あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
(ヘブル10章36節)
2016年7月28日木曜日
Lord's Prayer 主の祈り
Our Father, Who is in heaven,
Holy is Your Name;
Your kingdom come,
Your will be done,
on earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread,
and forgive us our sins,
as we forgive those who sin against us;
and lead us not into temptation,
but deliver us from evil. Amen.
(Matthew 6:9-13)
天にまします我らの父よ
Holy is Your Name;
Your kingdom come,
Your will be done,
on earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread,
and forgive us our sins,
as we forgive those who sin against us;
and lead us not into temptation,
but deliver us from evil. Amen.
(Matthew 6:9-13)
天にまします我らの父よ
願わくば
御名をあがめさせたまえ
御国をきたらせたまえ
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯すものを我らが許すごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らを試みにあわせず
悪より救い出したまえ
アーメン
(マタイ6章9-131節)2016年7月27日水曜日
主の自慢の子として
これは私たち兄弟姉妹のことを、主ご自身が公言されておられる姿です。
教会の中で主は、私たち兄弟姉妹のことを賛美してくださっています。
すっごいことなんですよ。
王の王・主の主に「私の兄弟たちよ」と言われたわけですから、他に何もいりません。
主は仰いました。「私は彼に信頼する。」「見よ、わたしと神が、わたしに賜った子たちは。」、主についていきます。どこまでも。
heb2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
heb2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
heb2:13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
教会の中で主は、私たち兄弟姉妹のことを賛美してくださっています。
すっごいことなんですよ。
王の王・主の主に「私の兄弟たちよ」と言われたわけですから、他に何もいりません。
主は仰いました。「私は彼に信頼する。」「見よ、わたしと神が、わたしに賜った子たちは。」、主についていきます。どこまでも。
heb2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
heb2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
heb2:13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。
(ヘブル人への手紙2章11〜13節)
主よ
喜んでお受けします。
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
成熟を目ざして歩んでいく
み言葉を本日、いただきました。
ヘブル人への手紙6章
heb6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、
heb6:2 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
heb6:3 神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。
heb6:4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
heb6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
heb6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
heb6:7 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
heb6:8 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
heb6:9 だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
heb6:10神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御吊のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
heb6:11そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
heb6:12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
heb6:13 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
heb6:14 こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」
heb6:15 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。
heb6:16 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。
heb6:17 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
heb6:18 それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
heb6:19 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
heb6:20 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。
ヘブル人への手紙6章
heb6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、
heb6:2 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
heb6:3 神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。
heb6:4 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
heb6:5 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
heb6:6 しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
heb6:7 土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
heb6:8 しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
heb6:9 だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。
heb6:10神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御吊のために示したあの愛をお忘れにならないのです。
heb6:11そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
heb6:12 それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。
heb6:13 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、
heb6:14 こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」
heb6:15 こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。
heb6:16 確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。
heb6:17 そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。
heb6:18 それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。
heb6:19 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
heb6:20 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。
主よ
約束を思い起こさせていただき感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月25日月曜日
意訳に挑戦 「With the Word」創世記19章
"With the Word" written by Warren W. Wiersbe
GENESIS 19
Because Jesus did not "feel at home" with Lot in Sodom, He sent the two angels to look into the situation for Him. The angels didn't walk the streets or visit the public places of amusement. They visited a professed deliver to see what his home was like. Lot's wife and family were far from the Lord. The salt had lost its flavor(Matt. 5:13), so what hope was there for the city?
Abraham was visited when it was light, but Lot received the angels at evening(1 John 1:5-10). Abraham's household obeyed his word as he served the Lord
, but Lot lingered and had to be dragged out of the city. Abraham, who lived outside Sodom, had more influence than Lot, who lived in the city.
Lot tried first to plead with the men at the door, and then to bargain with them. God's approach was to judge them. They loved darkness rather than light(John 3:19).
God did not find ten righteous people, but He spared Lot and his wife and daughters for the sake of Abraham. While we may hate the sins of Sodom, keep in mind that all those people went to eternal judgement.(See Judge 23.)
Lot had no tent or altar, and he ended up in a cave committing terrible sins. Were it not for 2 peter 2:7-8, we might doubt that he was a believer at all.(See Ps. 1:1)
意訳してみた。
「With the Word」ウォーレン w.ウィアーズビィ
創世記19章より
イエス様(ここでは受肉前のキリスト)はソドムに住むロトが穏やかでないのを知られ、状況を見るため二人の御使いたちを送られた。御使いたちは街を歩いたりせず、また公共広場を訪れたりもしなかった。御使いたちはロトの家がどんな状況かを見るため彼の正面玄関から訪れた。ロトの妻と家族は主から遠のいてしまっていた。主は、あなたたちは地の塩となりなさいと言われたが、彼らはすでに地の塩としての塩気をなくしてしまっていた(参考:マタイ5章13節)のであるから、ソドムの街に何の希望の光があるだろうか。
アブラハムがソドムを訪れた頃はそうではなかった。しかしロトは御使いたちからソドムの街に闇が迫っていることを告げられていた。アブラハムたち一行は主のみ声に聞き従って行動していたが、ロトはぐずぐずしていたので街から引きずり出すしか手はなかった。ソドムの街の外にいたアブラハムは、街の中にいるロトよりも状況がよくわかり正しく行動していた。ロトは戸口の前に立ち、ソドムの男たちに嘆願し交渉を試みた。神はロトを通してソドムの人々にアプローチをかけられたのである。しかし彼らは光よりも闇を愛した。(ヨハネ3章19節)
神は10の義人を見出すことはなかったが、アブラハムの義のゆえにロトと彼の妻そして娘たちを災いから逃れさせた。私たちはソドムの罪を忌み嫌うが、ソドムの人々が永遠の裁きにあうことをおぼえておかねばならない。ロトはその後、主の天幕を張らず祭壇を作らず、ただ洞窟で恐怖に怯えて暮らすのみであった。
第二ペテロの手紙を参照してください。
(2peter 2:7)また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
(2peter 2:8)この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
この詩では義人であるかのようなロト、しかし全く彼を疑いたくなるような行動であった。
本日の学びを感謝します。
アーメン
GENESIS 19
Because Jesus did not "feel at home" with Lot in Sodom, He sent the two angels to look into the situation for Him. The angels didn't walk the streets or visit the public places of amusement. They visited a professed deliver to see what his home was like. Lot's wife and family were far from the Lord. The salt had lost its flavor(Matt. 5:13), so what hope was there for the city?
