2013年10月9日水曜日

ダビデの詩篇、神の恵み

詩篇103篇3-5節

主は、あなたのすべての咎を赦し、

あなたのすべての病をいやし、

あなたのいのちを穴から贖い、

あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

あなたの一生を良いもので満たされる。

あなたの若さは、わしのように、新しくなる。

2013年1月5日土曜日

幻のガリラヤ湖

アンドロイド携帯のホーム画面を新しいのに変更し、ライブ壁紙などを楽しんでいた。
そのまま充電しながら放置していたら背景が勝手に変化していた。
青い空と青い水、陸と海を中央で分けている線上に背の低い山のラインが見える。

(近いイメージのものを掲載)

「おや? 変だな。」と思った。
勝手に画像が変わっていたからだ。
とても綺麗だから、そのままにしようと思ったのだが、ライブ壁紙をいろいろ検討して
いる最中だったので変更しようと思った。
そのときまた、「変だ!」と思った。
元の画像がどこにも存在していなかったからだ。
???
メモリーをパソコンから検索してみたが、あの画像は存在していなかった。

ヨハネの福音書を読んでいるとき、ふと気になったので、カリラヤ湖をグーグル・
アースで呼び出し、風景写真を見てみた。
そして・・「あ!!」
そう、あの不思議な画像は、ガリラヤ湖のものだ。
しかし、勿論そうであるのだが、同じ作品は見つけられない。

やはり、そうだったのですね。
イェス様・・・

ありがとうございます。
美しい風景を見せてもらいました。
もう一度見てみたいです。
幻のガリラヤ。

もう行くしかないのでしょうか。

主に在りて
      アーメン


2012年12月4日火曜日

マラキ書 3章10節


十分の一をことごとく、

宝物倉に携えて来て、

わたしの家の食物とせよ。

こうしてわたしをためしてみよ。

─ 万軍のは仰せられる。 

わたしがあなたがたのために、

天の窓を開き、

あふれるばかりの祝福を

あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。


2012年11月26日月曜日

幻(まぼろし)

幻(まぼろし)とは・・・
神様が誰かに、他の方法では知ることのできないメッセージを示すのに用いる方法である。
神様は、メッセージを目に見える画像によって伝えるのに、幻を用いられる。
しばしば神様は、人が眠っているときに幻を与えている。(エゼキエル書 8章1節~4節)
今後、自分の見た幻を記録していこうと思う。








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初めて大津キリスト教会に行くことになった9月頃は、
明確な幻ではなかった。
心のなかで「備えよ、備えよ」との声が衝動となって、
わたしを突き動かしていた。

ちょうど、災害看護を学んでいたので、大きな災害に
備えよ、という意味だったのか。
それとも、洗礼を受けてクリスチャンとして備えなさい
という意味だったのか。
聖書でいうところの「大艱難」に備えよということなのか。
いや・・・あたまで考えることはよそう。
主のお導きのままに・・・

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2012年10月28日
洗礼式当日の朝方のこと。
その朝方に見た夢はおそらく幻であったと思っている。
夢のなかでは、再婚を約束した女性と婚前旅行をしていた。
旅館らしきなかにある風呂場で、ふたり裸になって入ろうと
していた。
なんとなく変だと気づき、これは姦淫の罪なのではないか、
と夢のなかで気づいた。しかし、まあいいか、みたいな
言い訳をしながら湯ぶねに入ろうとしていた矢先、
戸がガバっと開いて、ひとりはよく知っている患者さんの姿で、
もうひとりは信頼を寄せている知っている人物の姿で、
ふたりがかりで入ってきて、「違う! そうじゃないだろう!」、
と真剣な表情で目の前でバシバシ湯ぶねを叩いている。
「いや~、そうだよね」と私は同意したように思う。
同伴していた女性は悲しんでおり悔しそうでもあった。
そのうち目が覚めたが、この幻では姦淫の罪を映像で示して
おられたのだと思った。

同伴した女性はサタン側の女で、わたしを試したのかもしれない。
わたしが堕ちようとしたところへ、聖霊様がいらっしゃった。
とまあ、そんなところだろうか。
洗礼式に備え、必死に1週間の禁欲生活をしていたので、
最後に試しがきたと思っている。

夢のなかで「姦淫の罪」と、明確に理解しているところなど、
あきらかに聖霊様のお導きでメッセージを受けていると思われる。

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2012年11月1日に見た夢

誕生日のプレゼントに子馬をいただいた。
あるいは、預かったのか。
世話をするように言われたと思う。
・・・何人かの人々と何かの話しをしながら、
結局お世話をしているシーン。
何を象徴しているのだろう?
「大きく育ててみなさい」と言われた気がする。
「だいじょうぶ、出来るから」とも言われた。

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2012.11.23 米村牧師宅にて、この馬の幻のことを相談し、
アッシジのフランチェスコが自分のからだをロバと
言っていたことを教わった。
アッシジの聖フランチェスコといえば、マザー・テレサが崇拝する
聖人である。
ここにきてマザーとの絆を想う。
ありがとうございます。
マザー、賜物はしかと受け取りました。

