2017年4月10日月曜日

人は何の為に生きるのか?
人生の目的は何?

この問いに対する答えは、聖書の中では単純明解です。

神様が人を作ったのだから、人は神さまの為になるように出来ているのです。

2017年4月9日日曜日

幸せって何かを考えた時、
イエス様が、「あぁ、いま幸せだなー。」って思うことをやろうと思うんだ。
うん・・それが僕の幸せになる。
自分にとってのね。

それを命がけでやろうと思うんだ。
だって、イエス様は僕たちの為に、命がけになったんだよ。
命をかけるほどに、やんなきゃいけなかった事だったんだよ。
それが十字架にかかる事。
僕らの罪の象徴だよ、あれは。
本当は僕らが十字架にかかるべきだったんだ。
だけど人類右代表でイエス様が十字架にかけられたんだ。
何のために?
僕たちが神様と仲直りする為さ。

神様は、嘘をつけない。
だから欺く知恵を身につけちゃった人間を罰して切り捨てなきゃならなくなったんだ。
でも出来るかい? 抹殺して、クシャって潰しちゃうなんて。
本当に好きで好きで仕方なかったんだよ、人間のことが。
だって自分に似せて作った最高作の人間のことだもの。
だから潰せなかったんだ、クシャって。

それで神様は考えたんだ。自分のひとり息子に罪を全部背負わせて、その彼を罰することにしたんだ。
そしたら大好きな自分の作品を壊さずに済むだろうって、考えたんだよ。
でも出来るかい? 自分の息子を悪人の身代わりに死刑にするなんて。
人類右代表、それがイエス様、ヒトであって、神の子でもあるんだよ。
罰せられるために人の世に生まれた神の子。
ひどい罪人に仕えるために生まれた神の子、イエス。