Abraham was visited when it was light, but Lot received the angels at evening(1 John 1:5-10). Abraham's household obeyed his word as he served the Lord
, but Lot lingered and had to be dragged out of the city. Abraham, who lived outside Sodom, had more influence than Lot, who lived in the city.
Lot tried first to plead with the men at the door, and then to bargain with them. God's approach was to judge them. They loved darkness rather than light(John 3:19).
God did not find ten righteous people, but He spared Lot and his wife and daughters for the sake of Abraham. While we may hate the sins of Sodom, keep in mind that all those people went to eternal judgement.(See Judge 23.)
Lot had no tent or altar, and he ended up in a cave committing terrible sins. Were it not for 2 peter 2:7-8, we might doubt that he was a believer at all.(See Ps. 1:1)
意訳してみた。
「With the Word」ウォーレン w.ウィアーズビィ
創世記19章より
イエス様(ここでは受肉前のキリスト)はソドムに住むロトが穏やかでないのを知られ、状況を見るため二人の御使いたちを送られた。御使いたちは街を歩いたりせず、また公共広場を訪れたりもしなかった。御使いたちはロトの家がどんな状況かを見るため彼の正面玄関から訪れた。ロトの妻と家族は主から遠のいてしまっていた。主は、あなたたちは地の塩となりなさいと言われたが、彼らはすでに地の塩としての塩気をなくしてしまっていた(参考:マタイ5章13節)のであるから、ソドムの街に何の希望の光があるだろうか。
アブラハムがソドムを訪れた頃はそうではなかった。しかしロトは御使いたちからソドムの街に闇が迫っていることを告げられていた。アブラハムたち一行は主のみ声に聞き従って行動していたが、ロトはぐずぐずしていたので街から引きずり出すしか手はなかった。ソドムの街の外にいたアブラハムは、街の中にいるロトよりも状況がよくわかり正しく行動していた。ロトは戸口の前に立ち、ソドムの男たちに嘆願し交渉を試みた。神はロトを通してソドムの人々にアプローチをかけられたのである。しかし彼らは光よりも闇を愛した。(ヨハネ3章19節)
神は10の義人を見出すことはなかったが、アブラハムの義のゆえにロトと彼の妻そして娘たちを災いから逃れさせた。私たちはソドムの罪を忌み嫌うが、ソドムの人々が永遠の裁きにあうことをおぼえておかねばならない。ロトはその後、主の天幕を張らず祭壇を作らず、ただ洞窟で恐怖に怯えて暮らすのみであった。
第二ペテロの手紙を参照してください。
(2peter 2:7)また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
(2peter 2:8)この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
この詩では義人であるかのようなロト、しかし全く彼を疑いたくなるような行動であった。
本日の学びを感謝します。
アーメン
主の力強いみ手に引きげられ
ちいろば先生「旧約一日一章」より
主は彼にあわれみを施されたので・・・
(創世記19章16節)
主がロトの手と彼の妻の手、娘の手をとって連れ出し、町の外においたので、彼らは滅びの町ソドムから脱出する事が出来た。聖書はこの事を、「主は彼にあわれみを施されたので」と説明している。
手をとって連れ出し、町の外におかれる、ということはロトや彼の家族にとって必ずしも喜びではなかった。人間だれでも強制されると嫌なものである。信仰生活においても、できれば自分の自由意志で信仰生活をしたいと思う。
「今はそっとしておいてください。そのうちにまた気が進むようになったら、自分から求めていきますから」、しかし、ロトとその家族が主に手を取られて連れ出されることなしにみ言葉に従い得なかったように、私たちも助け主である主の強制なしでは、決して十字架を負うことはできない。
私たちは、み言葉の迫りからたえず自由な余地を残しておこうとする。み言葉にためらうことが悪いことではない。主の語りかけをたわむれと思うこともある。それらは誰もが持つ思いである。しかしそこに立たず、まず神の力強いみ手のうちに身をゆだね、そこから出させていただくことが教会生活において重要である。
主よ
「狭い門を通りなさい」と主に言っていただいたことを思い出します。
今のままでいいじゃないかと、楽な方をとってしまうのが私たちの常であります。
どうか主よ
道をお示しください。
あと4年です。
主の小麦の種となって豊かな土地に落ちますように。
地に落ちた種は死ぬことによって豊かな実りをもたらします。
どうぞ私をお遣いください。
主に守られ、身をゆだねてまいります。
感謝して主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
主は彼にあわれみを施されたので・・・
(創世記19章16節)
主がロトの手と彼の妻の手、娘の手をとって連れ出し、町の外においたので、彼らは滅びの町ソドムから脱出する事が出来た。聖書はこの事を、「主は彼にあわれみを施されたので」と説明している。
手をとって連れ出し、町の外におかれる、ということはロトや彼の家族にとって必ずしも喜びではなかった。人間だれでも強制されると嫌なものである。信仰生活においても、できれば自分の自由意志で信仰生活をしたいと思う。
「今はそっとしておいてください。そのうちにまた気が進むようになったら、自分から求めていきますから」、しかし、ロトとその家族が主に手を取られて連れ出されることなしにみ言葉に従い得なかったように、私たちも助け主である主の強制なしでは、決して十字架を負うことはできない。
私たちは、み言葉の迫りからたえず自由な余地を残しておこうとする。み言葉にためらうことが悪いことではない。主の語りかけをたわむれと思うこともある。それらは誰もが持つ思いである。しかしそこに立たず、まず神の力強いみ手のうちに身をゆだね、そこから出させていただくことが教会生活において重要である。
主よ
「狭い門を通りなさい」と主に言っていただいたことを思い出します。
今のままでいいじゃないかと、楽な方をとってしまうのが私たちの常であります。
どうか主よ
道をお示しください。
あと4年です。
主の小麦の種となって豊かな土地に落ちますように。
地に落ちた種は死ぬことによって豊かな実りをもたらします。
どうぞ私をお遣いください。
主に守られ、身をゆだねてまいります。
感謝して主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月24日日曜日
御名があがめられますように
ちいろば先生「新約一日一章」より
主よ、わたしをお助けください。
(マタイ15章25節)
イエス様が宣べ伝えた教えは、従来の宗教とは全く違う新しいものである。そういう新しい教えを私たちは聞かされており、新しい世界、神の国は近づいたという世界に招き入れられているのである。私たちはそういう新しい世界に招き入れられておりながら、ともすると古い世界にとどまり、新しい世界にふさわしい生活をしようとしないことが多いのではないか。
第一に、先祖からの言い伝えと新しいキリストの到来との関係がある。わたしたちは、なんの根拠もないのに、昔から守ってきたから守るのがあたりまえだという気持ちで、そういうものにとらわれて生活している場合が多い。イエス様は私たちをそういうものから解放されるかたである。解放することは、その根本原理を理解すること。言い伝えそのものが目的になってしまうと、その奴隷になってしまう。
私たちキリスト教信者のなかでも、酒やタバコをのんだりしないということが一つのしきたりになってしまい、酒やタバコをのむ人はもう信仰はないのだとすることがあるらしい。しかし酒やタバコは信仰とあまり関係がない。信仰とは神を信じることであり、禁酒禁煙ができなければ天国に入れないというものではない。神から愛された者として証ししていくため、神から与えられた自分の体を大切にしていこうとする考えがあるのであって、禁酒禁煙が目的になっていたら、それは違うと思う。
神の前に私たちがどのように生きているかが大切なのであって、戒めをどのように守るかが大事なことではないというのが、イエス様が言われた精神である。神は私たちに神の目的のためにいろいろなものをお与えになる。「おまえはこれから一生病床にあって苦しい生活をしていけ」と言われるならば、それを感謝して受けとっていくのが私たちの信仰である。神を利用して自分が楽しい生活を送るというような、自己中心であってはならない。
主よ
私たちの信仰は自分がなくなるというか、自己中心ではなく、イエス様が主の祈りで教えられたように、御名があがめられますようにという信仰であることを学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
主よ、わたしをお助けください。
(マタイ15章25節)
イエス様が宣べ伝えた教えは、従来の宗教とは全く違う新しいものである。そういう新しい教えを私たちは聞かされており、新しい世界、神の国は近づいたという世界に招き入れられているのである。私たちはそういう新しい世界に招き入れられておりながら、ともすると古い世界にとどまり、新しい世界にふさわしい生活をしようとしないことが多いのではないか。
第一に、先祖からの言い伝えと新しいキリストの到来との関係がある。わたしたちは、なんの根拠もないのに、昔から守ってきたから守るのがあたりまえだという気持ちで、そういうものにとらわれて生活している場合が多い。イエス様は私たちをそういうものから解放されるかたである。解放することは、その根本原理を理解すること。言い伝えそのものが目的になってしまうと、その奴隷になってしまう。
私たちキリスト教信者のなかでも、酒やタバコをのんだりしないということが一つのしきたりになってしまい、酒やタバコをのむ人はもう信仰はないのだとすることがあるらしい。しかし酒やタバコは信仰とあまり関係がない。信仰とは神を信じることであり、禁酒禁煙ができなければ天国に入れないというものではない。神から愛された者として証ししていくため、神から与えられた自分の体を大切にしていこうとする考えがあるのであって、禁酒禁煙が目的になっていたら、それは違うと思う。
神の前に私たちがどのように生きているかが大切なのであって、戒めをどのように守るかが大事なことではないというのが、イエス様が言われた精神である。神は私たちに神の目的のためにいろいろなものをお与えになる。「おまえはこれから一生病床にあって苦しい生活をしていけ」と言われるならば、それを感謝して受けとっていくのが私たちの信仰である。神を利用して自分が楽しい生活を送るというような、自己中心であってはならない。
主よ
私たちの信仰は自分がなくなるというか、自己中心ではなく、イエス様が主の祈りで教えられたように、御名があがめられますようにという信仰であることを学びました。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月22日金曜日
なすべきことは神にささげること
ちいろば先生「新約一日一章」より
あなたがたの手で食物をやりなさい。
(マタイ14章16節)
第14章はヨハネの死、パンの奇跡、ガリラヤ湖でのイエスのことが記されている。
ヘロデは非常に気の弱い人間であった。ヘロデヤのことでヨハネから責められると悩みながらも、なおヨハネをかばい、喜んで教えを聞いていたのである。しかし一方では肉欲を楽しみ、ヘロデヤとの生活から逃れることができず、かといって自分を責めるヨハネを抹殺する勇気もない。真理にも忠実であり、この世にも忠実であろうとしたのがヘロデの姿から学びとることができる。しかし、そういう生き方はいつまでも続かない。信仰に徹底するということは、ある意味においてこの世から死にきらなければできるものではない。この世でも楽しい生活をしたいし、天国への行きたいというのは欲というものである。それはまるでシーソーの両端を同時に上げようとするようなものである。
イエス様は、「日々自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい」と言われたが、自分の十字架を背負うということは、自分がなくなることである。何かを自分が持たないというよりも、持つ自分さえもなくなってしまうということが十字架である。十字架というのは徹底的な自己否定である。それでこそ自分の十字架と言えるのである。そこに私たちの決断がある。信仰は決断である。ヘロデはその決断ができず、その結果、ついに真理を抹殺するという罪を犯し、それが心の中に残った。ヨハネを殺したことがヘロデを生涯苦しめた。このようなことからも、十字架の許しの素晴らしさを覚えたい。
13節からはパンの奇跡が語られている。夕方になり空腹になることは、この世の制約のひとつである。私たちの信仰は、このようにこの世の道理に直面する。「聖書を読みたいのに、時間がない」とよく耳にするが、「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに行かせてください」と弟子たちが言ったのと同じことが起きている。この世の道理に信仰生活が直面したときに、この世に従うならばそこに十字架はない。十字架は、この世の道理を突き抜ける。イエス様は「あなたがたの手で食物をやりなさい」の手とは神に捧げる手のことを言われたのである。教会のなかで旗振りをしたり先導したりする必要はない。マルタにならなくてもいい。私たちのなすべきことは神にささげていくことである。私たちが持っているものを神にささげたとき、神はそれを価値あるものに変えてくださり、私たちに賜るのである。そのようにして神から返されたものが、やがて5千人以上もの人々を飽かしめるような働きとすることができるのである。
主よ
自分の十字架を背負うとは、自分がなくなってしまうまで徹底的に神にささげ尽くすことであると知りました。
本日の学びをありがとうございます。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
あなたがたの手で食物をやりなさい。
(マタイ14章16節)
第14章はヨハネの死、パンの奇跡、ガリラヤ湖でのイエスのことが記されている。
