなら、主人の考えを知ることはなく、命令に従うのみですが、天の御父が主に語られたことは、わたしにも聞かせてくださっているからです。
だから、「あなたは私の友だ」、と主は言われたのです。
わたしが友であることは、わたしが選んだのではなく、主がわたしを選び出し、友であるよう任命してくださったのです。
だから主の御名のもと、わたしがすることはみな、天の御父によって成就することになっています。
またそれによって栄光が天の御父にありますように。
そしてこの福音がすべての人々に届き、主を信じるすべての人々の内に主がありますように。
アーメン