神様ってね、実は愛で出来てるんだよ。主成分は愛。
だから神様の差し出すものって、愛しかないんだよ。
信じていいんだと思うよ。
それだけはね。

2017年4月5日水曜日

離婚と再婚について

同じお悩みをもつ独身の男女のみなさん、中年クリスチャンの私から聖書福音のメッセージを送ります!
聖書では離婚は罪であると言われ、相手が死別でもしない限り離婚も再婚もできずにドロドロの人生を歩むことになってしまわないよう、本当はイエス様はなんと言いたかったのか、一緒に考察をしていきましょう。
私は13年前に離婚しました。というか離婚を同意せざるを得ない状況であったわけです。さて世の中には経済的な理由、あるいは夫婦間の冷え切った関係または夫の暴力(DV)などが原因となり離婚することもあるわけですが、ここは一旦子供の養育問題は横に置いといて、当事者である私たちの離婚と再婚問題について、聖書に書いてある律法とイエス様のみ言葉に照らし合わせて、離婚は罪深い行為なのか、再婚は罪なのか、じゃあ私たち人間は姦淫の罪を犯し続けていて、この矛盾をどうしたらいいのか、もう祈るしかないのか、苦しむしかないのか、このあたりを鋭く考察して見ようと思うのです。
YAHOO!知恵袋に掲載されていた質問と投稿を参考に考察をしていきましょう。
ズバリ、再婚は姦淫であると聖書に書かれています。離婚については否定的な教会が多いように感じます。これは聖書通りと思います。しかし再婚について言うと、特にプロテスタントの教会はどこも容認しているような印象を受けます。私にはこれが聖書の教えと矛盾しているようで不思議でなりませんでした。
新約聖書 マタイ5:32 にはハッキリと、再婚は姦淫に当たると書かれています。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。<また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです>。」
どうみても、マタイ5:32 にはハッキリと再婚は姦淫に当たると書かれているようにしか思えないのです。しかしどうやらここでイエス様が言いたかった事は、当時のユダヤ人の習慣に関係があるようなのです。妻以外の女性と不倫すれば、姦淫罪で死刑になります。しかしここで当時の民衆は都合よく発想の転換をした! もし元妻と離婚し、不倫相手を妻にしてしまえば姦淫罪になりません。離婚はモーセも認めていますから(申命記 24:1)。そういうわけで、不倫を正当化するために結婚・離婚を繰り返す人々が当時は多かったのです。しかも、死別・離婚を問わず、夫をなくした女性の援助という名目もありますから。ここで言われている「離別された女と結婚する」というのは、そういう意味です。イエス様が反対したのは、そのように法の抜け穴を突いて不倫を正当化することでした。お前たちはそれで法を守ったつもりかもしれないが、そもそも情欲の目で女性を見た時点で、心で姦淫を犯しているではないかと。人の罪から出た小賢しいやり方が、神の法を台無しにしていると言われているわけです。
また、イエス様は、マルコ 10:5 では「モーセが離婚を許したのは、お前たちの心が頑であったから」だと言われています。しかし、本来的に夫婦は一体であるのだから、離してはならないものであるのだと。ここでイエス様は、原則と例外を考えておられます。
「夫婦は一体となる」は原則であり、神の意志によるもの。
しかし、夫婦関係が冷えきっていたり、あるいは暴力があったりした場合、離婚を許さなければかえって罪の温床になります。
モーセは人に罪を犯させぬよう、例外を設けたのです。
大事なことは、神の意志による原則と、人の罪を犯させないための例外とを、ごっちゃにしてはならないということです。
「聖書に書いてあるから守らなければならない!」ではなく、それが原則なのか例外なのかを踏まえた上で、「神の心にかなうこと」を選ぶ必要があるわけです。
だから、パウロは手紙の中で「これを命じるのは私ではなく主である」、あるいは「これを命じるのは主ではなく私である」ということを明示的に書き分けているわけです。そして後者に属するものつまり私ごととして「もし自制することができなければ結婚しなさい」と命じています(I コリント 7:9)。これは初婚・再婚を問わず、結婚していない男女に向けてのものです。
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聖書的解釈の結論)
原則)
夫婦は一体であり、神の意志によるものである。
例外)
しかし夫婦関係が冷えきっていたり、あるいは暴力があったりした場合、離婚を許さなければかえって罪の温床になるということ。
再婚について)
パウロから初婚・再婚を問わず、結婚していない独身の男女に向けてのメッセージ
「もし自制することができなければ結婚しなさい」(I コリント 7:9)
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ハレルヤ!
自制もできない私でありますから長い独身生活はかえって罪の温床になります。
ぜひとも早めに再婚して神の祝福を受けようと思います!
アーメン

2017年1月24日火曜日

選ばれた民に伝えられたのは「すべての民のための神」

ちいろば先生「旧約一日一章」より

エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。
(創世記36章1節)

ここにはエサウつまりエドムの系図が羅列されている。
しかし彼はすでに神の救いの歴史からはずれている。
なのになぜ、神の言葉なる聖書に記されているのであろうか?
その理由は、聖書に記されている神は全世界・全宇宙の神であるということ。
イスラエルは神の救いの御業(みわざ)遂行の為に召された僕(しもべ)にすぎないということ。

神は一人の滅びるのも望みたまわない方である。
私たちはともすると、神は自分だけの神のように思いやすい。
しかしクリスマスの夜、天使が羊飼いに告げて語った言葉は「全ての民に与えられる大きな喜びをあなた方に伝える」ということであった。
いま一度、神は「すべての民」の神であることを再確認し、このすべての民の神のみこころを伝える器としての私たちの使命を新たにしたいものである。

2017年1月18日水曜日

神様は愛で出来ている

神なんかいない!
わたしが成し遂げた。
と、あなたは言う
神さまがつくられた大地を踏みしめ
神さまがつくられた大気を吸って
神さまがつくられた陽光を浴びて
神さまがつくられたあなたは叫ぶ
「神なんかいない!」
そんなあなたを
神さまは抱きしめています
なぜなら
神さまは愛で出来ているからです
神さまの差し出すものは愛です。
なぜなら
神さまのご性質は愛だからです。
だから
神さまの差し出すものは
愛しか出てこないのです。

ほんとうの所有者からのメッセージ

目を覚ましていなさい
備えていなさい
わたしはすぐにでも帰ってくる
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いただきました、ご主人からのメッセージ