ヘロデは非常に気の弱い人間であった。ヘロデヤのことでヨハネから責められると悩みながらも、なおヨハネをかばい、喜んで教えを聞いていたのである。しかし一方では肉欲を楽しみ、ヘロデヤとの生活から逃れることができず、かといって自分を責めるヨハネを抹殺する勇気もない。真理にも忠実であり、この世にも忠実であろうとしたのがヘロデの姿から学びとることができる。しかし、そういう生き方はいつまでも続かない。信仰に徹底するということは、ある意味においてこの世から死にきらなければできるものではない。この世でも楽しい生活をしたいし、天国への行きたいというのは欲というものである。それはまるでシーソーの両端を同時に上げようとするようなものである。
イエス様は、「日々自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい」と言われたが、自分の十字架を背負うということは、自分がなくなることである。何かを自分が持たないというよりも、持つ自分さえもなくなってしまうということが十字架である。十字架というのは徹底的な自己否定である。それでこそ自分の十字架と言えるのである。そこに私たちの決断がある。信仰は決断である。ヘロデはその決断ができず、その結果、ついに真理を抹殺するという罪を犯し、それが心の中に残った。ヨハネを殺したことがヘロデを生涯苦しめた。このようなことからも、十字架の許しの素晴らしさを覚えたい。
13節からはパンの奇跡が語られている。夕方になり空腹になることは、この世の制約のひとつである。私たちの信仰は、このようにこの世の道理に直面する。「聖書を読みたいのに、時間がない」とよく耳にするが、「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに行かせてください」と弟子たちが言ったのと同じことが起きている。この世の道理に信仰生活が直面したときに、この世に従うならばそこに十字架はない。十字架は、この世の道理を突き抜ける。イエス様は「あなたがたの手で食物をやりなさい」の手とは神に捧げる手のことを言われたのである。教会のなかで旗振りをしたり先導したりする必要はない。マルタにならなくてもいい。私たちのなすべきことは神にささげていくことである。私たちが持っているものを神にささげたとき、神はそれを価値あるものに変えてくださり、私たちに賜るのである。そのようにして神から返されたものが、やがて5千人以上もの人々を飽かしめるような働きとすることができるのである。
主よ
自分の十字架を背負うとは、自分がなくなってしまうまで徹底的に神にささげ尽くすことであると知りました。
本日の学びをありがとうございます。
主イエス・キリストの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月21日木曜日
主は道を示された
主は道をお示しになられました。
このたび転職を果たし、精神看護をするお仕事に戻ることが出来ました。
願いを聞き入れてくださり感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
ーーーーー
(祈っていた内容)
主よ
イエス様とともに行動できる職場が欲しいです。
新しい仕事をお与えください。
精神科に戻ってもいいです。御心のままに。
スタッフにも恵まれ
自分の役割が尊重される職場が必要です。
そこにはともに主がいてくださり、病める人々に手を差し伸べてくださいます。
どうか主よ
私の前に道をお示しになられてください。
その道を歩んでまいります。
どうか私をソドム・ゴモラにおける十人の義人のように、主におぼえられる者の一人としてください。
主よ
道をお示しになられたことを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
一粒の麦の種となって
ちいろば先生「新約一日一章」より
良い地にまかれたものとは、み言葉を聞いて悟る人のことであって・・・
(マタイ13章23節)
種のたとえであるが、種には命があるということ、み言葉には命があるということ。種に命がなければ、どんなに水をやっても肥料を施しても芽は出てこない。イエス様が繰り返し種の話しをされたのは、み言葉に命があるということ。
これはしたら儲かるのにとか、これをしたら喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。そういうふうに受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。また、種は種のままであれば成長していかない。種としては死ななければならない。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 (ヨハネ12章24節)
イエス様は神の祝福の種です。地に落ちて死なれたことによって、豊かな実を結びました。ここにみ言葉の成就があります。
主よ
イエス様が一粒の種となられ死なれたことにより、私たちに神の恵みすなわち福音のみ言葉が降り注がれました。
主はおっしゃいました。「あなたたちはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
しからば主よ、私も祝福の種となって、喜んで地に落ちます。
また人々に仕えることによって、福音のみ言葉が伝わりますように。
感謝を主に捧げ、お祈り申し上げます。
アーメン
良い地にまかれたものとは、み言葉を聞いて悟る人のことであって・・・
(マタイ13章23節)
種のたとえであるが、種には命があるということ、み言葉には命があるということ。種に命がなければ、どんなに水をやっても肥料を施しても芽は出てこない。イエス様が繰り返し種の話しをされたのは、み言葉に命があるということ。
これはしたら儲かるのにとか、これをしたら喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。そういうふうに受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。また、種は種のままであれば成長していかない。種としては死ななければならない。
「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 (ヨハネ12章24節)
イエス様は神の祝福の種です。地に落ちて死なれたことによって、豊かな実を結びました。ここにみ言葉の成就があります。
主よ
イエス様が一粒の種となられ死なれたことにより、私たちに神の恵みすなわち福音のみ言葉が降り注がれました。
主はおっしゃいました。「あなたたちはただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
しからば主よ、私も祝福の種となって、喜んで地に落ちます。
また人々に仕えることによって、福音のみ言葉が伝わりますように。
感謝を主に捧げ、お祈り申し上げます。
アーメン
2016年7月20日水曜日
イエスは律法を逆転させるかた
ちいろば先生「新約一日一章」より
宮よりも大いなる者がここにいる。
(マタイ12章6節)
旧約の世界の律法は、人間が神の前に正しく生きていくためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。
イエス様は律法を逆転させるかたである。そこに恵みの世界、福音の世界がある。イエス様の十字架の贖いを信じることによって、神は私たちすべての者を罪なき者とみなしてくださった。罪がなくなったという意味ではない。あくまで律法は生きている。神は公平な方であるから、律法の罪に対し死の裁きをくださねばならない。一方で神は人間を愛してやまない方である。だから許したいと思われた。だから神ご自身による自己矛盾を解決する手段が必要となられた。それがイエスの十字架の贖いである。私たちの罪によってイエス様が死ぬ必要があった。そして律法の罪はイエス様の死の十字架で贖われた。よって私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって罪がない者とみなされるようになったのである。しかしそれは罪がなくなったという意味ではない。あくまでもイエスを信じ仰ぎみる時に、罪がない者とみなされるということ。ここを勘違いすると、じゃあたくさん恵みをいただくために、もっと罪深き生き方をしよう。というおかしな論理展開が起きてしまう。そうではなく、恵みの福音を受ければ受けるほど、人は罪を犯したいと思わなくなる。頑張って修行をやらなくても清い者とみなされ、罪を犯す必要もなくなったのである。罪を犯したいとも思わなくなる。身近な例で言えば、パチンコに行きたくなくなる。タバコを吸う必要がなくなる。お酒を飲む必要がなくなる。暴飲暴食をする必要がない。遊びまわる必要もない。恵みの福音を受けて、ただニコニコしていられる。イエス様、サイコー!
注意)タバコが罪であるとか、お酒が罪であるという意味ではない。タバコやお酒にリラックス効果があることは認める。しかしそれを求めるあまり、他のすべきことをないがしろにすることが罪となる。恵みの福音を受けるとタバコやお酒のリラックス効果を求める必要がなくなるので、タバコやお酒が不要になるという意味で述べた。他の趣味・道楽においても同様である。
主よ
恵みを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
宮よりも大いなる者がここにいる。
(マタイ12章6節)
旧約の世界の律法は、人間が神の前に正しく生きていくためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。
イエス様は律法を逆転させるかたである。そこに恵みの世界、福音の世界がある。イエス様の十字架の贖いを信じることによって、神は私たちすべての者を罪なき者とみなしてくださった。罪がなくなったという意味ではない。あくまで律法は生きている。神は公平な方であるから、律法の罪に対し死の裁きをくださねばならない。一方で神は人間を愛してやまない方である。だから許したいと思われた。だから神ご自身による自己矛盾を解決する手段が必要となられた。それがイエスの十字架の贖いである。私たちの罪によってイエス様が死ぬ必要があった。そして律法の罪はイエス様の死の十字架で贖われた。よって私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって罪がない者とみなされるようになったのである。しかしそれは罪がなくなったという意味ではない。あくまでもイエスを信じ仰ぎみる時に、罪がない者とみなされるということ。ここを勘違いすると、じゃあたくさん恵みをいただくために、もっと罪深き生き方をしよう。というおかしな論理展開が起きてしまう。そうではなく、恵みの福音を受ければ受けるほど、人は罪を犯したいと思わなくなる。頑張って修行をやらなくても清い者とみなされ、罪を犯す必要もなくなったのである。罪を犯したいとも思わなくなる。身近な例で言えば、パチンコに行きたくなくなる。タバコを吸う必要がなくなる。お酒を飲む必要がなくなる。暴飲暴食をする必要がない。遊びまわる必要もない。恵みの福音を受けて、ただニコニコしていられる。イエス様、サイコー!
注意)タバコが罪であるとか、お酒が罪であるという意味ではない。タバコやお酒にリラックス効果があることは認める。しかしそれを求めるあまり、他のすべきことをないがしろにすることが罪となる。恵みの福音を受けるとタバコやお酒のリラックス効果を求める必要がなくなるので、タバコやお酒が不要になるという意味で述べた。他の趣味・道楽においても同様である。
主よ
恵みを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
イエスは律法を逆転させるかた
ちいろば先生「新約一日一章」より
宮よりも大いなる者がここにいる。
(マタイ12章6節)
旧約の世界の律法は、人間が神の前に正しく生きていくためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。
イエス様は律法を逆転させるかたである。そこに恵みの世界、福音の世界がある。イエス様の十字架の贖いを信じることによって、神は私たちすべての者を罪なき者とみなしてくださった。罪がなくなったという意味ではない。あくまで律法は生きている。神は公平な方であるから、律法の罪に対し死の裁きをくださねばならない。一方で神は人間を愛してやまない方である。だから許したいと思われた。だから神ご自身による自己矛盾を解決する手段が必要となられた。それがイエスの十字架の贖いである。私たちの罪によってイエス様が死ぬ必要があった。そして律法の罪はイエス様の死の十字架で贖われた。よって私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって罪がない者とみなされるようになったのである。しかしそれは罪がなくなったという意味ではない。あくまでもイエスを信じ仰ぎみる時に、罪がない者とみなされるということ。ここを勘違いすると、じゃあたくさん恵みをいただくために、もっと罪深き生き方をしよう。というおかしな論理展開が起きてしまう。そうではなく、恵みの福音を受ければ受けるほど、人は罪を犯したいと思わなくなる。頑張って修行をやらなくても清い者とみなされ、罪を犯す必要もなくなったのである。罪を犯したいとも思わなくなる。身近な例で言えば、パチンコに行きたくなくなる。タバコを吸う必要がなくなる。お酒を飲む必要がなくなる。暴飲暴食をする必要がない。遊びまわる必要もない。恵みの福音を受けて、ただニコニコしていられる。イエス様、サイコー!
注意)タバコが罪であるとか、お酒が罪であるという意味ではない。タバコやお酒にリラックス効果があることは認める。しかしそれを求めるあまり、他のすべきことをないがしろにすることが罪となる。恵みの福音を受けるとタバコやお酒のリラックス効果を求める必要がなくなるので、タバコやお酒が不要になるという意味で述べた。これが他の趣味・道楽においても同様である。
主よ
恵みを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
宮よりも大いなる者がここにいる。
(マタイ12章6節)
旧約の世界の律法は、人間が神の前に正しく生きていくためにどのようなことをしなければならないか、神の祝福をいただくためにはどういう生活をしていかねばならないか、その道筋を記したものである。
イエス様は律法を逆転させるかたである。そこに恵みの世界、福音の世界がある。イエス様の十字架の贖いを信じることによって、神は私たちすべての者を罪なき者とみなしてくださった。罪がなくなったという意味ではない。あくまで律法は生きている。神は公平な方であるから、律法の罪に対し死の裁きをくださねばならない。一方で神は人間を愛してやまない方である。だから許したいと思われた。だから神ご自身による自己矛盾を解決する手段が必要となられた。それがイエスの十字架の贖いである。私たちの罪によってイエス様が死ぬ必要があった。そして律法の罪はイエス様の死の十字架で贖われた。よって私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって罪がない者とみなされるようになったのである。しかしそれは罪がなくなったという意味ではない。あくまでもイエスを信じ仰ぎみる時に、罪がない者とみなされるということ。ここを勘違いすると、じゃあたくさん恵みをいただくために、もっと罪深き生き方をしよう。というおかしな論理展開が起きてしまう。そうではなく、恵みの福音を受ければ受けるほど、人は罪を犯したいと思わなくなる。頑張って修行をやらなくても清い者とみなされ、罪を犯す必要もなくなったのである。罪を犯したいとも思わなくなる。身近な例で言えば、パチンコに行きたくなくなる。タバコを吸う必要がなくなる。お酒を飲む必要がなくなる。暴飲暴食をする必要がない。遊びまわる必要もない。恵みの福音を受けて、ただニコニコしていられる。イエス様、サイコー!