兄弟ろばとは・アッシジのフランチェスコの言葉で、
彼は自分のからだを兄弟ろばと呼んだ。
ろばは有用で頑丈だが、強情で怠け者で絶えずきちんと
制御していなくてはならない。
肉体は、このろばのようだというのである。

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罪深きわたしをも下僕として使われる神さま。
主と兄弟の契を許された私に天の父様は命じられました。

(朝の祈り)
「すべては主の御心のままに」
「そのように、なりますように」
「どうか、主の下僕であるこの身を用いて下さい。」
「天の父様の望まれるままに実現していきますように」
「アーメン」

(夕の祈り)
「天なる父様」
「今日も、あなた様は望まれるままに行われました。」
「そのことを信じ、感謝します」
「そして明日も望まれるままに行われますように」
「アーメン」

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2012年11月5日の夢
岩山を旅している。
ふたりづれ。
男と女
男が意識ない間、女は男を転がして移動させた。
だから傷だらけ。
男が目が覚めたとき
「なんでこんなに自分は傷だらけなんだ」


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2012年11月18日日曜日

本日の学び(2012-11-18)


2012-11-18
本日の学び

(第一部)
コリント人への手紙・第2 5章10節を読んで

成功したか失敗した失敗したかではなく、
主に喜ばれること
人それぞれに証明(使命)をもらって、
生まれてきている。
生まれた、ということ自体、
証明を持っている、ということ。
・リビングストン
人はその使命を果たすまで死ねない。
・神から与えられた「成すべきこと」がある。
神は「幸でしたか、不幸でしたか」ではなく
「使命を果たしましたか?」
と聞かれます。
・使命はすでに持っております。
5タラント、2タラントの話しがありました。
・成すべきことは、向こうからやってくる。
・考え、思い巡らさなくても、
今日従事することに全力を尽くすこと。
・使命は行動を求める。
・一歩を踏み出したカエルが「何の用事だったっけ?」
となったように、私たちも裁きの場において、
「生まれて何の使命があったんだっけ?」
とならぬようにしたいものである。


<使命を行動で示すには>
・成すべきことがわかっていること
・まず一歩を踏み出すことで、
神さまは後押しをして下さる。
・やれる事から先にする。
いっぺんに行おうと苦しむ必要はない。
・まずは今日のためだけに働く、という潔さが必要である。

(第二部)
・神がお作りになったものは、すべて良いものであり、
感謝して受け取るならば、何ひとつ捨てるものはない。
・感謝に変えるには
・これは神がなさったことだ。と思うこと
・意味があるからなさることだ。
・それは成長するため。

2012年10月28日日曜日

信仰生活がはじまるまで


信仰生活がはじまるまで

炭鉱の町・大牟田に生まれました。
父は炭鉱夫でした。
当時、三井三池炭鉱で発生した労働争議は
死者まで出す戦後最大の労働争議へと発展
しました。
そんな中で母は私を産みました。
仕事一途な父と、家庭的な母のもとで
いま思えば何不自由ない少年時代を過ごさせて
もらいました。

地元の中学を卒業、技術者の道を目指すため
有明高専へ入学、当時すでに劇的進化を始め
ていたコンピュータの原理を学んで卒業し、
東京の富士通・電算センター勤務となりました。
その後、関連会社で熊本勤務になりましたが、
システム・ソフトウェアの開発に20年以上
従事しました。その間に結婚し、ふたりの娘にも
恵まれ、幸せな家庭生活を送っておりました。

なんだか順風満帆で、幸せそうで、このまま
平穏無事に人生を全うしても良さそうな気がします。
だけど、神さまは許して下さいませんでした。

そもそも、東京で暮らし始めた頃から違和感が
あったのです。
憧れていた職業に就き、恵まれた生活が保障されて
いても、生きている実感がまったくありませんでした。
それでも自分の才能は開花し、プログラマーとして
成功を修めたかのように思えました。

そしてとうとう、仕事面で不思議な現象が起きはじめた
のです。
泉のように溢れだしていた発想は、突然枯れた井戸の
ように、まったく出なくなりました。
いま思えば、すでに聖霊のお導きを受けていたと
いうことなのでしょうか。

道を閉ざされ、何をしようにも全部裏目に出て、
ひとりぽっちになってしまいました。
もう、やるべき事はやり尽くし、自暴自棄になって
どうでも良くなったときに、またもや不思議なお導きが
ありました。
「看護師になってみない?」と知人から誘われ、
看護の道を歩むことになったのです。
ふつうに考えると男性であることと高齢であることで、
なかなか看護学校など考えないと思います。

ところが不思議なことに、心のなかで、進むべき道を
求めましたところ、必要なものが必要なときに与えられ、
するすると何の障害もなく看護への道が開かれていきました。
皆さんから「勉強が大変でしょう?」、などとよく尋ね
られるのですが、勉強ができるような環境と頭脳を、
神さまからギフトとして頂きますので、まったく問題あり
ません。