2017年1月7日土曜日

聖書が語る三つのビジョン

神のビジョン -聖書の語る三大ポイント-高原剛一郎
https://www.youtube.com/watch?v=ax7EF6zgKOw&t=1011s
ご注意)
以下の文面は作者の承諾を得ずに自分の学びのため勝手に書き起こしたものです。
本物はリンクをクリックすれば視聴することができます。
ぜひお勧めします。
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皆さんに紹介したい聖書というのは、神のあたまのなかにあるビジョンが描かれている本です。
この聖書の中には、神様のビジョンが書いてある。
どんなビジョンかというと、どんな人であっても新しく作ることができる。
人生にやり直しはある。
全部その罪をタダで許し、その人に無制限の祝福を注ぎ、永遠の命を与え、そして永遠の天国の永住権をタダで与えることができる。
・・というビジョンです。

ところが良すぎる話しって何か裏があるんじゃないか、警戒してかえって信じようとしないというのが多いんですよね。
今日は聖書が語る三つのビジョンを一緒に学びましょう。

新約聖書・テモテ第一の手紙2章5~6節より
2:5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

ここに三つのことが書いてあるのです。
1番目、神は唯一です。聖書で語る神、イスラエルの神は、人を創った作者、あなたの創り主、この宇宙の第一原因者、この世界の作者である方のことを聖書では創造主、God、神様とよんでいるのです。「人がつくった神」・「人を創った神」、(が)と(を)で全然違う。「人が作った神」は人を救うことができません。しかし「人をお創りになった作者」は作品が壊れた時に、修理することができるんじゃないですか?
あなたには作者がおられる。それが創造主なる神である。というのですが、この神様は目で見えないんですよね。この目で見えない神様をどうやって信じることができるんだろうか。
日本では進化論が繰り返し、繰り返し言われているんですよね。まぁ嘘でも百回聞いていたら本当かなと思ってしまう。日本で進化論が入ってきたのは130数年前です。明治維新の後で、この進化論を導入するんです。その当時アメリカでは、神がお創りになったということを教えており、進化論を教えることは禁じられていた。ヨーロッパでは神はこの世界をお創りになられたという考えと、この世界は偶然進化したのだとする進化論の両方を教えていて、どちらを採用するかは学んだ生徒に任されていた。フェアです、これは。ところが日本では、世界中で日本だけ、はじめっから進化論以外をいっさい教えることがなかったのです。進化論しか教えなかった理由は、明治時代の天皇は神であり、聖書でいうように天皇まで被造物であっては都合が悪いからです。130数年に渡って進化論の教育がなされてきました。それ以外聞いたことがないので、人は神が作ったと聞くと、信じられないのです。
でもね皆さん、進化論で説明のつかない自然のメカニズムってたくさんあるんですよ。そのうちの一つがハナバチラン(花蜂蘭)という植物です。この植物の花は雌の花蜂そっくりの花びらをしているのです。あまりにもそっくりなのでオスの花蜂がとまって交尾しようとしてモゾモゾするうちに受粉するのです。ふつうは気づくじゃないですか途中で、だけどもメスの花蜂そっくりのうぶ毛が生えているので、ますますこれは本物だと思うわけなんです。それでも最終的には偽物だと気づいてしまうわけなんですが、隣に花があるとまた騙されてしまう。懲りんやっちゃなー、なんでそうなるかというと、この植物はメスの花蜂がだすフェロモンそっくりの化学物質を放出しているのです。このフェロモンというのは異性を引きつけるホルモンですよ。ここで考えて欲しいのは、植物には視神経がないです。だから花蜂そっくりの形をしたら花蜂のオスがやってきて蜜を吸いにくるわ、おびき寄せられるわーというふうに考えようにも見る能力がないので真似ることができないのです。それから花は匂いを出すことはできますけども、そもそも匂いを嗅ぎ分けることはできないです。だからどんな匂いを出したら花蜂のオスをおびき寄せることができるのか判らない。自分ではどうしても花蜂のオスを引き寄せるようには出来ない。にもかかわらず、花蜂のオスを引き寄せるのにぴったりのデザインをしているのです。これを合理的に説明しようと思ったら、花蜂を知っていて、花蜂をどのように引きつけたらいいのか知っている神が花をデザインしたと考えるのが一番妥当だと思うのです。
進化論によれば植物が出来てから昆虫ができるまで3億年かかるといいます。3億年待ってたらね、枯れる。3億年も待たんかって3週間も待てば枯れるんじゃないですか。
この世界はトータルにデザインされているのです。トータルにデザインされているのならば、デザイナーがいると考えるのが妥当なんじゃないでしょうか。私たちの作者、自然界の作者がおられる、その作者のことを、聖書では創造主と語るのです。