注意)タバコが罪であるとか、お酒が罪であるという意味ではない。タバコやお酒にリラックス効果があることは認める。しかしそれを求めるあまり、他のすべきことをないがしろにすることが罪となる。恵みの福音を受けるとタバコやお酒のリラックス効果を求める必要がなくなるので、タバコやお酒が不要になるという意味で述べた。これが他の趣味・道楽においても同様である。
主よ
恵みを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月19日火曜日
すなおに受け取る
ちいろば先生「新約一日一章」より
そこを立ち去られた。
(マタイ11章1節)
イエス様は立ち去られる方である。神は私たちがいつでも帰ってくるのを待っておられるかたであると共に、また私たちのところから立ち去られるかたである。
いつでも備わっていると思うことが信仰をダメにする。イエス様との出会い、今というものを大切にしなければならない。いま神の言葉がすなおに聞けることは、私たちの努力だけによるものではない。心が閉じてしまえば、いくら聖書を読んでも、無味乾燥なものとなって、そこから感動も喜びも湧いてはこない。もし神の言葉が慕わしく聞けるのであれば、それこそ神に祝された時なのであるから、そういう時を大切にしていかねばならない。
預言者ヨハネが期待したキリスト像は、国家権力と闘い、イスラエルを自由にしてくれる地上の救い主である。ところがイエス様は、らい病人を癒したり、盲人の目をあけてやったりと、たった一人一人のことしかなさらない。イエス様は一人一人を神の前に立たせるために来られたのであり、また一人一人に福音を宣べ伝えるために来られたのである。「私につまづかない者は、さいわいである」(マタイ11章6節)。ヨハネはそういうイエス様につまづいた。
ヨハネの信仰は一生懸命努力した結果、信仰を奪い取っていこうとするものである。(11章12節)。しかしイエス・キリストによって始まった世界は、神のほうから近づいてくださるのである。人間の熱心や功徳というもので、神の恵みや慈しみを奪いとることは決して出来ない。私たちは、ただ受けていく存在である。福音のもとにおかれた者にとっては、神から送られてきたものをすなおに受けとっていくことが必要である。
主よ
あらためて、恵みをすなおに受けとることの大切さを学びました。
本日の学びを感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
そこを立ち去られた。
(マタイ11章1節)
イエス様は立ち去られる方である。神は私たちがいつでも帰ってくるのを待っておられるかたであると共に、また私たちのところから立ち去られるかたである。
いつでも備わっていると思うことが信仰をダメにする。イエス様との出会い、今というものを大切にしなければならない。いま神の言葉がすなおに聞けることは、私たちの努力だけによるものではない。心が閉じてしまえば、いくら聖書を読んでも、無味乾燥なものとなって、そこから感動も喜びも湧いてはこない。もし神の言葉が慕わしく聞けるのであれば、それこそ神に祝された時なのであるから、そういう時を大切にしていかねばならない。
預言者ヨハネが期待したキリスト像は、国家権力と闘い、イスラエルを自由にしてくれる地上の救い主である。ところがイエス様は、らい病人を癒したり、盲人の目をあけてやったりと、たった一人一人のことしかなさらない。イエス様は一人一人を神の前に立たせるために来られたのであり、また一人一人に福音を宣べ伝えるために来られたのである。「私につまづかない者は、さいわいである」(マタイ11章6節)。ヨハネはそういうイエス様につまづいた。
ヨハネの信仰は一生懸命努力した結果、信仰を奪い取っていこうとするものである。(11章12節)。しかしイエス・キリストによって始まった世界は、神のほうから近づいてくださるのである。人間の熱心や功徳というもので、神の恵みや慈しみを奪いとることは決して出来ない。私たちは、ただ受けていく存在である。福音のもとにおかれた者にとっては、神から送られてきたものをすなおに受けとっていくことが必要である。
主よ
あらためて、恵みをすなおに受けとることの大切さを学びました。
本日の学びを感謝します。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月17日日曜日
ミッション・インポシブル
ちいろば先生「新約一日一章」より
行って、「天国が近づいた」と宣べ伝えよ。
(マタイ10章7節)
10章では十二使徒の選任と派遣がテーマとなっている。使徒とは、つかわされた者、権威の一切を付与された者という意味で、いわば全権大使のような者である。十二使徒は、イエス様の権能・権威を授かって、イエス様の御技を遂行していく者である。十二人の弟子が召されたのは、つかわすためである。私たちは使徒の使命を受け継ぐ者である。牧師ではないから一生懸命にしなくてもよいなどと思うことは許されない。
「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人を清め、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイ10章8節)。これは途方もない指令である。当時のペテロやヤコブたちの信仰歴はせいぜい1年か2年程度である。そんな新米信仰者に、とうてい出来そうもないミッションをお与えになられたのである。しかし、私たちに力があるのではない。神が与えてくださっているのだから、神が働いてくださるように、私たちは管になればよい。
あれこれ考えず、神の御用をするのだから、必要なことは全部神が整えてくださる。兵士なら食いものの心配はしてはいけない。食物を整えることは司令官のすることである。兵士は司令官を喜ばすことをすればよい。神がされることはしなくていい、私たちのするべきことをしよう。
主よ
私たちがするべきことは、一生懸命に「天国が近づいた」ということを宣べ伝え、神から与えられた機能が私という管を通して他の人に及んでいくような備えをすることです。
主よ
生きている間に使徒としての使命を果たせますように
主よ あなたが整えてくださるなら
私は成すべきことを成すだけです
召命を感謝します
尊きキリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
行って、「天国が近づいた」と宣べ伝えよ。
(マタイ10章7節)
10章では十二使徒の選任と派遣がテーマとなっている。使徒とは、つかわされた者、権威の一切を付与された者という意味で、いわば全権大使のような者である。十二使徒は、イエス様の権能・権威を授かって、イエス様の御技を遂行していく者である。十二人の弟子が召されたのは、つかわすためである。私たちは使徒の使命を受け継ぐ者である。牧師ではないから一生懸命にしなくてもよいなどと思うことは許されない。
「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人を清め、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイ10章8節)。これは途方もない指令である。当時のペテロやヤコブたちの信仰歴はせいぜい1年か2年程度である。そんな新米信仰者に、とうてい出来そうもないミッションをお与えになられたのである。しかし、私たちに力があるのではない。神が与えてくださっているのだから、神が働いてくださるように、私たちは管になればよい。
あれこれ考えず、神の御用をするのだから、必要なことは全部神が整えてくださる。兵士なら食いものの心配はしてはいけない。食物を整えることは司令官のすることである。兵士は司令官を喜ばすことをすればよい。神がされることはしなくていい、私たちのするべきことをしよう。
主よ
私たちがするべきことは、一生懸命に「天国が近づいた」ということを宣べ伝え、神から与えられた機能が私という管を通して他の人に及んでいくような備えをすることです。
主よ
生きている間に使徒としての使命を果たせますように
主よ あなたが整えてくださるなら
私は成すべきことを成すだけです
召命を感謝します
尊きキリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
義人 和解の使者としてのつとめ
ちいろば先生「旧約一日一章」より
主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」
(創世記18章32節)
私はこの18章が大好きです。アブラハムの前に現れた三人の旅人、彼らを御使いと見抜き、駆け寄るアブラハム。実はその中の一人は主である。この物語を読むと、初めはただの旅人であったのに、いつのまにか主に対峙するアブラハムの物語に変化していることに気づくはず。わたしはこの章が大好きです。かっこいいです。三人の御使いが目の前を通られるなんて。
ソドムとゴモラの罪で滅ぼそうとされた時、アブラハムは、「正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。」、と言い50人の義人がいれば滅ぼさないでくださいますか?、と主に申したが、徐々に少なくなり「我が主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します。もしそこに十人いたら・・」と尋ねたのである。すると主は「十人のために滅ぼさないであろう」と約束されたのである。
私たちはよく「みんなが良くなる」ことを求める。家庭や職場や国の政治の状態を慨嘆する人の中にも、その誤りや欠点にのみ目を奪われている人が多い。しかし神は誤りや欠点よりも、義しさや真実を探したもう方なのである。神は常に十人の義人を求めもう方である。だから大切なことは、みんなが良くなることではなく、まず自分が義しく生きることである。そのことを抜きにして、天下国家を憂えても、結局そこからは対立と抗争以外何も生まれてこない。
主は今日も十人の義を求めたもう。まことの義なり主イエス・キリストによる義人を求めたもうているのである。ゆえに私たちにとって必要なことは、何よりも主イエス・キリストを信じる信仰である。ただ自らの信仰を全うするために、祈り求め、つとめ励むこと、それだけである。それだけが、この世に和解の使者としてつかわされている者のなすべきことである。
主よ
わたくしを十人の義人のうちに数えられる者としてください
感謝します
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」
(創世記18章32節)
私はこの18章が大好きです。アブラハムの前に現れた三人の旅人、彼らを御使いと見抜き、駆け寄るアブラハム。実はその中の一人は主である。この物語を読むと、初めはただの旅人であったのに、いつのまにか主に対峙するアブラハムの物語に変化していることに気づくはず。わたしはこの章が大好きです。かっこいいです。三人の御使いが目の前を通られるなんて。
ソドムとゴモラの罪で滅ぼそうとされた時、アブラハムは、「正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。」、と言い50人の義人がいれば滅ぼさないでくださいますか?、と主に申したが、徐々に少なくなり「我が主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します。もしそこに十人いたら・・」と尋ねたのである。すると主は「十人のために滅ぼさないであろう」と約束されたのである。
私たちはよく「みんなが良くなる」ことを求める。家庭や職場や国の政治の状態を慨嘆する人の中にも、その誤りや欠点にのみ目を奪われている人が多い。しかし神は誤りや欠点よりも、義しさや真実を探したもう方なのである。神は常に十人の義人を求めもう方である。だから大切なことは、みんなが良くなることではなく、まず自分が義しく生きることである。そのことを抜きにして、天下国家を憂えても、結局そこからは対立と抗争以外何も生まれてこない。
主は今日も十人の義を求めたもう。まことの義なり主イエス・キリストによる義人を求めたもうているのである。ゆえに私たちにとって必要なことは、何よりも主イエス・キリストを信じる信仰である。ただ自らの信仰を全うするために、祈り求め、つとめ励むこと、それだけである。それだけが、この世に和解の使者としてつかわされている者のなすべきことである。
主よ
わたくしを十人の義人のうちに数えられる者としてください
感謝します
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月16日土曜日
召命! アコルーセイ・モイ(あなたは、私に従いなさい)
ちいろば先生「新約一日一章」より
すると彼は立ち上がって・・
(マタイ9章9節)
私たちは、誰かを信仰に導こうと考えるとき、多くの期待を持ちやすい。もっと熱心に教会に来てくれたらとか、もっと真面目に神の言葉を聞いてくれたらと思い、そうなるように仕向けたりもする。しかし最も大事なことは、自分が神をしっかりと信じれているかどうかということである。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章31節)という言葉がある。自分はいったいイエス様を信じているかどうかを反省すること。家族の救いの鍵はあなたにある。昨日、映画「祈りの力」を観てきた。隠れて祈ることは聖書に書かれてある通りであるが、祈り部屋のことをウォールームと呼んでいた。まさに祈りの戦士となって、祈りによってサタンに戦いを挑むのである。すでに勝利をおさめた主が戦ってくださるから、ぜったい負けない!