このようにして、生まれながらの才能が閉じられ、これまで
の人生が終わってしまいました。
ある意味、これまでの私はもう死んだ、ということです。
そして、これからは人様に奉仕することで生きよと、神さま
から申し渡されたのです。

それが私に唯一残された道、看護師への道だったのです。
私はこれを神さまからの賜物、ギフトと受け取りました。

現在、看護学校の2年生です。
あと1年とちょっとで晴れて卒業し、看護師として活躍し
ようと思います。
あのマザーテレサのような愛の人になり、生きていきます。

じつは洗礼を受けてクリスチャン生活がはじまったのは、
今年の10月からなんです。
それまではインターネットやラジオから流れる宣教師の
説き証しを聞いていただけで、聖書をもらっても何が書いて
あるのかまったく判りませんでした。

それがあるとき、突然判りだしたのです!
主イエス・キリストが、罪深いわたくしの罪をも背負って、
十字架にかかり、墓に葬られ、三日目に復活した、あの
神の御子であり、救い主であると信じられるようになって
いました。

それからは聖書に何が書いてあるのか、よく判るようになり、
解釈が必要なことろも調べて理解するようになりました。

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<自分には関係のないことだと思っていた>

そもそもなんで、2000年前のイエス・キリストが
自分に何の関係があるものか、それこそ宗教じゃないか、
と私も最初はそう思っていました。

ところがキリストは単なる過去の偉人ではなく、
現代に生きておられ、私たちの罪を赦し、永遠のいのちを
与えてくださる方だと判ってしまったのです。
大変なことになってしまいました!

キリストの死が、すべての時代の人の罪を赦す力を持っている
ということを、次の2つの点で理解することができました。

(1)神はすべてのことをご存じです。
 ヨハネによる福音書は、
「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、
 言葉は神であった」
という1節からはじまっています。
このことを創世記と読み合わせていきますと、
どうやら人の子イエスという方は、神の言葉が私たちと同じ
肉の身の姿をとられた方なのだということが判ってきます。
ですから2000年後の私たちのことをも知っておられ、
その上でイエス・キリストを十字架にかけて私たちの罪を
解決しようとされたのが神の御計画であったのです。
その私たちの罪とは原罪とも言われ、生まれながらにして
勝手気ままに思い行動する人間の特性がありますが、
これを自由と勘違いしているところに、そもそも大きな間違い
があったということなのです。

(2)キリストは今も生きておられる
しかし、死んだままならば、何の力もないところでありますが、
イエス・キリストには復活され、今は天で私たちのために、
とりなしをしていて下さっておいでです。

ヘブル人への手紙7章24-25節
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、
変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、
完全に救うことがおできになります。
キリストはいつも生きていて、彼らのために、
とりなしをしておられるからです。

つまり、私たちが罪を悔い改め、「どうか赦してください」と
祈ると、イエス・キリストが父なる神にとりなして、
「わたしに免じて赦してやってください」と言ってくださる
のです。
普通、祭司は羊を犠牲にしましたが、
イエス・キリストはご自分を犠牲にしました。
これこそが十字架の死の意味なのだということが、
ほんとうに判ってきたのです。

イエス・キリストは今も生きておられ、わたしたちを見守って
いてくださいます。

このような経緯で、
わたしがイエス・キリストに自分の罪を告白するなら、
わたしの罪をも赦される、ということが判ってきました。

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<涙が溢れてしかたが無かった箇所>

マタイ18章12-14節
あなたがたはどう思うか。
ある人に百匹の羊があり、
その中の一匹が迷い出たとすれば、
九十九匹を山に残しておいて、
その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、
よく聞きなさい、
迷わないでいる九十九匹のためよりも、
むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、
これらの小さい者のひとりが滅びることは、
天にいますあなたがたの父のみこころではない。

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ヨハネの黙示録3章20節
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、
彼もまたわたしと食を共にするであろう。

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ヨハネによる福音書14章21節より
わたしの掟を受け入れ、
それを守る人は、
わたしを愛するものである。
わたしを愛する人は、
わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛して、
その人にわたし自身を現す。

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ヨハネによる福音書14章23節より、
イエスはこう答えて言われた。
わたしを愛する人は、
わたしの言葉を守る。
わたしの父はその人を愛され、
父とわたしとは
その人のところに行き、
一緒に住む。

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<毎朝祈りを捧げています>

聖霊に満たされる日々の祈り

愛する神さま、
私はあなたを必要としています。
私は今まで、自己中心の生き方をしていて、
あなたに対して罪をおかしてきました。
私の罪を許して下さい。
キリストが十字架にかかってくださり、
私の罪をも許してくださったことを感謝いたします。
いま一度、わたくしは、
キリストが私の心の王座につき、
私を支配してくださるよう願います。
あなたの命令と約束にもとづいて、
私を聖霊に満たしてください。
あなたが、私を聖霊に満たしてくださったことを信じて、
感謝いたします。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン

洗礼式 10月28日

嘉島の水が湧いている場所で洗礼を受けました。
皆さんが賛美歌を歌ってくださり、牧師様の祈りの言葉をいただいて、水に全身浸かり、
クリスチャンとして生まれました。

ハレルヤ!