第2番目のポイント、また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
神と人とをむすぶ仲介者、この方も唯一で、イエス・キリストであるというふうに語っているのです。
この仲介者というのは、つなぐ人という意味です。宇宙ステーションで半年もの永きに渡って分刻みのミッションをこなして、パニックにならずに済んでいるのは、自分をサポートしてくれる大勢の専門家集団とつながっていることを知っているからなのです。地上においても、何があっても自分を支え守ってくれる大きな力をどこにも持っていなかったら、その人は弱いと思います。じつはこの創造主という方は、作者であって、私たちを支えることができる、私たちに祝福を与え、智慧を与え、私たちにアドバイスし、私たちの人生を実りあるものにすることが出来るお方であるのですが、ところが人間というのは、この神様と切れているんです。「俺の人生がだ、神様なんか関係ないよ」。神なんかいないという人生観で生きているので、地球上にいながら、時に苦しくてたまらない、行き詰まってどうしようもない、というふうになるのではないでしょうか。創造主との関係が切れているということが大きな問題なのです。この切れた関係のことを聖書では「罪」だと語るのです。

第3番目のポイントです。
2:6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
キリストが来られた目的、それは私たちの罪を償う為に、命を捨てる為にこの世界に送られた、旧約聖書に予言されていたメシヤ、救い主なのだということを語っているのです。
ところで、どんなに自分の思い通りに生きてきた人であっても、いよいよ命のともし火が消えようとする時に、全体重を預けることのできる誰かを求めるのではないでしょうか。もう自分で踏ん張ることが出来ない、もう自分で頑張ることはできないという時に、自分の全存在を下から支えて、背負って、保ってくれる人、自分の全てを委ねて、任せることが出来る、誰かを求めるのではないかと思うのです。皆さん、どうでしょうか、自分の全存在を任せることが出来る存在をお持ちでしょうか。
実は創造主の神様から離れた人間は、死に向かって進んでいます。そして人間は死んで終わりではありません。いちど死ぬことと、死後に永久に裁きを受けることが定まっていると聖書に書いてあります。この、死に向かっている人間を永久の滅びではなくて、永遠の命のほうに、私たちを導き入れる為に、どうしても神様の側でしなければならないことがあったのです。それは、私たちの罪を帳消しにするということです。罪を持ったまま、罪なき永遠の天国に行くことはできません。この罪をわたしの代わりに背負って、わたしの代わりに罪の罰をぜんぶ受ける為に、神はイエス・キリストという方を送ってくださいました、というのです。それが、「すべての人の贖いの代価」という言葉の意味なんです。キリストが、私たちの贖いの代価として身代わりとなって死んでくださった、その死んだ現場が十字架です。
あなたの為に死んでもいいという友人がいますか?
キリストはあなたの為に命を捨てる為に、わざわざ来てくださった方、そして命を捨てて三日目に死を突き破って、蘇って、復活してくださった方、このイエス・キリストを自分の救い主として信じるものは、誰一人として滅びることなく、永遠の命を持つことが出来ると、聖書は約束してくれるのです。ヤクザの親分は子分のために代わりに刑務所に行くことさえします。しかし神は自分に敵対する者にさえ、贖いの代価としてキリストを送ってくださっています。この方こそは本物の親分、本物の主です。
皆さん、身代わりの死、そして復活はそういう意味です。
ぜひ、このイエス・キリストをよくお考えになって、ここに真理があると思われたなら、この方を救い主として受け入れてください。

心からお薦めしたいと思います。