「すると立ち上がって」とあるが、そこに死んだ人間が生きた人間に変わる起点がある。ほんとうに立ち上がらなければ、イエスに従ってはいけない。わざわざ「立つ」とう言葉が用いられているのは、わたしたちがいつまでも古い生活、この世の束縛、肉欲などでがんじがらめにされている生活をしていたのでは、イエス様から「アコルーセイ・モイ」と言われても、「ついて行きたいがだめです」と、座り込んでしまうからである。そこにまず厳しい道がある。
主よ
まず自分がしっかりと立ち上がらなければ、新しい世界に呼吸することはできないということを知りました。
キリスト・イエスの御名によって学びを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
すると彼は立ち上がって・・
(マタイ9章9節)
私たちは、誰かを信仰に導こうと考えるとき、多くの期待を持ちやすい。もっと熱心に教会に来てくれたらとか、もっと真面目に神の言葉を聞いてくれたらと思い、そうなるように仕向けたりもする。しかし最も大事なことは、自分が神をしっかりと信じれているかどうかということである。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章31節)という言葉がある。自分はいったいイエス様を信じているかどうかを反省すること。家族の救いの鍵はあなたにある。昨日、映画「祈りの力」を観てきた。隠れて祈ることは聖書に書かれてある通りであるが、祈り部屋のことをウォールームと呼んでいた。まさに祈りの戦士となって、祈りによってサタンに戦いを挑むのである。すでに勝利をおさめた主が戦ってくださるから、ぜったい負けない!
「すると立ち上がって」とあるが、そこに死んだ人間が生きた人間に変わる起点がある。ほんとうに立ち上がらなければ、イエスに従ってはいけない。わざわざ「立つ」とう言葉が用いられているのは、わたしたちがいつまでも古い生活、この世の束縛、肉欲などでがんじがらめにされている生活をしていたのでは、イエス様から「アコルーセイ・モイ」と言われても、「ついて行きたいがだめです」と、座り込んでしまうからである。そこにまず厳しい道がある。
主よ
まず自分がしっかりと立ち上がらなければ、新しい世界に呼吸することはできないということを知りました。
キリスト・イエスの御名によって学びを感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
全き者であれ
ちいろば先生「旧約一日一章」より
わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ。
(創世記17章1節)
主からこの言葉を聞いた時、アブラムはすでに九十九歳であった。神とはこのようにどのような人に対しても大きな期待をかけたもうかたである。わたしは年寄りだから、まだ若造だから(エレミヤ1章)、わたしは口の重い人間だから(出エジプト4章10節)、わたしは忙しいから(ルカ14章15節以下)と、私たちは自分の状態に固執しやすい。
しかし主はただアブラムに求めるだけのかたではない。主は彼に向かって「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ」と、まず求める前に、全能の神であると宣言しておられる。人はみなこの全能の主にあってその偉大な力によって強くされるのである(エペソ6章10節)その全き歩みもまた主からいただくのである。がんばり信仰ではもたない。
神はアブラムに「全き者であれ」と求めたもうたように、今日わたしたちにも求めておられる。たといわたしたちがいかなる状態であろうとも、目を天に向け、全能の主を仰いで主のご期待にこたえる者になりましょう。それでこそアブラハムの子孫としてその栄光にあずかることが許されるのである。
主よ
信仰とは神によって神に生きることと学びました
キリスト・イエスの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン
わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ。
(創世記17章1節)
主からこの言葉を聞いた時、アブラムはすでに九十九歳であった。神とはこのようにどのような人に対しても大きな期待をかけたもうかたである。わたしは年寄りだから、まだ若造だから(エレミヤ1章)、わたしは口の重い人間だから(出エジプト4章10節)、わたしは忙しいから(ルカ14章15節以下)と、私たちは自分の状態に固執しやすい。
しかし主はただアブラムに求めるだけのかたではない。主は彼に向かって「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ」と、まず求める前に、全能の神であると宣言しておられる。人はみなこの全能の主にあってその偉大な力によって強くされるのである(エペソ6章10節)その全き歩みもまた主からいただくのである。がんばり信仰ではもたない。
神はアブラムに「全き者であれ」と求めたもうたように、今日わたしたちにも求めておられる。たといわたしたちがいかなる状態であろうとも、目を天に向け、全能の主を仰いで主のご期待にこたえる者になりましょう。それでこそアブラハムの子孫としてその栄光にあずかることが許されるのである。
主よ
信仰とは神によって神に生きることと学びました
キリスト・イエスの御名によって感謝し、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン
2016年7月15日金曜日
信仰心 どうにもならないものを解決する主
ちいろば先生「新約一日一章」より
ただ、お言葉をください。そうすれば僕(しもべ)はなおります。
(マタイ8章8節)
7章の終わりに「群衆はその教えにひどく驚いた」とある。新約聖書の中では13回も出てくるそうだ。私たちの経験や学問・想像をはるかに超えた神とイエスの技に対して言われた言葉だ。イエス様の言葉には権威があった。権威が授けられていることが大事なことである。権威とは威張っていることではなく、「仕えていく」ということである。
らい病人は「主よ、みこころでしたら、清めていただけるのですが」と言った。また、百人隊長は「ただ、お言葉をください、そうすれば僕(しもべ)はなおります」と言ったのは、あなたの言葉には神の権威があるのですから、ただお言葉をくださるだけでけっこうですということである。
イエス様が求めておられるのは信仰であって、どこまで神を信じ、どこまで神の言葉にまともに生きていくかということである。まともさとは、忠実・真実ということである。信仰とは、神の言葉に対してまともに生きていくこと、まともにそれを信頼していくことである。
主よ
学びを感謝します。
イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
ただ、お言葉をください。そうすれば僕(しもべ)はなおります。
(マタイ8章8節)
7章の終わりに「群衆はその教えにひどく驚いた」とある。新約聖書の中では13回も出てくるそうだ。私たちの経験や学問・想像をはるかに超えた神とイエスの技に対して言われた言葉だ。イエス様の言葉には権威があった。権威が授けられていることが大事なことである。権威とは威張っていることではなく、「仕えていく」ということである。
らい病人は「主よ、みこころでしたら、清めていただけるのですが」と言った。また、百人隊長は「ただ、お言葉をください、そうすれば僕(しもべ)はなおります」と言ったのは、あなたの言葉には神の権威があるのですから、ただお言葉をくださるだけでけっこうですということである。
イエス様が求めておられるのは信仰であって、どこまで神を信じ、どこまで神の言葉にまともに生きていくかということである。まともさとは、忠実・真実ということである。信仰とは、神の言葉に対してまともに生きていくこと、まともにそれを信頼していくことである。
主よ
学びを感謝します。
イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
涙の谷を渡る
ちいろば先生「旧約一日一章」より
そこでハガルは自分に語られた主の名を呼んで、「あなたはエル・ロイです」と言った。
創世記16章13節
エジプト人ハガルの物語は読む者の涙を誘う。彼女はアブラムの妻サライの女奴隷として雇われ、サライに子がいないからという理由でアブラムの子を孕まされた。その後、彼女がサライを見下げたということで、苦しめられ、ついにいたたまれず、彼女は女主人の顔を避けて逃げ出した。
サライが、自分に代わってアブラムの子を孕みなさいなどと言わなければ、平穏無事な生活を送ることができた。迷惑なのはハガルである。サライの犠牲者である。しかし彼女は涙の谷で主と出会った。彼女は自分に語られた主の名を呼んで「あなたはエル・ロイです」と言った。「エル・ロイ」とは「私を見たもう神」という意味である。
目先の苦しみを避け、出来る限り安全で都合の良いような生き方を求めるのは私たちの常である。暗いところをよけ、明るい方へと逃げたくなるのはだれもが持つ衝動である。しかし、そのような生き方をだけ求めている人々には「エル・ロイ」の告白は生まれてこない。
主よ
学びを感謝します。
アーメン
2016年7月14日木曜日
すでに与えられている
ちいろば先生の「新約一日一章」より
門をたたく者はあけてもらえるからである。
(マタイ7章8節)
まず「人を裁くな」というのは、自分のことを棚に上げて人を裁くなと言っておられるのである。ある本に「あなたがいま刑務所に入っていないとすれば、それは刑務所に入っている人のような試みに合わなかっただけである。そういう試みにあなたもあえば、同じことをするだろう。あなたはそういうことから守られていただけである」と書いてある。私たちも極限の状態に立たされると、はたしてどんな生き方をしていくだろうか。
「門をたたく者はあけてもらえるからである」。この言葉では「からである」が大事と思われる。求めたら与えてやろうというのではなく、与えられているから求めなさい。というのが「からである」の意味である。すでに天から管が降りてきているのに、その管からのものをいただかないで、やたらに地上をはいずり回っているに等しい。私たちはすでに与えられているから求めていくのである。
聖書を読み、み言葉に従っていくことは、不信との闘いである。どんな人でも、毎日毎日、神を信じられない自分と闘っているのである。信仰の深い人ほど、自分がどんなに不信仰な者であるかを知っている。
主よ
すでに与えられているから、求めれば実現するということを知りました。不信仰な私をお赦しください
主イエス・キリスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン
み言葉に立って現実を受け入れる
ちいろば先生「旧約一日一章」より
アブラムは主を信じた。
主はこれを彼の義と認められた。
(創世記15章6節)
あるとき、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
年老いてなお一人の子もなく、また、「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも与えられ」(使徒7章5節)ていなかった彼にとって、この言葉は信じがたいものであった。しかし主は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるであろう」と言葉を重ねられるだけであった。誰がいったいこの言葉を神の約束として信じることができるだろうか。だが聖書は、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と記している。
信じるとは、現実からみ言葉の確かさを求めていくことではなく、み言葉に立って現実を受け入れていくことである。たとい現実はいかようであれ、全能全愛の神のゆえに現実を受け取っていくこと、それが信仰である。その時、私たちはアブラムのように、約束の祝福にあずかることができるのである。
主よ
現実がどんな状況であっても、み言葉に立って現実を受け入れることが信仰であると学びました。
主よ
アブラムのように約束の祝福を待ち望みます。
ですが主よ
御心のままになさってください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りをお捧げ申上げます。
アーメン
アブラムは主を信じた。
主はこれを彼の義と認められた。
(創世記15章6節)
あるとき、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ恐れてはならない。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
年老いてなお一人の子もなく、また、「遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも与えられ」(使徒7章5節)ていなかった彼にとって、この言葉は信じがたいものであった。しかし主は「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるであろう」と言葉を重ねられるだけであった。誰がいったいこの言葉を神の約束として信じることができるだろうか。だが聖書は、「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」と記している。
信じるとは、現実からみ言葉の確かさを求めていくことではなく、み言葉に立って現実を受け入れていくことである。たとい現実はいかようであれ、全能全愛の神のゆえに現実を受け取っていくこと、それが信仰である。その時、私たちはアブラムのように、約束の祝福にあずかることができるのである。
主よ
現実がどんな状況であっても、み言葉に立って現実を受け入れることが信仰であると学びました。
主よ
アブラムのように約束の祝福を待ち望みます。
ですが主よ
御心のままになさってください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りをお捧げ申上げます。
アーメン
2016年7月13日水曜日
人間は一度は死ぬ
ちいろば先生「新約一日一章」より
まず神の国と神の義とを求めなさい
(マタイ6章33節)
イエス様が強調したい点は、こっそりしなさいではなく、天の父の報いを第一に求めなさいということである。神の御心にかなう信仰生活をしなさいと言われたのである。
スポルジョンは「天にまで携えていけないもののためにあまり熱心になるな」と言った。人間は一度は死ぬこと、死んでのち裁きを受けることは人間には定まっていることだ、と聖書は記している。
私たちは、神の前に立たなければならない。その神の前に立つときに価値のあるものを携えて立つことができるかどうか、そのことを最終の目的としなければならない。
私たちは聖書に書いてあるから、終わりの時があることを信じる。イエス・キリストを信じたから、もう私の罪は許されたということは、終わりの日に通じるものである。
私たちの最終目標は、神の国と神の義を求めること。神の国とは神の支配ということ。神の義とは神の許しであるということ。終わりの時に私たちはどうかということを求めていくこと。そこにクリスチャンとしての立ち所がある。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
まず神の国と神の義とを求めなさい
(マタイ6章33節)
イエス様が強調したい点は、こっそりしなさいではなく、天の父の報いを第一に求めなさいということである。神の御心にかなう信仰生活をしなさいと言われたのである。
スポルジョンは「天にまで携えていけないもののためにあまり熱心になるな」と言った。人間は一度は死ぬこと、死んでのち裁きを受けることは人間には定まっていることだ、と聖書は記している。
私たちは、神の前に立たなければならない。その神の前に立つときに価値のあるものを携えて立つことができるかどうか、そのことを最終の目的としなければならない。
私たちは聖書に書いてあるから、終わりの時があることを信じる。イエス・キリストを信じたから、もう私の罪は許されたということは、終わりの日に通じるものである。
私たちの最終目標は、神の国と神の義を求めること。神の国とは神の支配ということ。神の義とは神の許しであるということ。終わりの時に私たちはどうかということを求めていくこと。そこにクリスチャンとしての立ち所がある。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
何人にも借りがあってはならない
ちいろば先生「旧約一日一章」より
アブラムを富ませたのは私だと、あなたが言わないように
(創世記14章23節)
使徒パウロは「互いに愛し合うことのほかは、何人にも借りがあってはならない」(ローマ13章8節)とすすめている。わたしたちは人に借りるのではなく、神に借りるものとなりなさいということである。
富み栄えたいということは、アブラムにとっても心からの願いであったことだろう。しかし、彼は神の御心を無視してまで富むことを求めなかった。何よりも神のみこころが優先する。いつも神に従う者としての歩みをなしていくことこそ大切である。神以外のものを神としないことに励みたい。
主にお祈りをお捧げ申上げます。
アーメン
アブラムを富ませたのは私だと、あなたが言わないように
(創世記14章23節)
使徒パウロは「互いに愛し合うことのほかは、何人にも借りがあってはならない」(ローマ13章8節)とすすめている。わたしたちは人に借りるのではなく、神に借りるものとなりなさいということである。
富み栄えたいということは、アブラムにとっても心からの願いであったことだろう。しかし、彼は神の御心を無視してまで富むことを求めなかった。何よりも神のみこころが優先する。いつも神に従う者としての歩みをなしていくことこそ大切である。神以外のものを神としないことに励みたい。
主にお祈りをお捧げ申上げます。
アーメン
2016年7月12日火曜日
どこを中心に宇宙は広まったの?
ビッグバンが起きたとして、どこを中心に宇宙は広まったの?
世界中の科学者が調べてみたところ、驚くべきことにちゃんと調べれば調べるほど、宇宙のすべてが「地球を中心に膨張しているように見える」ことになってしまいました。銀河系の辺境に位置する太陽系、その地球を中心にビッグバンが起きた。
創世記を読みますと、三日をかけて地球を創られ、その後たった一日で恒星や星々を創られています。これはわたしの解釈ですが、まるでスクリーンに映写機で写したかのように、数百億光年離れ、さらに加速して空間が広がっているかのように見える宇宙をたった一日で造られたということです。(さらに光速を超えて遠ざかる天体が発見され、すでに1000個程度観測されている。)人間の理解の及ぶ範囲で計測すると数百億年経過したかのような恒星や惑星の状態を一瞬で造られたということです。
そしてアダムを創られ、最後にイブを創られた。
わたしは聖書に書かれてあることを字義通りに、またその順番通りに起きたことを信じます。なぜならそれは神の言葉であり、力があるからです。いまその力が、主に在りて私にも及んでいることを信じます。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
世界中の科学者が調べてみたところ、驚くべきことにちゃんと調べれば調べるほど、宇宙のすべてが「地球を中心に膨張しているように見える」ことになってしまいました。銀河系の辺境に位置する太陽系、その地球を中心にビッグバンが起きた。
創世記を読みますと、三日をかけて地球を創られ、その後たった一日で恒星や星々を創られています。これはわたしの解釈ですが、まるでスクリーンに映写機で写したかのように、数百億光年離れ、さらに加速して空間が広がっているかのように見える宇宙をたった一日で造られたということです。(さらに光速を超えて遠ざかる天体が発見され、すでに1000個程度観測されている。)人間の理解の及ぶ範囲で計測すると数百億年経過したかのような恒星や惑星の状態を一瞬で造られたということです。
そしてアダムを創られ、最後にイブを創られた。
わたしは聖書に書かれてあることを字義通りに、またその順番通りに起きたことを信じます。なぜならそれは神の言葉であり、力があるからです。いまその力が、主に在りて私にも及んでいることを信じます。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
どこを中心に宇宙は広まったの?
ビッグバンが起きたとして、どこを中心に宇宙は広まったの?
世界中の科学者が調べてみたところ、驚くべきことにちゃんと調べれば調べるほど、宇宙のすべてが「地球を中心に膨張しているように見える」ことになってしまいました。銀河系の辺境に位置する太陽系、その地球を中心にビッグバンが起きた。さらに光速を超えて遠ざかる天体が発見され、すでに1000個程度観測されている。
創世記を読みますと、三日をかけて地球を創られ、その後たった一日で恒星や星々を創られています。これはわたしの解釈ですが、まるでスクリーンに映写機で写したかのように、数百億光年離れ、さらに加速して空間が広がっているかのように見える宇宙をたった一日で造られたということです。人間の理解の及ぶ範囲で計測したら、それはまるで数百億年経過したかのような恒星や惑星の状態を一瞬で造られたということです。
そしてアダムを創られ、最後にイブを創られた。
わたしは聖書に書かれてあることを字義通りに、またその順番通りに起きたことを信じます。なぜならそれは神の言葉であり、力があるからです。いまその力が、主に在りて私にも及んでいることを信じます。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
世界中の科学者が調べてみたところ、驚くべきことにちゃんと調べれば調べるほど、宇宙のすべてが「地球を中心に膨張しているように見える」ことになってしまいました。銀河系の辺境に位置する太陽系、その地球を中心にビッグバンが起きた。さらに光速を超えて遠ざかる天体が発見され、すでに1000個程度観測されている。
創世記を読みますと、三日をかけて地球を創られ、その後たった一日で恒星や星々を創られています。これはわたしの解釈ですが、まるでスクリーンに映写機で写したかのように、数百億光年離れ、さらに加速して空間が広がっているかのように見える宇宙をたった一日で造られたということです。人間の理解の及ぶ範囲で計測したら、それはまるで数百億年経過したかのような恒星や惑星の状態を一瞬で造られたということです。
そしてアダムを創られ、最後にイブを創られた。
わたしは聖書に書かれてあることを字義通りに、またその順番通りに起きたことを信じます。なぜならそれは神の言葉であり、力があるからです。いまその力が、主に在りて私にも及んでいることを信じます。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
イエス様が好まれる人とは
ちいろば先生「旧約一日一章」より
心の貧しい人たちは、さいわいである。
(マタイ5章3節)
3節から言われていることは、私たちの考え方とは逆説的である。貧しい者が幸いであるということはこの世ではありえない。強い者が地を継ぎ、弱い者や柔和な者はいつも放置される。憐れみ深いようなことをしていたら人生の落伍者になってしまう。心が清いことも、この世では通用しなかった。
ところが、イエス様をお迎えすることによって、貧しい人が幸いになる世界がもたらされる。なぜ貧しい人が幸いであるか、その理由を述べるとこうなる。イエス様は心の貧しい人のところを選んで行かれる。だからその人たちは幸いなのである。
イエス様は、誰も相手にしてくれず、自分はダメだと絶望している人のところへ行って友達になってくださる。罪を犯してどうしようもないというその罪を。イエス様は引き受けてくださる。悲しんでいる人を探し求めてその人のところへ行かれる。だからイエス様に出会い、イエス様からの慰めが与えられるのである。不公平なことにイエス様は、悲しんでいる人を求めて行かれるのである。
もし、私たちがイエス様に出会い、イエス様の言葉を聞き、手に触れ、足に触れようと思うなら、ここに書かれているような人となり、そういう生活をしていかねばならない。聖書には富める青年の話しがある。「立法をどんなに頑張って守っても永遠の生命を得ることができない。どうしたらあなたのように永遠の生命に生かされるという確かさを持つことができますか?」と尋ねた時イエス様は「あなたの持ち物が、それを邪魔している」と言われた。「貧しくなるために」持ち物をみな人にあげたらよい、そうしたら永遠の生命を受けることができると言われたのである。
先祖の遺産を持ち、生活も安定しているのだから幸せだと感じる。だが、「これが本物だ、世の宝ものがあそこに埋まっている」と考えるのならば、全財産を売り払ってでも、その土地を買い占めにかからないだろうか。いっさいのものを捨てていく情熱が、信仰には必要である。
問題は、私たちがどこまで本気で地獄とか天国というものを信じているか、どこまでほんとうに神を信じているのかにかかっている。神の言葉を「もてあそぶ」ようなことをしていては、イエス様と出会うことはできない。あなたのためにこれもあれも捨てます、片目を失っても我慢しますというほどに神を慕い、イエス様を慕ってこそ、イエス様に出会うことができる。
そこに私たちが貧しくなっていく世界がある。山上の垂訓は、イエス様がそういう人のところへ来られると解釈すれば納得できる。
主よ
イエス様が向かわれるような自分でありたいと思います
主がそうしてくださいます
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン
心の貧しい人たちは、さいわいである。
(マタイ5章3節)
3節から言われていることは、私たちの考え方とは逆説的である。貧しい者が幸いであるということはこの世ではありえない。強い者が地を継ぎ、弱い者や柔和な者はいつも放置される。憐れみ深いようなことをしていたら人生の落伍者になってしまう。心が清いことも、この世では通用しなかった。
ところが、イエス様をお迎えすることによって、貧しい人が幸いになる世界がもたらされる。なぜ貧しい人が幸いであるか、その理由を述べるとこうなる。イエス様は心の貧しい人のところを選んで行かれる。だからその人たちは幸いなのである。
イエス様は、誰も相手にしてくれず、自分はダメだと絶望している人のところへ行って友達になってくださる。罪を犯してどうしようもないというその罪を。イエス様は引き受けてくださる。悲しんでいる人を探し求めてその人のところへ行かれる。だからイエス様に出会い、イエス様からの慰めが与えられるのである。不公平なことにイエス様は、悲しんでいる人を求めて行かれるのである。
もし、私たちがイエス様に出会い、イエス様の言葉を聞き、手に触れ、足に触れようと思うなら、ここに書かれているような人となり、そういう生活をしていかねばならない。聖書には富める青年の話しがある。「立法をどんなに頑張って守っても永遠の生命を得ることができない。どうしたらあなたのように永遠の生命に生かされるという確かさを持つことができますか?」と尋ねた時イエス様は「あなたの持ち物が、それを邪魔している」と言われた。「貧しくなるために」持ち物をみな人にあげたらよい、そうしたら永遠の生命を受けることができると言われたのである。
先祖の遺産を持ち、生活も安定しているのだから幸せだと感じる。だが、「これが本物だ、世の宝ものがあそこに埋まっている」と考えるのならば、全財産を売り払ってでも、その土地を買い占めにかからないだろうか。いっさいのものを捨てていく情熱が、信仰には必要である。
問題は、私たちがどこまで本気で地獄とか天国というものを信じているか、どこまでほんとうに神を信じているのかにかかっている。神の言葉を「もてあそぶ」ようなことをしていては、イエス様と出会うことはできない。あなたのためにこれもあれも捨てます、片目を失っても我慢しますというほどに神を慕い、イエス様を慕ってこそ、イエス様に出会うことができる。
そこに私たちが貧しくなっていく世界がある。山上の垂訓は、イエス様がそういう人のところへ来られると解釈すれば納得できる。
主よ
イエス様が向かわれるような自分でありたいと思います
主がそうしてくださいます
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン
ただ神にのみ仕える
ちいろば先生「旧約一日一章」より
ただ神にのみ仕えよ。
(マタイ4章10節)
イエスは、悪魔によってではなく、御霊によって荒野へ導かれ、試みを受けられた。だから、私たちも現実の生活の中で試みを受けたとしても、それは悲しいことでも、恥ずかしいことでもない。試みを悲しみ、恥ずかしがるのは、聖書のメッセージからはずれている。
荒野の40日で、悪魔の始めの誘いは。神の子なら石がパンになるよう命じてごらんという事であった。それに対し「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるのである」と言われた。これを、人間は肉体のパンと魂の糧も必要だと解するのは平板な理解である。創世記1章3節「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあるように、神の言葉には力がある。ラザロに出てきなさいと言えば、死んで4日も経過したラザロが生き返るのである。単に精神と物質というような面から言われたのではない。
イエスの生きる道とは、食料の解決や、宗教的な力の誇示でもなく、またこの世の権力の掌握でもない。ただ神にのみ仕えていくという道だけであった。とするならば、私たちキリスト者はやはり、ただ神にのみ仕えていくところに立ち所があると思う。
主よ
私は砕かれた者です
ただ主に仕えることでしか生きる価値がありません。
主の御名を褒めたたえ、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
ただ神にのみ仕えよ。
(マタイ4章10節)
イエスは、悪魔によってではなく、御霊によって荒野へ導かれ、試みを受けられた。だから、私たちも現実の生活の中で試みを受けたとしても、それは悲しいことでも、恥ずかしいことでもない。試みを悲しみ、恥ずかしがるのは、聖書のメッセージからはずれている。
荒野の40日で、悪魔の始めの誘いは。神の子なら石がパンになるよう命じてごらんという事であった。それに対し「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるのである」と言われた。これを、人間は肉体のパンと魂の糧も必要だと解するのは平板な理解である。創世記1章3節「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあるように、神の言葉には力がある。ラザロに出てきなさいと言えば、死んで4日も経過したラザロが生き返るのである。単に精神と物質というような面から言われたのではない。
イエスの生きる道とは、食料の解決や、宗教的な力の誇示でもなく、またこの世の権力の掌握でもない。ただ神にのみ仕えていくという道だけであった。とするならば、私たちキリスト者はやはり、ただ神にのみ仕えていくところに立ち所があると思う。
主よ
私は砕かれた者です
ただ主に仕えることでしか生きる価値がありません。
主の御名を褒めたたえ、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
あなたはどうなのか
ちいろば先生「旧約一日一章」より
主の道を供えよ・・・
(マタイ3章3節)
今日のキリスト教の大きな欠点は、あなたはどうなのかという神の問いをぼかしていることにある。
あなたはどうか。それを聖書はいつも問うている。
どんなに素晴らしい音楽が放送されていても、その波長に合わせなければ聞くことはできない。私たちは聖書の語る言葉に自分の耳を合わせなければならない。きょうもう一度、自分自身の悔い改めから信仰が始まっていかねばならない。
私たちは、自分が神に対してどのように惨めなものであり、罪深い者であるかを知らねばならない。それが主の道を備え、その道筋をまっすぐにするということである。
栄光在主
アーメン
主の道を供えよ・・・
(マタイ3章3節)
今日のキリスト教の大きな欠点は、あなたはどうなのかという神の問いをぼかしていることにある。
あなたはどうか。それを聖書はいつも問うている。
どんなに素晴らしい音楽が放送されていても、その波長に合わせなければ聞くことはできない。私たちは聖書の語る言葉に自分の耳を合わせなければならない。きょうもう一度、自分自身の悔い改めから信仰が始まっていかねばならない。
私たちは、自分が神に対してどのように惨めなものであり、罪深い者であるかを知らねばならない。それが主の道を備え、その道筋をまっすぐにするということである。
栄光在主
アーメン
2016年7月11日月曜日
ノアの家系、さかのぼると人類はひとつ
ちいろば先生「旧約一日一章」
以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。
(創世記10章32節)
ノアの三人の子供たちは、セム=サァーニー褐色、ハム=フーム黒色、ヤペテ=イヤーパット白色、このように三人種を暗示する言葉と一致する。すなわち全人類を示す言葉である。従って「これらはノアの子らの氏族であって」という言葉は全人類、すべての人々、当時の彼らを苦しめているバビロンの人々も含まれ、ノアの、すなわち神のあわれみの子であるという意味であり、神のご支配のうちにあるという宣言である。たとい相手がどんなに大きくても、その力がどんなに巨大であっても、すべては神のご支配のうちにある。
使途パウロは「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない」(コリントⅡ10章3節)、と語っている。私たちも全能の神にあって、いつでも、どこでも見えるものにとらわれることなく主にあって雄々しく生きていくものとなりたい。
主よ
私たちを迫害するものの為に祈ります
彼らも同じノアの子孫、神のあわれみの子です。
わたしたちは彼らの罪を赦しますから
わたしたちの罪をもお赦しください
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン
以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上に分かれ出たのであった。
(創世記10章32節)
ノアの三人の子供たちは、セム=サァーニー褐色、ハム=フーム黒色、ヤペテ=イヤーパット白色、このように三人種を暗示する言葉と一致する。すなわち全人類を示す言葉である。従って「これらはノアの子らの氏族であって」という言葉は全人類、すべての人々、当時の彼らを苦しめているバビロンの人々も含まれ、ノアの、すなわち神のあわれみの子であるという意味であり、神のご支配のうちにあるという宣言である。たとい相手がどんなに大きくても、その力がどんなに巨大であっても、すべては神のご支配のうちにある。
使途パウロは「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない」(コリントⅡ10章3節)、と語っている。私たちも全能の神にあって、いつでも、どこでも見えるものにとらわれることなく主にあって雄々しく生きていくものとなりたい。
主よ
私たちを迫害するものの為に祈ります
彼らも同じノアの子孫、神のあわれみの子です。
わたしたちは彼らの罪を赦しますから
わたしたちの罪をもお赦しください
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます
アーメン
2016年7月8日金曜日
自由を肉の働く機会としてはならない
ちいろば先生「旧約一日一章」より
彼(ノア)はぶどう酒を飲んで酔い、
天幕の中で裸になっていた。
(創世記9章21節)
洪水の後、ノアは祝福を受け、再び地上の生活を始めた。彼はその与えられた地で農夫となり、ぶどう畑を作り、そこより得たぶどうをもってぶどう主を作った。ある日彼はそのぶどう酒を飲んで酔い、大変な失敗をしてしまった。
使徒パウロは、コリントの教会に書き送った手紙の中で「すべてのことはゆるされている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」と述べ、「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」
(1コリント10章23節以下)
私たちにはすべてのことが許されている
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったので」
(ガラテヤ5章1節)
「召されたのは、実に、自由を得るためである。」
(ガラテヤ5章13節)
しかし私たちは「その自由を、肉の働く機会とし」てはならない。むしろその恵みを「神の栄光のために」用いるべきである。ここに主の祝福を受けた者、主にあがなわれた者の聖なる義務がある。
わたしたちは神の子イエス・キリストの十字架という空前絶後の代価を払って買いとられたのだから、「自分のからだをもって、神の栄光をあらわ」さなければならないのである。
私たちの生活のいっさいの基準はここにある。
ノアは洪水から救われ、神の祝福を受けたという恵みを活かすことを怠った。そしてその恵みを自分を滅ぼすために用いたがゆえに、彼は大きな失敗をしたのである。そのあとに記されている「そして彼は死んだ」という言葉は、「ノアはすべて神の命じられたようにした」という言葉にくらべてなんと力ないことか。
信仰は私たちに勇気を与える。いくじなく杯に手をのばす者ではなく、栄光のために勇気ある者とせられたい。今日の証はここにある。
主よ
本日の学びを感謝します。
自分の生活のいっさいを主のために用いることができますように、
主よ
あなたがそうしてください
キリスト・イエスの御名によって、お祈りをお捧げ申上げます。
アーメン
2016年7月7日木曜日
2016年7月6日水曜日
特別な主の訓練
ちいろば先生「旧約一日一生」より
神はノアと、箱舟のなかにいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。
創世記8章1節
神が、ノアと彼のまわりのものを心にとめてくださることによってはじめて。彼は1年間の箱舟の生活に耐えることができた。
大使徒パウロにも、大使徒なるがゆえに艱難があり、戦いがあり、恐れがあり、うちしおれることがあった。しかし、主は彼を慰め、励まし、力づけ、傷をいやし、環境をととのえてくださった。
そのパウロが「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。」 コリントⅠ1章30節
と語っているように、彼もまた神のなぐさめや力づけなくして、決してキリスト・イエスにあって生きることはできなかったのである。
よく私たちは信仰の苦しさばかりを思って恐れたり、十字架の重みにたじろいだりする。しかしそれは特別な主の訓練を受けるのだから、決してたやすいはずはない。しかし神は必ず私たちを心にとめてくださり、私たちを力づけてくださる。
主の力添えによって、はじめて私たちは十字架を負うことができる。箱舟のなかにとどまることができる。
主よ
本日の学びを感謝します。
アーメン
神はノアと、箱舟のなかにいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。
創世記8章1節
神が、ノアと彼のまわりのものを心にとめてくださることによってはじめて。彼は1年間の箱舟の生活に耐えることができた。
大使徒パウロにも、大使徒なるがゆえに艱難があり、戦いがあり、恐れがあり、うちしおれることがあった。しかし、主は彼を慰め、励まし、力づけ、傷をいやし、環境をととのえてくださった。
そのパウロが「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。」 コリントⅠ1章30節
と語っているように、彼もまた神のなぐさめや力づけなくして、決してキリスト・イエスにあって生きることはできなかったのである。
よく私たちは信仰の苦しさばかりを思って恐れたり、十字架の重みにたじろいだりする。しかしそれは特別な主の訓練を受けるのだから、決してたやすいはずはない。しかし神は必ず私たちを心にとめてくださり、私たちを力づけてくださる。
主の力添えによって、はじめて私たちは十字架を負うことができる。箱舟のなかにとどまることができる。
主よ
本日の学びを感謝します。
アーメン
2016年7月5日火曜日
うしろの戸を主が閉ざされた
ちいろば先生の「旧約聖書一日一章」より
そこで主は彼(ノア)のうしろの戸を閉ざされた。
創世記7章16節
ノアはすべて神の命じられたように船を造り、彼の家族とすべての生き物二つずつをともなって船に入った。
そのさまはなんと滑稽であったことだろうか。世の人の嘲笑を浴びながら、ただ神をまこととして、彼はみ言葉に従ったのである。
ノアが船に入り終わったとき、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」と聖書は記している。神はノアを箱舟に閉じ込めたもうたのである。再びそこから出られないように。
よく信仰生活における窮屈さや束縛を嫌う人がいる。自分が行きたいときに礼拝に行き、聖書を読みたいときに聖書を読む、祈りたくなったときに祈る。そういう意信仰生活を好む人が多い。言い換えれば、うしろの戸を開けておいて、いつでも出られる自由を残しておきたいという人である。
確かにこういう信仰生活は気楽で楽しい。聖日を厳守し、日ごとにみ言葉を読み、祈りをする信仰生活は堅苦しく窮屈である。
しかし信仰生活の喜びは信仰生活の堅苦しさではなく、そこに神との出会いがあるから、そうしているのである。それは登山家の喜びと似ている。登山家の喜びは重い荷物を背負って山坂を登る苦しみではなく、下界とまったく異なる別天地に呼吸することにある。
本当の信仰の喜びは、自己本位な信仰生活を送っている人には味わうことができない。いつまでたっても信仰生活に歓喜が訪れない。なぜなら、彼らは信仰に閉じ込められることを嫌っている。
この”閉じ込め”は神の好意、神の愛である。
もしも主がノアのうしろの戸を閉じたまわなかったら、ノアは箱舟生活の単調さに耐えかねて外にでてしまい、せっかくの救いの恵みから転落したのではなかろうか。閉じ込められていたが故に、彼はまる一年もの間、二匹ずつの生き物たちとともに箱舟にとどまることができ、神の約束を受けることができた。
現実はきびしく、われわれは弱い
誘惑は執拗であり、われわれの力は乏しい
そうした中で信仰の高嶺に立つために、われわれは信仰の束縛を避けてはならない
うしろの戸を閉ざしたもう主を否んではならない
主よ
うしろの戸を閉ざしていただきました。
感謝します。
もう振り返りません
もはや罪の生活には戻りません
主よ
あなたがそうして下さいました
ありがとうございます
感謝します
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
そこで主は彼(ノア)のうしろの戸を閉ざされた。
創世記7章16節
ノアはすべて神の命じられたように船を造り、彼の家族とすべての生き物二つずつをともなって船に入った。
そのさまはなんと滑稽であったことだろうか。世の人の嘲笑を浴びながら、ただ神をまこととして、彼はみ言葉に従ったのである。
ノアが船に入り終わったとき、「主は彼のうしろの戸を閉ざされた」と聖書は記している。神はノアを箱舟に閉じ込めたもうたのである。再びそこから出られないように。
よく信仰生活における窮屈さや束縛を嫌う人がいる。自分が行きたいときに礼拝に行き、聖書を読みたいときに聖書を読む、祈りたくなったときに祈る。そういう意信仰生活を好む人が多い。言い換えれば、うしろの戸を開けておいて、いつでも出られる自由を残しておきたいという人である。
確かにこういう信仰生活は気楽で楽しい。聖日を厳守し、日ごとにみ言葉を読み、祈りをする信仰生活は堅苦しく窮屈である。
しかし信仰生活の喜びは信仰生活の堅苦しさではなく、そこに神との出会いがあるから、そうしているのである。それは登山家の喜びと似ている。登山家の喜びは重い荷物を背負って山坂を登る苦しみではなく、下界とまったく異なる別天地に呼吸することにある。
本当の信仰の喜びは、自己本位な信仰生活を送っている人には味わうことができない。いつまでたっても信仰生活に歓喜が訪れない。なぜなら、彼らは信仰に閉じ込められることを嫌っている。
この”閉じ込め”は神の好意、神の愛である。
もしも主がノアのうしろの戸を閉じたまわなかったら、ノアは箱舟生活の単調さに耐えかねて外にでてしまい、せっかくの救いの恵みから転落したのではなかろうか。閉じ込められていたが故に、彼はまる一年もの間、二匹ずつの生き物たちとともに箱舟にとどまることができ、神の約束を受けることができた。
現実はきびしく、われわれは弱い
誘惑は執拗であり、われわれの力は乏しい
そうした中で信仰の高嶺に立つために、われわれは信仰の束縛を避けてはならない
うしろの戸を閉ざしたもう主を否んではならない
主よ
うしろの戸を閉ざしていただきました。
感謝します。
もう振り返りません
もはや罪の生活には戻りません
主よ
あなたがそうして下さいました
ありがとうございます
感謝します
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
舌は火であり・・・
「きょうの祈り」 7月5日
F・W・マイアー/小畑進
jam3:6 舌は火であり、上義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
F・W・マイアー/小畑進
jam3:6 舌は火であり、上義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
ヤコブ3章6節
全知なる神様。口には関所がありません。
制御しなければ口は虎、舌は剣となって、人を食い、人を突きまくって、なお飽き足らなくなります。
しかして主よ
私の生活、それもあかしの生活の半分はことばから成り立っています。
あのバプテスマのヨハネは”荒野で叫ぶもの”と呼ばれました。
今日も、あなたが与えてくださったこの1枚の舌を、一言でも救いの福音を伝える器官とさせてください。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
制御しなければ口は虎、舌は剣となって、人を食い、人を突きまくって、なお飽き足らなくなります。
しかして主よ
私の生活、それもあかしの生活の半分はことばから成り立っています。
あのバプテスマのヨハネは”荒野で叫ぶもの”と呼ばれました。
今日も、あなたが与えてくださったこの1枚の舌を、一言でも救いの福音を伝える器官とさせてください。
主の御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
2016年7月1日金曜日
徹底的な信仰心
ちいろば先生の「旧約一日一生」より
創世記6章22節
ノアはすべて神の命じられたようにした。
人々がこの世の快楽に酔いしれているとき、ノアは神の言葉を聞き、全身全霊を打ち込んで箱舟を建造していった。その建造期間はじつに100年もの長きに渡った。これがノアの信仰の姿であり、信仰の基本的態度がある。しかも聖書は「ノアはすべて神の命じられたようにした」と記し、ノアがいかに徹底的にみ言葉に従ったかを示している。私たちも、神の言葉を聞くということは、ノアと同じような戦いを必要とする。
信仰生活とは、全知全能の神の栄光を拝する生活であり、神の栄光にあずかる喜びの人生である。この勝利は、「すべて神の命じられたようにした」者だけがあずかることができる。
主よ
わたしは自分の信仰の不徹底さを嘆きます。
もっと信仰心を強くしてください。
主よ
あなたがそうしてください。
どうか、ノアの後に続く者になりますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン
創世記6章22節
ノアはすべて神の命じられたようにした。
人々がこの世の快楽に酔いしれているとき、ノアは神の言葉を聞き、全身全霊を打ち込んで箱舟を建造していった。その建造期間はじつに100年もの長きに渡った。これがノアの信仰の姿であり、信仰の基本的態度がある。しかも聖書は「ノアはすべて神の命じられたようにした」と記し、ノアがいかに徹底的にみ言葉に従ったかを示している。私たちも、神の言葉を聞くということは、ノアと同じような戦いを必要とする。
信仰生活とは、全知全能の神の栄光を拝する生活であり、神の栄光にあずかる喜びの人生である。この勝利は、「すべて神の命じられたようにした」者だけがあずかることができる。
主よ
わたしは自分の信仰の不徹底さを嘆きます。
もっと信仰心を強くしてください。
主よ
あなたがそうしてください。
どうか、ノアの後に続く者になりますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りをお捧げ申し上げます。
アーメン